第88話 ふたりの帰る場所
旅を終え、二人が探すのは、帰る場所。緑の丘の上で、アレンがふところから取り出したのは――。
旅を続けるうちに、エレノアの体は少しずつ力を取りもどしていった。
白金の光は、すぐには戻らなかった。だが、それでよかった。彼女はもう、英雄である必要がなかったからだ。
旅のはじめのころ、彼女はおおぜいの民にあがめられる英雄だった。だが、あがめる者たちは誰も、彼女そのものを見ていなかった。まばゆい聖女の姿を拝んでいただけだ。
今はちがう。彼女を知る者は、世界にただひとり。だが、そのひとりは、彼女の強さも弱さも、ぜんぶひっくるめて見ていてくれた。それでじゅうぶんなのだ。
光の源は、人を想う心。……それは涸れていなかった。むしろこの旅を越えて前よりずっと深くなっていた。だから、彼女の光はゆっくりと、だがたしかに息を吹き返していった。急ぐことは、何もなかった。
二人は、あてもなく、足の向くままに歩いた。
いや、あてはあった。あたたかい場所で、ちいさな畑を耕す。核の前で交わした約束。それを果たすための旅だった。
道すがら、二人はよく話した。旅の途中、ふしぎな報せも届いた。
風のうわさに聞いた。灰の帝国では、リオを中心に、人々が少しずつ国を立てなおしているという。マレンはまだ達者で、子どもたちに昔の歌を教えている、と。……あの灰色の国にも、たしかに色が根づきはじめていた。
これまでの旅のこと、出会った人々のこと。ボルドのこと、クラリスのこと、灰の帝国のマレンやリオのこと。……ひとつひとつ、指を折るように思い出しては、語りあった。つらかったことも、今となってはどこかなつかしい。二人で分けあってきたからこそ、重い荷もここまで運んでこられたのだ。
「……ずいぶん、遠くまで来ましたね」
エレノアがしみじみと言った。
「ああ。……泥の中でうずくまってた俺が、まさか世界の忘却の大本まで断ちにいくとはな」
思えば、ずいぶん遠くまで歩いてきた。追放され、栄光を奪われ、名を忘れられたところから始まった旅。ひとつ、またひとつと、奪われた者の遺志を拾い、偽りを剥ぎ取り、そのたびに二人の絆も深まっていった。傷だらけの道だった。だが、その傷のひとつひとつが、今の二人をかたちづくっていた。
ある日、二人はひとつの丘にたどり着いた。
なだらかな緑の丘だった。ふもとに小さな川が流れ、日あたりのいい斜面が広がっている。遠くに、名もない村の煙が細く立ちのぼっていた。
「……いいな、ここは」
アレンが丘を見わたして、ぽつりと言った。
「畑を耕すなら、ここがいい。土もよさそうだ。水も近い」
剣を握るしか知らなかった手で、土を耕す。種をまき、芽を待つ。……そんな日々を、アレンは思い描いた。血と泥にまみれた旅のあとで、ようやく手に入れられそうな、おだやかな暮らしだった。
思えば、泥は彼にとって、屈辱の記憶だった。泥の勇者と嘲られ、泥のなかで這いつくばった。だが、これからは、その同じ泥に種をまき、命を育てる。奪われるだけだった泥が、ようやく、実りを生む土に変わるのだ。
エレノアは丘を見わたした。そして、ふわりと笑った。
「はい。……わたしも、そう思います。ここがいい」
二人は、やわらかな草の上に腰を下ろした。
どちらからともなく、手をつないだ。旅のあいだ、何度もそうしてきたように、ごく自然に指がからんだ。
風が草をなでていく。川のせせらぎがきこえる。名もない鳥が空をよぎった。どれもが、名を持たない、ささやかなものたちだった。だが、そのささやかさこそが、いまの二人にはたまらなく愛おしかった。
栄光も、伝説もない。ただ、あたたかい日ざしと、となりにいるひとりの人。……それが、二人のたどり着いた場所だった。
