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知らない名前


 知らない名前が増えた。


 最近の私の帳面には、人の名前が増えている。


 領地の役人。商人。職人。農村の代表。橋を直した人。道を使っている人。数字に強い人。


 そして、その横に短いメモ。


『北西部の道に詳しい』

『羊毛の取引』

『河川工事』

『穀物価格』

『話が長い』

『数字に強い』

『たぶん面倒』


 最後の一人については、本人に見られたら怒られるだろうか。


 いや。


 笑う気がする。


「奥様」


「何?」


「人名録でしょうか」


「違うわよ」


「では、何でございましょう」


「……破滅フラグ対策帳」


「ますます分からなくなりました」


「私もよ」


 正直、私にもよく分からなくなってきた。


     ◇


 最初はもっと単純だった。


 エステル。アレクシス。婚約。学院。主人公。断罪。破滅。


 ゲームの記憶から危なそうな言葉を拾って、その間を何とか埋めようとしていた。


 でも今、帳面を開けば、ゲームでは見た覚えのない名前ばかり。


 そして、その人たちの方が今の私には役に立つことがある。


「…………」


 何だろう、これ。


 攻略情報を集めていたはずが、いつの間にか人間関係を作っている。


「悪くはないわよね」


「何がでしょう」


「独り言」


「左様でございますか」


「聞かないで」


「聞いておりません」


「返事してるじゃない」


     ◇


 その日。


 グランヴェル家に一通の手紙が届いた。


 差出人は、見覚えのある名前。


 オルフェン・バルト。


「…………」


 私は少し嬉しくなった。


 何故だろう。


 別に友人というほど親しくはない。会ったのもまだ数えるほど。


 でも、あの老人から手紙が来ると、何か面倒なことが書いてありそうで、ちょっと楽しみになる。


 開く。


『公爵夫人へ。


 先日の北西部の街道について、商人仲間から話を聞いた。

 荷馬車が戻り始めているそうだ。大変結構。


 ところで、道が通るようになったのであれば、その先も見ておいた方がいい。

 物は、道があるから流れるのではない。売る者と買う者がいるから流れる。


 暇なら、一度市場へ来なさい。


 第一回の相談料は無料と言ったが、見学料については約束していない。


 オルフェン・バルト』


「…………」


 最後の一文。


 絶対いらない。


「楽しそうですね」


 セリーヌが言う。


「そう見える?」


「はい」


「面倒な人から面倒な手紙が来ただけよ」


「では、お断りに?」


「行く」


「左様でございますか」


 何、その、分かってました、みたいな顔。


     ◇


 市場。


 と聞いて、私は少し間違った想像をしていた。


 露店。野菜。肉。魚。布。人。賑やかな声。


 もちろん、そういう市場もある。


 でも、オルフェンに指定された場所は違った。


「倉庫?」


「市場だよ」


「倉庫にしか見えませんけど」


「君は、買い物をする場所だけが市場だと思っているのかね」


「…………」


 図星。


 王都の外縁。大きな街道沿い。


 倉庫が並ぶ一角。


 荷馬車。荷車。木箱。麻袋。樽。人。


 とにかく物と人が動いている。


「ここでは、何を売ってるんです?」


「いろいろだ」


「雑」


「では聞き方を変えたまえ」


「…………」


 この人、やっぱり面倒。


「今日は何が多いんです?」


「小麦。干し豆。羊毛。北から来た塩漬け肉。それから南の果実酒」


「なるほど」


「君の領地から来た物もある」


「どれ?」


 オルフェンが顎で示す。


 積み上げられた麻袋。


「小麦?」


「そうだ」


 私は近づく。


 袋を見ても、小麦としか分からない。


「これが?」


「北西部の村から来たものだ」


「…………」


 あの道が頭に浮かぶ。


 橋。曲がり角。荷馬車。


「通ってきたのね」


「道を?」


「ええ」


「そうだろうな」


 オルフェンは何でもないように言う。


 でも、私には少し不思議だった。


 報告書の数字。取引量。輸送費。


 それが今、目の前に袋になって積まれている。


     ◇


