第90話 泥と白金の、名もなき日々
名もなき丘の上に、ちいさな家と畑。泥の勇者と白金の英雄の、しずかな日々。全90話、ここに完結です。
春が、来た。
長い旅のあとにめぐってきた、二人にとってはじめての、おだやかな春だった。丘のふもとの川べりには、名もなき草花がいっせいに芽吹いていた。
丘の上には、小さな家が建っている。近くの村人に教わりながら、アレンが一本ずつ木を組んで建てた家だ。柱には少しゆがんだところがあり、風の強い夜にはすきま風も入る。それでも二人にとっては、どんな王宮より帰りたくなる場所だった。
斜面には畑がある。剣を握ることしか知らなかったアレンの手が、いまは鍬を握って、黙々と土を返している。豆をまき、麦を植え、芽が出れば子どものように喜んだ。うまく育たず、しおれてしまう苗もある。そのたびに二人で頭をつきあわせ、村人に教わりに行った。
「アレン、見てください。豆が花をつけましたよ」
「ほんとうだ。お前が毎日水をやってたやつだな」
エレノアと並んでしゃがみこみ、二人は小さな白い花をのぞきこんだ。豆の花ひとつに、これほど心を動かされる日が来るとは、旅の途中には思いもしなかった。
なんでもない会話だった。だからこそ、たまらなく愛おしい。魔王を討ったときも、蒐集者を斬ったときも、これほど胸が満たされることはなかった。ちいさな白い花に二人で顔を寄せる、ただそれだけのことが、いまの二人には何よりの宝だった。
朝は鶏の声で目を覚ます。井戸から水を汲み、かまどに火を入れ、パンを焼く。畑に出て土をならし、雑草を抜く。昼には木陰でパンをかじり、遠くの山を眺める。どれもこれも、剣を握っていたころには、思い描くことすらなかった暮らしだった。
アレンの手は、いつのまにか剣だこの上に、鍬だこを重ねていた。エレノアの手も、聖女の白い手ではなくなり、土のにおいのする、はたらく者の手になっていた。二人はその手を、たがいに見せあっては、よく笑った。
村の人々は、いつしか二人を「丘の夫婦」と呼ぶようになった。
どこから来たのか、誰も知らない。勇者だったことも、白金の英雄だったことも知らない。ただ、畑仕事のうまい若い夫婦が、いつの間にか丘に住みついた。それだけだった。
それでよかった。名もなき者として、名もなき人々の中で生きる。長い旅の果てに二人が選んだ幸せは、思っていたよりずっと静かで、ずっと手触りのあるものだった。
あがめられることも、かしずかれることも、もうない。だが、収穫のときには村の者たちが手を貸してくれ、雨漏りの修繕には隣の老人が屋根にのぼってくれる。まばゆい歓声のかわりに、となりで交わす何気ない一言がある。それが、どれほどあたたかいものか、二人はもう知っていた。
ときおり、旅の仲間や、助けた人々が訪ねてくる。
灰の帝国から来たリオは、すっかり頼れるまとめ役になっていた。マレンが編んだという肩掛けを土産に持ってきて、子どもたちが毎日うるさいほど歌っているのだと笑った。
かつて歌えば矯正塔へ送られた国で、子どもたちが遠慮なく歌っている。エレノアはその話を聞くたび、少しだけ目を潤ませた。番号で呼ばれ、色を奪われていた人々が、いまはめいめいの名で呼びあい、好きな歌をうたっている。二人が旅で灯した小さな火は、たしかにあの灰色の国で燃えつづけていた。
リオは畑を見わたして、感心したように言った。
「まさか、勇者様と英雄様が、鍬をふるってるとはな」
「もう勇者でも英雄でもないさ」
アレンは笑って、リオに採れたての豆を持たせた。土産に持って帰れ、と。リオは丘を下りながら、何度も振り返って手を振った。その背が、来たときよりずっと頼もしく見えた。
碑に、二人の名は刻まれない。歴史書にも載らない。それでも、二人が拾い直した小さな思いは、誰かの胸で芽を出し、次の誰かへと渡っていく。あの村の碑に供えられた野の花のように、老狩人が子どもに語る昔話のように。二人は知らない場所で、名も残さぬまま、世界を少しずつ変えていた。それは、まばゆい伝説よりも、ずっと長く消えないだろう。