「なあ、エレノア」
アレンは空を見あげながら言った。
「昔、お前が俺を拾ってくれたとき、俺はまだ栄光に未練があった。奪われたものを取り返したいと、そればかり考えてた」
「……はい」
「でも、今はわかる。……取り返したかったのは、栄光じゃなかった。ただ、誰かに必要とされたかった。名を呼ばれたかった。それだけだったんだ」
アレンは、エレノアの目をじっと見つめた。
「それをくれたのは、お前だ。……お前が俺の名を呼んでくれた。だから俺は、もういちど立てた」
あの日、泥まみれでうずくまるアレンに、エレノアはまっすぐ手を伸ばした。栄光も肩書きも見ずに、ただひとりの人として、彼を見つけてくれた。あの瞬間から、彼の止まっていた心は、もういちど動きだしたのだった。
エレノアの頬が、ほんのりとあかく染まった。
「わたしも、同じです」
その声は、かすかに震えていた。恥ずかしそうにうつむいて、それでも一言ずつ、小さく言った。
「わたしも……英雄とあがめられるより、あなたに名を呼んでもらえるほうが、ずっとうれしかった。ずっと……あなたのとなりが、わたしの帰る場所でした」
二人のあいだに、あたたかい沈黙が流れた。焚き火の爆ぜる音だけが、静けさをやさしく満たしていた。
かつて、エレノアはこの気持ちに名をつけるのがこわかった。想いを口にすれば、失うのがこわくなるから。だが、今はちがう。長い旅をともに越えて、もう恐れは、どこにもなかった。言葉は、もう多くはいらなかった。
その夜。二人は丘の上で、小さな焚き火を囲んだ。
パチパチと爆ぜる火。星が空いっぱいにまたたいている。
旅のあいだ、数えきれぬほどこうして焚き火を囲んだ。危険な夜もあった。凍える夜もあった。だが、この夜だけはちがっていた。追われてもいない。急いでもいない。ただ、おだやかな時間が二人を包んでいた。
アレンはふところから、そっとひとつのものを取り出した。
小さな、銀の環だった。
まばゆく光る宝石は、ついていない。ただの素朴な、細い銀の環。だが、それはこの世のどんな宝より、二人にとってかけがえのないものだ。
いつか旅の途中で、エレノアに渡したもの。約束のしるし。魔王を討ったあとに交わした、まだかたちにならなかった約束。あのとき彼女は、この環を肌身離さず、鎖に通して首から下げていた。どんな戦いのさなかでも、決して手放さなかった。
あのときは、まだ旅の途中だった。互いに命の保証もない。だから、約束は宙に浮いたまま、かたちにならなかった。だが、今はちがう。もう、戦いは終わった。帰る場所も決まった。……その約束を果たすときが、ようやく来たのだ。
「……エレノア」
アレンの声が、少しかすれていた。
剣を抜くときより、魔王に対したときより、よほど緊張していた。いくつもの国を救い、忘却の大本すら断った男が、この瞬間だけは、ただのひとりの、恋する男に戻っていた。
いくどとなく言おうとして、旅の途中では言えなかった言葉。魔物が、偽りの英雄が、忘却の荒野が、いつも二人のあいだに割りこんできた。だが、もう何も、二人をさえぎるものはなかった。
焚き火の光が、エレノアの頬をやわらかく照らしている。その瞳が、じっとアレンを見つめていた。
長い旅の果て、ふたりの帰る場所が決まった、その夜に。泥の勇者は、ずっと胸にあたためてきた言葉を、ようやく口にしようとしていた。
大団円へ向かう、静かな橋渡しの回です。灰の帝国が立ち直りつつある報せを添えつつ、二人が丘に帰る場所を見つけます。魔王を前にしても震えなかった男が、この夜だけは、ただの恋する一人の男に戻ります。