「で」


 私は訊く。


「何を見ればいいんです?」


「好きに見たまえ」


「それが分からないから来たんですけど」


「では、何が知りたい?」


「…………」


 何が知りたい。


 私は市場を見回す。


 人。物。声。値段。交渉。荷車。


「この小麦が、この後どうなるのか」


「ほう」


「村からここまで来た。その後」


「買われる」


「誰に?」


「それを見ればいい」


「教えてくれないんですか?」


「教えてもいいが」


 オルフェンが少し笑う。


「君は最近、見ることを覚えたのだろう?」


「…………」


 どこで聞いた。


「商人の情報網を侮らない方がいい」


「怖い」


「便利だよ」


「使う側には、でしょうね」


     ◇


 しばらく見た。


 本当に、ただ見た。


 小麦の袋を確認する人。帳面に書く人。値段を話す人。運ぶ人。別の荷車へ積む人。


「パン屋?」


 私は買い手らしい男を見る。


「一部はね」


「一部?」


「粉屋だ」


「あ」


「小麦をそのままパン屋へ持っていくとは限らん」


「なるほど」


「粉にする。粉になれば、また売る。その途中で保管する者もいる。運ぶ者もいる。金を貸す者もいる」


「金を?」


「仕入れには金がいる」


「そうか」


「売ってから払う契約もある」


「…………」


「一袋の小麦に、何人いると思う?」


「分かりません」


「私も正確には知らん」


「知らないんですか」


「知る必要がある時に調べればいい」


「…………」


 また、それ。


 最近、みんな同じことを言う。


 いや。


 私が同じことに気づき始めただけか。


     ◇


「公爵夫人」


 声をかけられた。


 振り向く。


 四十代くらいの女性。


 地味な服。でも立ち姿に妙な勢いがある。


「お初にお目にかかります。ネラ・ハーディと申します」


「ネラさん」


「ハーディ運送組合で、荷の手配をしております」


「運送組合?」


「荷馬車と御者の割り振りを」


「ああ」


 私は少し興味が湧く。


「もしかして、北西部の道も?」


「はい」


「使ってます?」


「使っています」


「良かった」


「助かりました」


「え?」


「待避場所を戻していただいた件です」


「…………」


 あの曲がり角。


「やっぱり、困ってた?」


「大変に」


 即答。


 何故、この人たち、嫌なことを聞くと即答なの。


「橋が直ったと聞いて、一度戻したのですが、曲がり角で二台詰まりまして。片方を坂の下まで戻しました」


「荷が重い時は大変ですよね」


「麦でしたので、馬も御者も。それ以来、また南へ回していました」


「今は?」


「戻しています」


「そう」


 嬉しい。


 本当に。


「ただ」


 ネラが言う。


「今度は、東の渡しが少し」


「…………」


「東?」


「雨の後、岸が崩れやすくなっております」


 私はオルフェンを見る。


 笑っている。


「何です?」


「一つ直すと、次が見える」


「…………」


「世界とは、そういうものだ」


「終わらないじゃないですか」


「終わると思っていたのかね」


「…………」


 思ってた。


 ちょっと。


     ◇


「東の渡し」


 私は帳面を出す。


「場所は?」


 ネラが説明してくれる。


 川。村。街道。使う季節。雨の後。荷の種類。


 私は書く。


「他には?」


「他?」


「困ってる道」


「よろしいのですか?」


「聞くだけなら」


「では。南の丘道は冬場に凍ります。西の森は春先に枝が張り出します。北の石橋は」


「待って」


「はい」


「多い」


「はい」


「…………」


「全部、今すぐ直してほしいという話ではございません」


「え?」


「困っている場所と、直すべき場所は別です」


「どういうこと?」


「多少不便でも回り道がある場所もございます。年に数日しか問題にならない道もある。反対に、少しの不具合でも多くの荷が止まる場所もあります」


「…………」


「ですから、どこが困っているかだけではなく、どこが止まると何が止まるかを見た方がよろしいかと」


 私は黙った。


 この人、すごい。


「オルフェンさん」


「何だね」


