第89話 名を呼ぶ約束
焚き火のそばで。飾らない、不器用な、けれどまぎれもなく本物の――アレンの、約束の言葉。
「……エレノア」
アレンは、銀の環を手のひらにのせたまま、彼女を見つめた。
焚き火の光が、ちらちらとゆれる。ふたりの影が地の上にながくのびていた。夜のしじまが二人を包んでいる。虫の音ひとつしない。ただ、火の爆ぜる音だけが、ときおり静けさをやぶった。
「俺には栄光もない。名も、世界から消えた。……お前に差し出せるものなんて、ほとんど何もない」
アレンはひとつ、大きく息をついた。
「それでも……もしよければ、これから先も、俺のとなりにいてくれないか。畑を耕して、名もない日々を。……お前と生きていきたい」
言いながら、アレンの心臓は早鐘のように高鳴っていた。
断られたらどうしよう。そんな弱気すら頭をよぎった。魔王を前にしてもびくともしなかった男が、この瞬間だけは、ただの、恋するひとりの男にすぎなかった。
それは、不器用で、飾りけのない言葉だった。
うつくしい詩でもなかった。ひざまずいて、うやうやしく告げる。そんなかたちでもなかった。ただ、焚き火のそばで、ぽつり、ぽつりと、おのれの想いをならべただけ。だが、だからこそ、それはまぎれもなく本物だった。
アレンには、まばゆい言葉をならべる才はなかった。にせの英雄なら、もっとうつくしく感動的に告げただろう。だが、エレノアがほしかったのは、まばゆい言葉ではない。飾らない、不器用な、けれど心の底からしぼり出した、この一言一言こそが、彼女の胸にしみとおった。
まばゆい嘘に、二人は旅のあいだじゅう抗ってきた。その果てに交わす言葉が、まばゆくてどうするのだろう。泥くさくて、飾りがなくて、それでもたしかに本物であること。それこそが、二人が守り抜いてきたものだった。
エレノアはしばらくのあいだ、何も言えなかった。
ただ、大きな瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「……ずるい、です」
声が震えて、うまく言葉にならなかった。やっと、彼女はそう言った。
「わたしが……ずっと言いたくても、言えなかったことを、先に言ってしまうなんて」
エレノアは涙をぬぐいもせず、笑った。くしゃくしゃの、だが、世界でいちばんうつくしい笑顔で。
「はい。……よろこんで。あなたのとなりにいます。畑を耕して、名もない日々を。……ずっと、ずっと、あなたと」
言い終えると、エレノアはこらえきれず、アレンの胸に顔をうずめた。
肩が小さくふるえている。うれし泣きだった。彼女がずっとひとりで抱えてきた想い。愛ゆえに言えなかった気持ち。それがようやくかたちになって、せきを切ったように涙があふれた。
アレンは、その細い肩を抱きよせた。かつて泥にまみれた自分を拾い上げてくれた腕を、今度は自分が抱きとめている。長い旅のあいだ幾度も守ろうとしてきた、この人を。
そしてアレンは、銀の環を、そっと彼女の左手の薬指にはめた。
環は、指にぴたりとおさまった。まるで、はじめからそこにあるべきだったかのように。
エレノアはその指を、両手でつつむように胸に抱いた。こわれものをあつかうように、二度と離すまいとするように。
白金の光を放つ英雄の手でも、当代最強の聖女の手でもなかった。ただ、長い旅で少し荒れた、ひとりの女の手にすぎない。その指に、素朴な銀の環が焚き火に照らされてやさしく光った。どんな王冠よりもどんな勲章よりも、うつくしい輝きだった。
かつてエレノアは、数えきれぬ宝飾に飾りたてられた。英雄として聖女として、まばゆい装いをまとわされた。だが、そのどれも彼女の心をふるわせはしなかった。この素朴な銀の環だけが、ちがった。まばゆさはない。だが、ここにはひとりの男の、まっすぐな想いがこもっていた。それが、何よりの輝きだった。
