何もしない日
休日。
それは、とても素晴らしい言葉だ。
前世でも好きだった。
今世でも好きだ。
何もしなくていい日。
朝寝坊してもいい。
好きな本を読んでもいい。
お茶を飲みながらぼんやりしてもいい。
仕事のことなんて考えなくていい。
そう。
仕事のことなんて。
「奥様」
「何?」
「何をなさっているのでしょう」
「何もしてないわよ」
「左様でございますか」
「ええ」
「では、その右手にお持ちのものは」
「…………」
私は右手を見る。
帳面。
「本」
「帳面でございます」
「読むものという意味では本の仲間よ」
「左手は」
「…………」
左手。
領地の報告書。
「紙」
「報告書でございます」
「紙でできているでしょう?」
「旦那様」
「何故、私を呼ぶ」
朝食の席。
向かい側で紅茶を飲んでいたレオニスが、心底嫌そうな顔をした。
「奥様が休日を理解しておられません」
「私にどうしろと」
「夫として、対応していただければ」
「都合のいい時だけ役職を変えられては困る」
「夫は役職じゃないでしょう!」
セリーヌとレオニスのやりとりに思わずツッコミを入れずにはいられなかった。
「お母様」
隣からエステルの声。
「今日はお仕事をなさらないのでは?」
「してないわよ」
「それはお仕事の紙ではありませんの?」
「…………」
八歳。
強い。
「ちょっと見るだけ」
「昨日もそう仰っていました」
「昨日?」
「『ちょっとだけ確認する』と」
「…………」
「その後、お夕食に遅れました」
覚えてる。
覚えてるけど。
「五分くらいでしょう?」
「十八分でございます」
セリーヌ。
「数えてたの?」
「時計がございましたので」
「時計はそういう使い方をするものではないわ」
「時間を測る以外に、どのような使い方が」
「正論で殴らないで」
レオニスがカップを置いた。
「ミレーヌ」
「何?」
「今日は休め」
「休んでるわよ」
「帳面を置け」
「嫌」
「報告書も」
「嫌」
「子供か」
「あなたに言われたくない」
「何故だ」
「エステルの婚約の話をした時、六歳は早いってずっと言ってたでしょう」
「早い」
「今その話してない!」
自分で振っておいて何だけど。
まだ言うのか。
「お父様」
エステルが真剣な顔でレオニスを見る。
「わたくしはもう八歳です」
「ああ」
「二年経ちました」
「ああ」
「大きくなりました」
「ああ」
「ですから」
「婚約は早い」
「まだ何も言ってませんわ!」
エステルが珍しく声を上げた。
セリーヌが静かに目を伏せる。
肩。
震えてない?
「セリーヌ」
「何でございましょう」
「笑ってる?」
「まさか」
「顔見せて」
「給仕中でございますので」
「こっち向いて」
「紅茶のお代わりはいかがでしょう」
「逃げたわね」
◇
事の発端は三日前。
レオニスが珍しく、丸一日予定のない日を確保した。
私も、大きな予定はない。
エステルも授業がお休み。
ならば家族でゆっくり過ごそう。
そう決めた。
決めたのだ。
決めたはずなのだ。
ただ。
最近ちょっと、気になることが増えた。
東の渡し。
北の石橋。
市場。
輸送。
人の名前。
領地の数字。
学院についても、そろそろ調べたい。
エステルはまだ八歳だけれど、ゲームが始まる時は確実に近づいている。
今すぐ何かが起きるわけではない。
分かっている。
分かっているけど。
知っておけば安心するじゃない?
人間。
安心したいじゃない?
「没収する」
「え?」
レオニスの手が伸びた。
「あっ」
帳面が消えた。
「ちょっと!」
「今日は返さない」
「横暴!」
「公爵だからな」
「そういう時だけ公爵になるのやめて!」
「お前が言ったのだろう。立場とは、できることの範囲だと」
「それ私じゃなくてあなたがエステルに教えたやつ!」
「よく覚えているな」
「覚えてるわよ!」
「お父様」
エステルが感心した顔をする。
「とても上手ですわ」
「何が?」
「お母様から帳面を取り上げるのが」
「褒めないで、エステル」
「ありがとう」
「あなたも受け取らない!」
レオニスが帳面をセリーヌへ渡す。
「預かっておけ」
「承知いたしました」
「セリーヌ!」
「本日の業務命令でございますので」
「誰の味方なの!?」
「グランヴェル家のメイドでございます」
「それ前にも聞いた!」
「便利な答えですので」
このメイド。
絶対気に入ってる。
◇
こうして。
私は強制的に休日を与えられた。
おかしい。
休日ってもっと嬉しいものじゃなかった?