「この人、欲しい」


「奥様」


 セリーヌ。


「人を物のように仰らないでくださいませ」


「違うの。そういう意味じゃなくて」


 ネラが声を上げて笑った。


     ◇


 昼。


 市場の端にある小さな食堂で、私たちは簡単な昼食を取った。


 パン。豆の煮込み。焼いた肉。


「おいしい」


「そうだろう」


「オルフェンさんが作ったわけじゃないでしょう」


「私が選んだ店だ」


「そこは自慢するんですね」


「商人は、良いものを見つけるのも仕事だよ」


「便利な職業ですね」


「そう思うなら、商人になればよかった」


「公爵夫人になる予定もなかったんですけど」


「ほう」


「…………」


 危ない。


 今の、前世の話に寄りすぎた。


「人生、予定通りにはいかないという意味です」


「そうだな」


 オルフェンはそれ以上追及しなかった。


 助かる。


「ところで、さっきのネラさん」


「うん」


「すごいですね」


「優秀だ」


「運送組合の人なんですよね」


「そうだ」


「王宮とかで働いたことは?」


「ない」


「貴族家は?」


「ない」


「学院は?」


「通っていない」


「…………」


 私は少し驚いた。


「どうして、あんなに」


「道を使っているからだ」


「…………」


「二十年以上、荷を動かしている。若い頃は御者もしていた」


「へえ」


「荷が止まれば誰が怒るか。どこへ回せば何日遅れるか。馬が何頭いるか。雨が降ればどこが駄目になるか。彼女にとっては、全部仕事だ」


 私はさっきのネラの言葉を思い出す。


『どこが止まると何が止まるか』


「知識って、学校で覚えるものだけじゃないんですね」


「今さらかね」


「今さらです」


「結構」


「馬鹿にしてます?」


「褒めている。君は最近、知らないことを知らないと言えるようになった」


「…………」


「前は、知らないことまで自分で調べてから来ようとしていた」


「…………」


「時間の無駄だ」


「言い方」


「事実だ」


「でも、自分で調べるのも必要でしょう?」


「もちろん」


「じゃあ」


「何を自分で調べ、何を人に聞くか。それを決めるのも知識だよ」


 オルフェンが豆を食べる。


「君は公爵夫人だ。全部の道を歩く必要はない。全部の荷馬車に乗る必要もない。だが」


 細い眼鏡の向こうの目が私を見る。


「誰に聞けば、その道のことが分かるかは、知っておいた方がいい」


「…………」


 私は笑った。


「同じこと、最近帳面に書きました」


「何と?」


「教えません」


「では相談料を取ろう」


「何で」


     ◇


 帰宅したのは夕方だった。


「お帰りなさいませ!」


 エステルが玄関まで来た。


「ただいま」


「市場はいかがでした?」


「面白かったわ」


「何がありました?」


「小麦」


「小麦?」


「あと豆。羊毛。肉。果実酒」


「お買い物ですの?」


「違うのよ」


「では?」


 私は少し考える。


「物が、どうやって動くかを見てきたの」


「物は、馬車で動きます」


「そうなんだけど」


「違いますの?」


「合ってる。合ってるけど、もう少し」


 説明、難しい。


「村で小麦を作るでしょう?」


「はい」


「それを荷馬車で運ぶ」


「はい」


「市場で売る」


「はい」


「粉屋さんが買う」


「はい」


「粉にする」


「はい」


「また運ぶ」


「はい」


「パン屋さんが買う」


「はい」


「パンにする」


「食べます」


「そう」


 エステルが少し考える。


「長いですわね」


「長いのよ」


「小麦なのに」


「小麦だからよ」


「…………」


「あなたが朝食べてるパンも、誰かが麦を育てて、誰かが運んで、誰かが粉にして、また誰かが運んで、誰かが焼いてる。たぶん、もっといる」


「そんなに?」


「いるみたい」


 エステルが少し驚いた顔をする。


「お名前は?」


「え?」


「その人たちの」


「…………」


 分からない。


「知らないわ」


「そうですの」


「でも、一人、知った」


「誰です?」


「ネラ・ハーディさん」


「何をする方?」


「荷馬車を、どこへ走らせるか決める人」


「偉い方ですの?」


