第87話 名を語る世界
荒野を抜けた世界は、少しだけ変わっていた。だが、すべてが救われたわけではない。
忘却の荒野を抜けて、二人はもといた道をゆっくりと戻った。
だが、世界はたしかに、少しだけ変わっていた。
最初の集落。あの語り部の老女の村。そこへ着くと、老女は家の前で二人を待っていた。
「……帰ってきたね。よかった。前の二人は、帰らなかったから」
老女の目は、うっすらとうるんでいた。
「見ておくれ。この村を」
老女は二人を広場へ連れていった。
村の広場に、小さな碑が建っていた。真新しい石の碑だった。そこには、ひとつの名が刻まれている。……堤を築いた亭主の名。忘れられていた恩人の名が、ようやく石に刻まれたのだ。
まだ苔もついていない、削りたての石。刻まれた文字も、素人の手によるものらしく、少しいびつだった。だが、そのいびつさが、かえって胸を打った。村人たちが、自分たちの手で、大切な名を刻もうとした。その心が、そのまま石に残っていたからだ。
「みんなが思い出したんだよ」
老女は碑をなでながら言った。
「ある日とつぜん、ね。うちの亭主が、この村を洪水から救ったこと。それを村じゅうが思い出した。……あんたたちが、何かをしたんだろう。あの荒野で」
アレンは、ただ静かに微笑んだ。多くは語らなかった。語る必要もなかった。碑を見あげる村人たちの顔。そのあたたかさが、すべてを物語っていたからだ。
碑のまわりには、花が供えられていた。子どもたちが摘んできた野の花。名もなき小さな花だった。だが、それがこの村のあたらしい習わしになりつつあった。
忘れられていた恩人を、もう二度と忘れないために。人々はみずから碑を建て、花を供え、その名を語り継ぎはじめていた。蒐集者が消えたあとの世界で、人がおのれの手で忘れまいとする。そのいとなみが、静かに芽吹いていた。
これこそが、二人の旅がめざしたものだった。誰かに与えられた記憶ではなく、人が自分の意志で、忘れまいと願う。その小さな灯火が、あちこちの村で、ひとつ、またひとつと灯りはじめている。それはきっと、蒐集者のまばゆさよりも、ずっと長く消えないだろう。
だが、すべてがうまくいったわけではなかった。
次の町へ着くと、そこでは、あのにせの英雄がまだもてはやされていた。
蒐集者は消えた。だが、人がまばゆい嘘を信じたがる心までは、消えなかった。腕を失った老狩人の手柄も、町の人々はふたたび忘れかけていた。いや、思い出しては、また、まばゆい若者のほうをえらんでいた。
「……変わらないものも、あるな」
アレンは苦く笑った。少し、落胆もした。命がけで蒐集者を倒した。それでも、にせの英雄はまた生まれる。人の心の弱さは、根が深い。
まばゆいものは、心地よい。飾られた物語は、胸を躍らせる。だからこそ人は、いつだってそちらへ手を伸ばしてしまう。それは、蒐集者を斬ったくらいでは、消えてなくならない。旅の初めなら、アレンはそのことに、もっと打ちのめされていただろう。だが、今はちがった。
だが、ひとつだけ、ちがうことがあった。
老狩人は、もう日陰で泣いてはいなかった。
彼は町の隅で、子どもたちに話していた。あの化け物をどう討ったか。腕をどう失ったか。声を張るでもなく、飾るでもなく、ただ淡々と、あった通りに。……それでも子どもたちは、目を輝かせて聞いていた。まばゆい若者の武勇伝には出てこない、血の匂いと、痛みと、それでも立ち向かった者の本当の重みが、そこにはあったからだ。
忘れられても腐らず、日陰で泣くのをやめた。かわりに、みずから語りはじめた。まばゆくなくてもいい。飾らなくてもいい。ただ、本当のことを次の世代へ手渡す。それが、この老いた狩人のあたらしい生き方だった。