「それで」
私は居間のソファに座る。
「何をするの?」
レオニスが本を開く。
「好きにすればいい」
「帳面」
「駄目だ」
「報告書」
「駄目だ」
「仕事部屋」
「鍵をかけた」
「そこまでする!?」
「セリーヌが」
「セリーヌ!」
「念のためでございます」
「何の念!?」
「奥様への信頼でございます」
「それ絶対逆の意味よね!?」
エステルは窓辺で何かを考えていた。
「では、庭へ行きましょう」
「庭?」
「はい。お天気が良いですもの」
「いいわね」
散歩。
健全。
休日っぽい。
「お父様も」
「私はここで」
「行きましょう」
「いや」
「今日は家族で過ごす日です」
「…………」
「お父様?」
「分かった」
弱い。
娘に弱い。
知ってたけど。
「レオニス」
「何だ」
「今、私の時より早く折れなかった?」
「気のせいだ」
「帳面は即没収したのに?」
「気のせいだ」
「エステル」
「何ですの?」
「お父様に帳面返してって言って」
「嫌です」
「何で!?」
◇
庭へ出た。
空は青い。
風は穏やか。
花壇には季節の花。
少し離れた芝生では、庭師たちが朝の仕事を終えたところらしい。
いい。
こういうのでいいのよ。
何もしない日。
ただ歩く。
家族で。
のんびり。
「あ」
エステルが立ち止まった。
「何?」
「蝶ですわ」
白い蝶が一匹。
花壇の上をふわふわ飛んでいる。
「綺麗ね」
「捕まえられるでしょうか」
「見るだけにしておきなさい」
レオニスが言う。
「何故です?」
「花壇に入ることになる」
「入りません」
「では無理だろう」
「できます」
「エステル」
私には分かる。
この顔。
負けず嫌いの顔。
「蝶と勝負しないの」
「勝負ではありません」
「じゃあ何?」
「捕まえられるかの確認です」
「それを世間では勝負って言うのよ」
蝶がひらひらと移動する。
エステルの目も移動する。
レオニスの目も移動する。
「…………」
「レオニス?」
「何だ」
「あなたまで見ない」
「見ているだけだ」
「本当に?」
「ああ」
蝶が芝生側へ出た。
エステルが動いた。
「今ですわ!」
「エステル!」
走る。
蝶は逃げる。
当然。
「待ちなさい!」
何故かレオニスも走った。
「何であなたまで!?」
「転ぶ!」
「だったら止めなさいよ!」
「止まれ、エステル!」
「もう少しですわ!」
「蝶は待ってくれないわよ!」
私も走る。
何これ。
公爵一家が。
蝶一匹を追っている。
「奥様」
後ろからセリーヌの声。
「何!?」
「走られますと危のうございます」
「今それ言う!?」
「旦那様にも申し上げました」
「聞いてないぞ!」
「先ほど」
「聞こえていない!」
「では、申し上げた意味がございませんね」
「冷静に分析しないで!」
蝶は。
ひらり。
ひらり。
ひらり。
そして。
レオニスの肩に止まった。
「…………」
「…………」
「…………」
全員止まる。
レオニスだけが動けない。
「お父様」
「何だ」
「動かないでくださいませ」
「分かっている」
「絶対ですわよ」
「ああ」
エステルが。
そっと近づく。
一歩。
二歩。
三歩。
手を伸ばす。
蝶が飛んだ。
「あっ!」
エステルが跳ぶ。
レオニスも反射的に手を伸ばす。
ごつん。
「痛っ」
「……痛い」
父娘の額がぶつかった。
「…………」
私は。
耐えた。
耐えようとした。
「ふっ」
「お母様」
「ごめ……」
「笑いましたわね」
「笑ってない」
「笑った」
レオニスまで。
「あなたは味方でしょう!?」
「事実だ」
「二人でぶつかった方が悪いでしょう!」
「お母様も追いかけていました」
「それはあなたが走ったから!」
「お父様もです」
「私はお前が転ばないように」
「蝶に手を伸ばしていましたわ」
「…………」
「お父様?」
「…………」
「レオニス?」
「確認だ」
「何の!?」
「捕まえられるかの」
「エステルと同じこと言ってる!」
後ろで。
セリーヌが。
「ふふっ」
笑った。
今。
絶対。
笑った。
三人で振り向く。