「うーん」


 また難しい質問。


「大事な仕事をしている人」


「お母様より?」


「比べるものじゃないわ」


「でも、お母様が知らないことを知っている?」


「いっぱい」


「…………」


 エステルが何故か嬉しそうに笑った。


「何?」


「お母様も、知らない人に教えてもらったのですね」


「そうよ」


「ちゃんと聞けました?」


「聞けました」


「できましたわね」


「…………」


 褒められた。


 八歳に。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 得意そう。


     ◇


 夜。


 レオニスにも市場で聞いたことを話した。


「運送組合か」


「知ってる?」


「存在は」


「ネラ・ハーディさんって?」


「名前は知らない」


「あなたでも?」


「私が領内外の御者を全員知っていると思うか」


「思ってないけど」


「なら、何故驚く」


「何となく」


 私は書いたメモを机に広げる。


「東の渡し。南の丘道。西の森。北の石橋」


「多いな」


「でしょ?」


「全部直すのか」


「まさか」


「なら?」


「優先順位をつけたい」


「何を基準に」


「どこが止まると、何が止まるか」


 レオニスが私を見る。


「誰に聞いた」


「ネラさん」


「そうか」


「いい考えでしょう?」


「ああ」


 レオニスは地図を引き寄せる。


「なら、領政側の記録も合わせろ。各道の通行量。周辺人口。主要産品。代替路」


「なるほど」


「それと軍の移動路」


「…………」


「有事に使う道は、商取引が少なくても優先度が上がる。河川なら治水もだ。橋は避難路にもなる」


「…………」


「ミレーヌ」


「何?」


「顔が死んでいる」


「増えた」


「何が」


「見るもの」


「そうだな」


「減らない?」


「減らない」


「即答しないで」


 レオニスが少し笑う。


「だから、一人で決めるな。領政官に聞け。商人にも。村にも。必要なら軍にも。最後に決めるのは我々だ」


「……はい」


 我々。


 その言葉が少し嬉しかった。


     ◇


 数日後。


 私は小さな会議を開いた。


 レオニス。領政官。道路工事を担当する役人。運送組合からネラ。商人側からオルフェン。


「何故、私まで」


 オルフェンが言う。


「来たかったんでしょう?」


「呼ばれたから来たのだよ」


「嬉しそうですよ」


「君ほどではない」


「私?」


「顔を見れば分かる」


「最近みんな、私の顔を読みすぎじゃない?」


 セリーヌが後ろで何も言わずお茶を置く。


 言わないで。


 今は。


     ◇


 会議は思ったよりまとまらなかった。


「東の渡しを先に」


 ネラ。


「いや、北の石橋だ」


 領政官。


「南の丘道を放置すれば冬に困る」


 道路担当。


「今年の穀物量なら、東は多少迂回できる」


 オルフェン。


「ですが、春の羊毛は」


「その頃には水位が下がる」


「保証は?」


「ない」


「なら」


「待って」


 私は頭を抱えたくなる。


 みんな言っていることが違う。


 しかも、みんなそれなりに正しい。


 困る。


 非常に困る。


「……レオニス」


「何だ」


「助けて」


「何を」


「まとめて」


「断る」


「何で」


「お前が開いた会議だ」


「夫でしょう?」


「公爵でもある」


「今だけ夫になって」


「都合が良すぎる」


 オルフェンが笑いを堪えている。


「何です?」


「成長したと思ってね」


「どこが」


「助けてと言えた」


「…………」


 この人、覚えてる。


「ただし」


 オルフェンが机の上の地図を見る。


「頼る相手を間違えた」


「え?」


「今、答えを持っている者はいない。だから、集めたのだろう?」


 私は黙る。


 そうだ。


 誰か一人が正解を知っているなら、会議なんていらない。


「では」


 レオニスが言う。


「何を守るための優先順位かを決めろ」


「何を守る」


「費用か。物流か。領民の安全か。軍事か。全部か」


「……全部」


「なら、それぞれに重みをつける」


 私は息を吐く。


「簡単じゃないわね」