「なあ……エレノア」
アレンは、彼女の手を両手で包んだ。
「約束する。……俺はこれから先、毎日、お前の名を呼ぶ。朝、目が覚めたら、いちばんに。夜、眠る前に、もういちど。……お前が世界じゅうから忘れられても、俺だけは、ぜったいに忘れない」
それは、この旅で二人が学んだ、いちばん大切なことだった。名を呼ぶこと。忘れないこと。……それこそが、人を人であらしめる。どんな栄光よりもあたたかい、いとなみ。
灰の帝国で番号にされた人々は、名を呼ばれることで人に戻った。忘却の荒野で、アレンはエレノアに名を呼ばれることで消えずにすんだ。……名を呼ぶ。ただそれだけのことが、この長い旅を通して、二人がたどり着いたひとつの答えにほかならない。だからアレンの誓いは、この世でいちばんささやかで、いちばん重い約束だった。
「わたしも……」
エレノアは、銀の環のはまった手で、アレンの頬に触れた。
「わたしも、毎日、あなたの名を呼びます。……アレン。わたしの、たったひとりの、アレン」
その声には、もう英雄の威厳も、聖女のおごそかさもなかった。ただ、愛する人の名を呼ぶ、ひとりの女のあまやかな響きだけがあった。
その瞬間だった。エレノアの体から、ふわりと白金の光があふれ出した。
旅のあいだ、涸れかけていた光。それが今、かつてないあたたかさで二人を包んでいた。それは、攻めるための光でも守るための光でもない。ただ、あふれ出た、しあわせの光だった。
人を想う心が満ちたとき、彼女の光はいちばんうつくしくかがやく。今が、まさにそのときだった。もう、恐れもためらいもない。ただ、いつわりのない愛だけがあった。
かつて、この光を失うことを、彼女は何より恐れた。想いを口にすれば、失う痛みがこわい、と。だが、今ならわかる。恐れながら閉じこめておくより、あふれさせてしまうほうが、ずっと光は強くなるのだと。
あふれ出た白金の光は、やがてやわらかく丘の草を照らし、しずかに夜のなかへ溶けていった。争いのためでも、誰かにあがめられるためでもない。ただ、しあわせを分かちあうためだけに灯った、はじめての光だった。
二人は、焚き火のそばでひたいを寄せあった。
たがいのぬくもりだけが、そこにあった。もう、足りないものは何ひとつなかった。言葉はいらない。星がまたたく。火が爆ぜる。川がながれる。……そのすべてが、二人を祝福しているようだった。
栄光を奪われた勇者と、すべてをあがめられた英雄。正反対の場所から出会った二人が、長い旅の果てに、同じ場所へたどり着いた。あがめる者と、あがめられる者ではなく、ただとなりに並んで名を呼びあう、ふたりの人間として。
明日、二人はあの丘に畑を拓く。名もない日々が始まる。だが、その名もなさこそが、二人が長い旅の果てにようやく手に入れた、いちばんの宝物だった。
もう、誰にもあがめられなくていい。誰にも名を覚えられなくていい。ただ、たがいがたがいの名を知っている。呼びあえる。……それでじゅうぶんなのだ。それが、すべてだった。
何万の歓声より、たったひとりに名を呼ばれること。長い旅の果てに、二人がようやくつかんだ答えは、それほどまでにちいさく、あたたかいものだった。
焚き火がゆっくりと燃えていく。ふたつの影がひとつに重なった。名もなき勇者と、名もなき英雄の、ながいながい夜は、しずかに、あたたかくふけていった。
恋の到達点です。まばゆい詩ではなく、ぽつりぽつりと並べた不器用な言葉。だからこそ本物。「毎日、お前の名を呼ぶ。世界じゅうが忘れても、俺だけは忘れない」――今作のテーマを、そのまま愛の誓いにしました。