「セリーヌ」
「何でございましょう」
「笑ったでしょう」
「まさか」
「笑いましたわ」
「笑ったな」
「旦那様まで」
「四対一ね」
「三対一でございます」
「蝶を入れたの」
「蝶を証人に数えないでくださいませ」
◇
蝶は逃げた。
当たり前だ。
捕まえる必要もない。
エステルは少し残念そうだったけれど。
「次は捕まえます」
「まだやるの?」
「次に会った時です」
「蝶の顔、覚えてる?」
「白かったです」
「白い蝶、たくさんいるわよ」
「では全部です」
「増えた!」
負けず嫌い。
対象を選ばない。
「お父様も手伝ってください」
「ああ」
「約束ですわよ」
「ああ」
「レオニス」
「何だ」
「教育的に止めるところじゃない?」
「花壇に入らなければ問題ない」
「そこ!?」
「約束は守らねばならん」
「蝶を捕まえる約束を公爵の責任感で語らないで」
セリーヌがため息をつく。
「奥様」
「何?」
「旦那様に常識を求めるのは、時と場合をお選びくださいませ」
「どういう意味?」
「お嬢様が関わっておられる時は、成功率が下がります」
「セリーヌ」
「何でございましょう、旦那様」
「後で話がある」
「本日は休日でございます」
「お前は仕事中だろう」
「残念でございます」
「全然残念そうじゃない!」
◇
昼食は。
何故か庭で取ることになった。
エステルの提案。
セリーヌと使用人たちが、あっという間に準備を整えてしまった。
敷物。
籠。
サンドイッチ。
果物。
焼き菓子。
飲み物。
「すごい」
「簡単なものでございます」
「これが簡単?」
「厨房の者が張り切りましたので」
「急にお願いしたのに?」
「奥様方が庭を走り回っておられるのが見えたそうです」
「…………」
「何故か、昼食は外になるだろうと」
「どうして!?」
「長年のお付き合いでございますので」
怖い。
グランヴェル家の使用人。
未来予知する。
「お母様」
「何?」
「こちらへ」
エステルが敷物を叩く。
「はいはい」
座る。
隣にエステル。
向かいにレオニス。
セリーヌは少し離れて控えている。
「あなたも座れば?」
「勤務中でございます」
「今日は家族で過ごす日でしょう?」
「私はメイドでございますので」
「じゃあ、家族じゃないの?」
言ったのは。
エステルだった。
「…………」
セリーヌが止まった。
珍しい。
「お嬢様」
「何ですの?」
「そのような言い方は、ずるうございます」
「何がです?」
「断りにくくなります」
「では座ってください」
「…………」
エステル。
強い。
レオニスを見る。
彼は何も言わず。
自分の横の空いた場所を示した。
セリーヌが。
ほんの少し。
困った顔をする。
「旦那様まで」
「今日は家族で過ごす日らしい」
「お前が言ったのだろう」
私を見る。
「そうだけど」
「なら、責任を取れ」
「何の責任よ」
「セリーヌを休ませる責任だ」
「私に押しつけた!」
「公爵夫人だからな」
「またそれ!」
セリーヌが。
とうとう。
小さく息を吐いた。
「では」
エプロンを整えて。
座る。
「少しだけ、失礼いたします」
「はい」
エステルが満足そうに頷いた。
何故あなたが主人みたいなの。
いや。
主人か。
◇
食事は。
普通だった。
普通に食べて。
普通に話した。
エステルが最近読んだ本の話。
レオニスが庭の木を一本植え替える予定だという話。
セリーヌが厨房の新人が砂糖と塩を間違えかけた話。
「間違えかけた?」
「はい」
「間違えてはいないの?」
「私が止めましたので」
「何で分かったの?」
「容器を見ておりましたら、何となく」
「すごい」
「長く勤めておりますと」
「何でも分かるのね」
「何でもではございません」
「でも私が帳面を隠しても分かりそう」
「分かります」
「即答」
「奥様は隠す時、妙に平静を装われますので」
「…………」
「普段より上品になります」
「何それ!?」
「分かる」
レオニス。
「あなたまで!?」
「お母様、分かりやすいですわ」