「簡単なら、お前を呼ぶ必要はない」


「私が呼んだんだけど」


「なら、呼んだ責任を果たせ」


「厳しい」


「頑張れ」


「…………」


 その言葉。


 最近、少し好きになった。


「分かった」


 私は姿勢を正す。


「もう一度、最初から聞かせてください」


     ◇


 会議は長くなった。


 結論は完璧ではない。


 東の渡しは応急補強。


 北の石橋は詳細調査を先行。


 南の丘道は冬までに危険箇所だけ整備。


 西の森は大規模工事ではなく、定期的な枝払いを地元へ委託。


 全部、一気には直さない。


 でも、全部、放ってもおかない。


「これで、いいのかな」


「分からん」


 オルフェン。


「そこは、いいって言ってくださいよ」


「未来の天候まで読めるなら言おう」


「…………」


「ですが」


 ネラが言う。


「少なくとも、今までよりは困りません」


「本当?」


「はい」


「なら」


 少し肩の力が抜けた。


「良かった」


     ◇


 夜。


 帳面を開く。


 新しい名前。


『ネラ・ハーディ』

『運送組合』

『道が止まると何が止まるかを見る』


 その下に、今日会議にいた人たちの名前を一人ずつ書く。


 以前の私なら、たぶん役職を書いた。


 領政官。商人。役人。御者。


 それで十分だと思った。


 ゲームでもそうだった。


 攻略対象。主人公。悪役令嬢。教師。生徒。店主。衛兵。


 役割。


 役割。


 役割。


 名前すら表示されない人も、たくさんいた。


 でも今、私は名前を書く。


 その人が何を知っているのか。


 何をしているのか。


 何に困っているのか。


 少しずつ覚えていく。


 それは破滅フラグを折ることと、直接関係がないかもしれない。


「…………」


 いや。


 違う。


 私は前なら、そう思った。


 関係がある。関係がない。必要。不要。ゲームに出る。出ない。


 そんなふうに世界を切り分けようとしていた。


 でも、道は画面に映らなくても場所と場所を繋いでいた。


 人も、きっと同じだ。


 誰が、いつ、どこで、誰と繋がるか。


 私には全部なんて分からない。


 なら、今目の前にいる人を、ゲームに必要かどうかで決める必要もない。


 私は帳面の最初の方を開く。


『エステル――婚約者。悪役令嬢』


 昔の文字。


 今見ると少し嫌だった。


 エステル。


 私の娘。


 負けず嫌い。努力家。悔しがり。人の努力を笑うのが嫌い。できないことがある。分からない時は聞ける。アレクを友達としてちゃんと見ている。


 そんな子を。


 たった四文字で。


『悪役令嬢』


 私はそう書いていた。


「…………」


 消そうか。


 少し迷う。


 でも、消さなかった。


 これは、私が最初この子をどう見ていたか、その記録でもある。


 だから、その横に書き足す。


『それだけじゃない』


「…………」


 うん。


 今は、これでいい。


 ゲームの中で名前もなかった人が、今の私に道を教えてくれる。


 ゲームの中で役割だけだった人が、今は自分の仕事をして、自分の考えを持って、私の知らないことを知っている。


 そして。


 ゲームの中で悪役令嬢だった少女は。


 今、隣の部屋で、たぶん明日の勉強の準備をしている。


「奥様」


「何?」


「お嬢様からでございます」


 セリーヌが紙を一枚差し出した。


「エステルから?」


「はい」


 受け取る。


 そこには丁寧な字で名前が書いてあった。


『ネラ・ハーディ』


 その下。


『荷馬車を、どこへ走らせるか決める人』


「…………」


「お嬢様が、忘れないようにと」


「自分の帳面に?」


「はい」


 私は笑った。


「そう」


 娘の帳面にも。


 知らなかった名前が一つ増えた。


 それで何かがすぐに変わるわけではない。


 破滅フラグが一本折れたわけでもない。


 でも。


 たぶん、こういうことなのだ。


 世界を知るというのは。


 地図を広げることではない。


 そこにいる人の名前を、一つずつ知っていくことなのかもしれない。


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