夜には畑仕事を終え、軒先に並んで腰をかけた。
空には星がまたたいている。栄光の蔵で見た、奪われた名誉の、あの冷たい白さとは、まるで違う。誰のものでもない光が、二人にも、遠い国の誰かにも、分けへだてなく、同じように降っていた。あがめる者も、あがめられる者もない。ただ、それぞれの夜を生きる人々の上に、静かにまたたいているだけだった。
「なあ、エレノア。俺たちのことも、いつか忘れられるのかな」
アレンは空を見上げた。勇者アレンも、英雄エレノアも、もう歴史書には残らない。
「……かまいません」
エレノアは少しも迷わず、そっと彼の肩に頭を預けた。
「世界じゅうがわたしたちを忘れても、わたしがあなたを覚えています。あなたが、わたしを覚えていてくれる。それで十分です。もう学んだでしょう?」
アレンは、声を立てて笑った。
「ああ。たった一人でも覚えている者がいれば、人は消えない。語り部の婆さんの言葉だ」
二人は手をつないだ。銀の環どうしが、かちりと小さく鳴る。忘却の荒野でも、崩れゆく蔵のなかでも、この手だけは決して離さなかった。これからも、きっと。
星を見あげながら、アレンは旅のことを思い返した。泥の中でうずくまっていたあの日。名を奪われ、栄光をむしり取られ、もう何も残っていないと思っていた。だが、いま思えば、あそこで失ったものより、この旅で得たもののほうが、はるかに大きかった。
「なあ、エレノア。俺は、栄光を全部なくして、名前も世界から消えた。だけど、こんなに満たされてる。……不思議なもんだな」
「不思議なんかじゃありません」
エレノアは、環のはまった手に、そっと力をこめた。
「あなたはずっと、奪う側ではなく、返す側でいた。だから最後に、いちばん大切なものが、あなたの手に残ったんです」
栄光を奪われた男と、栄光をあがめられた女。正反対の場所から始まった二人の旅は、派手な玉座ではなく、小さな畑へたどり着いた。
豆の花が春の風に揺れ、足もとの土は、じんわりと暖かい。
「――アレン」
「――エレノア」
用があるわけでもない。ただ呼びたくて、二人は互いの名を呼ぶ。それは何百回繰り返しても飽きない、世界でいちばん温かい言葉だった。
朝が来れば畑に出る。日が暮れれば軒先で星を見る。ときどき旅の思い出を語り、ときどき何も言わず、ただ隣にいる。季節がめぐり、豆が実り、麦が黄金色に色づく。そんな当たり前の日々が、いくつも重なっていく。
誰も語り継がない日々だった。けれど二人にとっては、どんな冒険よりも確かな幸せだった。
二人の手は、剣だこと、土仕事の豆だらけだった。旅の傷跡も、いくつも残っている。栄光を差し出した傷も、光を使い果たした傷も。だが、二人はもう、その傷を恥じてはいなかった。まばゆい嘘には、傷ひとつない。だからこそ、この手に刻まれた傷のすべてが、本物だった。痛みも、涙も、遠回りも、ぜんぶひっくるめて、たしかに生きてきたという証だった。
――泥の勇者と白金の英雄の収集奇譚は、ここに完結する。傷だらけのその手に、二人はようやく、本物の幸せをつかんだのだ。
(完)
最終話です。長いあいだ、本当にありがとうございました。全90話、これで完結です。
栄光を奪われた男と、栄光をあがめられた女。正反対の場所から始まった二人が、たどり着いたのは、碑にも歴史書にも載らない、名もなき日々でした。あがめる者とあがめられる者ではなく、ただ並んで名を呼びあう、二人の人間として。
奪うのではなく、背負う。飾りたてたまばゆさより、泥にまみれた本物を。その傷のすべてが、二人の生きた証です。ここまでお付き合いくださった、あなたにも――ありがとう。この物語を、決して忘れません。