「エステルまで!?」
三対一。
ひどい。
「じゃあレオニスは?」
「何だ」
「何か隠してる時、分かりやすい?」
「旦那様は」
セリーヌが即答した。
「お嬢様への贈り物を隠される時だけ、非常に分かりやすうございます」
「セリーヌ」
「何でございましょう」
「それ以上言うな」
「お父様?」
エステルの目が輝いた。
「何かございますの?」
「ない」
「今、ある顔ですわ」
「ない」
「お誕生日はまだ先です」
「そうだな」
「では何です?」
「何もない」
「お父様」
「何だ」
「わたくし、気になります」
「…………」
弱い。
ものすごく弱い。
レオニスの視線が泳いだ。
あのレオニスが。
王家の会議でも表情を崩さない男が。
八歳の娘に見つめられて。
泳いでいる。
「レオニス」
「何だ」
「頑張れ」
「黙れ」
「頑張って」
「楽しんでいるだろう」
「すごく」
「お母様」
「何?」
「ご存じなのですか?」
「知らない」
「本当に?」
「本当に」
「では、一緒に聞きましょう」
「いいわね」
「ミレーヌ」
「何?」
「裏切るのか」
「何の同盟を結んだ覚えもないわ」
「夫婦だろう」
「今だけ夫になるの?」
「…………」
勝った。
レオニスが黙った。
気持ちいい。
「セリーヌ」
「はい」
「何か知ってる?」
「存じております」
「教えて」
「旦那様より口止めされております」
「私、公爵夫人よ」
「存じております」
「命令したら?」
「奥様」
セリーヌが。
にっこり笑った。
「休日でございます」
「便利に使うなあ!」
◇
結局。
贈り物の正体は聞けなかった。
エステルは悔しそうだった。
レオニスは疲れていた。
私は楽しかった。
セリーヌは。
たぶん。
一番楽しんでいた。
「お母様」
昼食の後。
芝生に寝転がったエステルが言う。
「何?」
「雲が犬みたいです」
「どれ?」
「あれです」
「ああ」
「犬というより馬じゃない?」
「犬ですわ」
「馬よ」
「犬です」
「レオニス」
「巻き込むな」
「どっちに見える?」
「雲だ」
「そういう答えいらない」
「旦那様」
「何だ」
「私は鶏に見えます」
「セリーヌまで!」
「では四つですわね」
「何が?」
「雲一つで四つ見えました」
「…………」
エステルは。
それだけ言って。
また空を見る。
私は。
何となく。
その横顔を見た。
何か。
意味のあることを。
言ったわけじゃない。
成長したわけでも。
何かを学んだわけでも。
ただ。
雲を見ている。
それでいい。
今日は。
そういう日だ。
◇
夕方。
屋敷へ戻る。
「疲れましたわ」
「何もしてないのに?」
「蝶を追いました」
「してたわね」
「お父様とぶつかりました」
「それもしてた」
「お昼もたくさん食べました」
「それはいつもでしょう」
「今日は外でした」
「違いある?」
「あります」
「何が?」
「気分です」
「なるほど」
分かるような。
分からないような。
でも。
エステルが楽しそうなので。
たぶん。
あるのだろう。
「お母様は?」
「何?」
「楽しかったですか?」
「ええ」
「お仕事をしなくても?」
「…………」
そこ。
確認する?
「楽しかったわよ」
「良かったです」
満足そう。
レオニスが隣で言う。
「明日も休むか」
「それは嫌」
「何故だ」
「仕事する」
「一日で戻ったな」
「だって気になるもの」
「何が」
「いろいろ」
「雑だな」
「聞き方を変えたまえ」
「誰の真似だ」
「分かった?」
「ああ」
ちょっと似てたらしい。
◇
部屋へ戻る。
机の上。
帳面は。
ない。
「…………」
そうだった。
没収中。
「セリーヌ」
「はい」
「返して」
「まだ本日でございます」
「もう夕方よ」
「本日は本日でございます」
「夜になったら?」
「本日は本日でございます」
「日付が変わったら?」
「お休みくださいませ」
「厳しい!」
「奥様」
「何?」
「一日くらい、何も書かなくてもよろしいのでは」
「…………」
私は。
少し考える。
今日。
書くこと。
ある?