「じいさんの話、まばゆくはないけどさ。……こっちのほうが、本当なんだろ」
ひとりの小さな子どもが、そう言った。
その言葉に、老狩人は、くしゃりと顔をほころばせて笑った。子どもの頭を、残った片手でぽんとなでる。まばゆい栄光より、ずっとあたたかい光景だった。
まばゆい嘘にすがる者もいる。だが、本当の話に耳をかたむける者も、ちゃんといる。それがすべてだった。
蒐集者を倒したからといって、世界がひとつの色に染まるわけではない。それでは灰の帝国と同じだ。まばゆさにすがる者も、本当を選ぶ者も、両方いていい。人がおのおの、ちがう心でえらぶ。そのにぎやかさこそが、生きた世界のあかしだった。
「……これでいいのさ」
アレンは、語り部の老女の言葉を思い出した。
――にせの英雄は、これからも生まれるだろう。人がまばゆさにすがるかぎり。だが、それと同じくらい、本当を語り継ぐ者も生まれる。あの子どものように、あの語り部のように。
完璧な世界には、ならなかった。だが、アレンはそれでいいと思った。均された静けさより、まばゆい嘘と泥くさい本当がせめぎあう、にぎやかさのほうが、ずっと生きていた。
それは、二つの国をめぐった旅で、二人が学んだことそのものだった。英雄にすがりすぎた国も、英雄を恐れて心を捨てた国も、どちらもひとつの色に染まろうとして、人を損なった。だから、まだら模様でいい。いびつでいい。それが、人の生きる世界だった。
旅の道すがら、アレンはふと気づいた。
道ゆく人々は誰も、彼を知らなかった。魔王を討ち、偽りを剥ぎ取ってきた勇者アレン。その名は、核へ自分の栄光を差し出した代償として、きれいに世界から消えていた。
だが不思議と、喪失感はない。彼が救った人々の胸には、個人の名は残らなくても、「誰かに助けられた」という温かさだけが、たしかに息づいていた。
「アレン様。あなたの名前が、世界から消えてしまいました」
人の心を糧とするエレノアには、それがすぐにわかった。彼女は悲しげに言ったが、アレンは肩をすくめた。
「かまわないさ。もともと栄光なんて欲しくなかった。それに、お前が覚えていてくれる。それで十分だ」
むしろ、と彼は思った。名が残らないほうが、いいのかもしれない。勇者アレンの名が伝説になれば、それはいつか、また誰かのまばゆい嘘の種になる。名もなきまま、ただ助けられた温かさだけが人の胸に残るなら、それこそが、この旅のいちばんふさわしい終わり方だった。
世界じゅうが忘れても、お前ひとりが俺の名を呼んでくれる。それ以上、何がいる。
エレノアは涙をため、それから笑った。
「はい。わたしが、ずっと呼びます。何度でも。……アレン、アレン様」
光を使い果たした体は、まだ冷たかった。それでも彼女の瞳に、もう悲しみはなかった。名もなき勇者と、名を返した英雄。世界に知られなくても、二人だけは、たがいを世界でいちばん温かく呼び合えた。
そのときアレンは、核の前で交わした約束を思い出した。旅が終わったら、暖かい場所で小さな畑を耕そう、と。
剥ぎ取るべき偽りの大本は、もうない。追われる身でもない。ならば、あの約束を果たす時が来たのだろう。
アレンはとなりを歩くエレノアを見た。彼女も同じことを思っていたのか、目が合うと、はにかむように微笑んだ。二人のあいだに、もう言葉はいらなかった。行く先は、とうに決まっていた。
あえて「整いすぎ」を避けた回です。忘れられた恩人に碑が建つ村もあれば、まだにせの英雄がもてはやされる町もある。でも、日陰で泣くのをやめ、みずから語りはじめた老狩人がいる。まだら模様のままでいい、という結論です。