蝶。
レオニスとエステルが頭をぶつけた。
セリーヌが一緒に昼食を食べた。
雲が犬で馬で鶏だった。
レオニスが何か贈り物を隠している。
……ある。
「書くこといっぱいある」
「明日でも忘れません」
「忘れるかもしれない」
「では、忘れてもよろしいのでは」
「…………」
忘れても。
いい?
それは。
少し。
変な感じがした。
私は。
未来を変えようとしている。
忘れてはいけないことを。
ずっと。
集めてきた。
ゲームの記憶。
人の名前。
数字。
道。
出来事。
エステルの変化。
アレクの変化。
何か一つ。
見落としたら。
それが。
いつか。
破滅に繋がる気がして。
「…………」
でも。
今日の蝶を。
忘れたところで。
たぶん。
誰も破滅しない。
「そうね」
「はい」
「忘れてもいいか」
「はい」
「でもレオニスの贈り物は覚えておく」
「そちらは旦那様がお困りになります」
「だから」
「奥様」
「何?」
「悪いお顔でございます」
「休日だから」
「便利に使われますね」
「あなたに言われたくないわ」
セリーヌが笑った。
私も笑った。
◇
夜。
寝室。
レオニスが先に本を読んでいた。
「ねえ」
「何だ」
「贈り物って何?」
「まだ言っていたのか」
「気になる」
「お前へのものではない」
「知ってる」
「なら待て」
「エステルへの何?」
「言わない」
「ヒント」
「ない」
「大きい?」
「言わない」
「小さい?」
「言わない」
「食べ物?」
「違う」
「答えた!」
「…………」
「食べ物じゃないのね」
「寝ろ」
「動物?」
「ミレーヌ」
「何?」
「明日、帳面を返さないぞ」
「卑怯!」
「効いたな」
「公爵が権力を私物化してる!」
「家庭内の帳面一冊に公権力を使った覚えはない」
「じゃあ夫として?」
「そうだ」
「今だけ夫になるの!?」
レオニスが。
ふっと笑った。
珍しく。
声まで少し漏れた。
「何よ」
「いや」
「何?」
「今日はよく喋るなと思ってな」
「いつも喋ってるでしょう」
「仕事の話ではなく」
「…………」
「悪くない」
そう言って。
また本へ目を落とす。
ずるい。
こういう時だけ。
ちょっと。
格好いい。
「レオニス」
「何だ」
「明日、帳面返してね」
「お前次第だ」
「何よそれ」
「朝まで仕事をしなければ返す」
「寝てるわよ」
「なら問題ない」
「信用ないなあ」
「ある」
「どこに?」
「だから一日で済ませた」
「…………」
それ。
信用?
微妙。
「おやすみ」
「ああ」
灯りを落とす。
暗くなる。
静かになる。
今日。
私は。
何もしなかった。
領地の問題を解決していない。
ゲームの情報も増えていない。
破滅フラグも折っていない。
娘を教育したわけでもない。
誰かの努力について考えたわけでもない。
ただ。
家族で。
蝶を追って。
ご飯を食べて。
雲を見た。
それだけ。
それだけなのに。
「……楽しかったな」
「何か言ったか」
「何も」
「そうか」
明日になれば。
また。
私は帳面を開く。
知らないことを調べる。
人に会う。
エステルの未来を考える。
きっと。
慌てる。
空回りもする。
でも。
今日は。
何もしない日だった。
何もしなくても。
ちゃんと。
一日は。
残るらしい。
帳面に書かなくても。
たぶん。
大丈夫。
「……レオニス」
「今度は何だ」
「蝶、捕まえようとしてたでしょう」
「寝ろ」
「やっぱり」
「寝ろ」
「ふふっ」
「ミレーヌ」
「はいはい」
目を閉じる。
明日。
セリーヌから帳面を取り返したら。
最初に何を書こう。
少し考えて。
やめた。
それは。
明日の私に。
任せることにした。




