第86話 はじまりの男
崩れる蔵の中で、解き放たれる無数の遺志。その中に、アレンの力の源――「はじまりの男」が。
蔵は、音を立てて崩れていく。
白い壁が剥がれ、天井が落ちてくる。かつて栄光で満たされていた蔵は、いまや、ただの瓦礫の山になろうとしていた。
アレンは、エレノアの肩をそっと抱きよせた。
「エレノア、立てるか」
「……はい。あなたがいれば」
消え入りそうな、だがたしかな声だった。
二人はたがいを支え、崩れゆく蔵の出口へ向かった。傷ついた足で、一歩、また一歩。
瓦礫が降ってくる。白い石のかけらが、すぐそばに落ちた。だが、二人にはもう、それをかわす力も残っていない。ただたがいの体を支えあい、よろめきながら前へ進むだけだった。どちらかが倒れれば、もう立てない。それがわかっていたから、二人は決して手を離さなかった。
その時、崩れる壁のレリーフから、淡い光がこぼれはじめた。
忘れられた者たちの顔。壁に刻まれていた無数の顔。それらがひとつ、またひとつと光となって、蔵から抜け出していく。もう囚われてはいなかった。
崩れゆく瓦礫のあいだを、無数のあたたかい光がすり抜けていく。まるで、長い冬を越えてようやく飛びたつ蛍の群れのように、それぞれがそれぞれの還る場所へ向かって舞っていった。
その光のなかに、ひときわ古い、すり切れた影があった。
剣を握った手のかたちだけが、かろうじてわかる。誰よりも古く、誰よりも深く忘れられた者。その影から、ほかのどの光ともちがう、あたたかなまなざしが、アレンへと注がれていた。まるで、長いあいだ会いたかった者に、ようやくめぐりあえたような、そんなやさしい光だった。
――ありがとう。
どこからか、そんな声が聞こえた。アレンの右手が、あたたかく応える。
――わたしは、はじまりの男だ。おまえの力の、もとを作った者。
アレンは、思わず息をのんだ。
名もなき、はじまりの男。蒐集者に抗い、奪う蔵を、返す蔵へとねじ曲げた者。万象武具庫を生み出し、後継者へと託しつづけた、最初のひとり。
この旅は、アレンが始めたものではなかった。ずっと自分ひとりの旅だと思っていた。だが、ちがった。彼の右手に宿っていた力も、奪われた者を返すというその使命も、はるか昔に、名もなき誰かが託したものだったのだ。
何百年前、名もなきひとりの男がまいた、たね。それが長い時をかけて芽吹き、数えきれぬ後継者の手を渡り、ついにアレンのもとで実を結んだ。アレンは、そのいちばん最後の実りだったのだ。
――長かった。何百年。わたしの意志は次の者へ、また次の者へと受け継がれ、そのたびに蒐集者に挑み、破れ、この蔵に囚われてきた。
はじまりの男の声は、おだやかだった。
――だが、おまえがついに核を開いた。わたしたちを解き放ってくれた。……もう、誰もこの蔵に囚われない。
崩れる蔵のなかで、無数の光が舞い上がる。はじまりの男の影も、ゆっくりとほどけていく。安らかに。長い、長い務めを終えた者の、静かな安らぎがそこにあった。
「待ってくれ」
アレンは呼びとめた。
「あんたの名は……あんたは、いったい何ていう名だったんだ」
はじまりの男はしばらく黙った。それから、ふっと笑ったようだった。
――忘れてしまったよ。あまりに長く、名を呼ばれなかったから。
その答えに、エレノアが目を伏せた。人を想う心を糧とする彼女には、このはじまりの男の長い孤独が、痛いほど伝わったのだ。
その言葉は静かだった。恨みも、悲しみすら、もうすり切れて、ただ事実だけが残っていた。アレンの胸が痛んだ。名もなき者を返しつづけた男が、おのれの名は取りもどせぬまま――それは、あまりにもむごい皮肉だった。だがそれは、彼がほんとうに見返りを求めず、ただ他人のためにおのれを削りつづけた、何よりの証でもあった。
「……なら」
アレンは言った。
「俺が覚えておく。……名はわからなくても、あんたが何をしたかは忘れない。奪う世を、返す世に変えようとした最初のひとり。……その志を、俺が背負う」
それは、この旅でアレンがずっとしてきたことと同じだった。名はわからなくても、したことは忘れない。碑に名がなくても、心に刻んでおく。腕を失った老狩人にも、堤を築いた語り部の亭主にも、アレンはそうしてきた。だからこの、いちばん最初の名もなき者にも、同じようにしようと思った。……はじまりの男へ、アレンはおのれの旅そのものを手向けた。
はじまりの男の光が、ふわりとゆれた。うれしそうに。
――ありがとう。……なら、わたしはもう、じゅうぶんだ。
その声を最後に、はじまりの男の影はほどけ、光となって天へと昇っていった。ほかの無数の遺志とともに。
その光は、ほかのどの光よりも明るく、晴れやかだった。何百年、誰にも理解されぬまま抗いつづけた男が、ようやくひとりの後継者に、その志をまるごと受けとめてもらえた。……それでじゅうぶんだと、そう言うように。
その瞬間、アレンの右手から、重みがすっと抜けた。
万象武具庫。ずっと彼の右手に宿っていた力。奪われた者の遺志を背負う、その重みが、ふいに軽くなった。
「……ん」
思わず、声がもれた。
アレンは、おのれの右手をじっと見た。
力が消えたわけではない。ただ、背負っていた無数の遺志が、ようやく安らかに還っていった。そのぶんだけ、軽くなったのだ。
長い旅のあいだ、ずっとひとりで背負ってきた重み。それが、いまようやく下ろせた。だが、さびしくはなかった。背負っていた者たちは、消えたのではない。安らかに、それぞれの居場所へ還っていった。もう無念のなかに囚われてはいない。その証だった。重みが消えたのは、役目を果たしきった証だった。
やがて、崩れる蔵の出口が見えた。
その向こうに、光が差していた。忘却の荒野の白い光ではない。あたたかい、朝の光だった。人を忘れさせる冷たい白ではなく、人のいとなみを照らす、やわらかな金色だった。
二人はたがいを支えあいながら、その光へ向かって歩いた。
背後で、栄光の蔵が轟音とともに崩れ落ちる。すべてを奪い、ためこんできたまばゆい墓場が、いま瓦礫となって土に還っていく。
あれほどまばゆかった蔵。何百年、人の誉れを呑みこんできた蔵。それがあっけなく、ただの土くれに戻っていく。奪ってためこんだものは、しょせん、おのれのものにはならなかった。それを証すような崩れ方だった。
外に出たとたん、二人は息をのんだ。
あの忘却の荒野が、消えていた。白い砂の広がりがうそのように晴れ、かわりに、見わたすかぎりの緑の野原が広がっていた。土から、名もなき草花がいっせいに芽吹いている。忘れられていた大地が、ようやく思い出されたのだ。
風が、草の匂いを運んでくる。あの、鼻を刺すような忘却の砂の匂いは、もうどこにもなかった。ただ、生きた土の、湿ったあたたかい匂いだけがあった。
朝の光が、二人をあたたかく包んだ。
アレンとエレノアは、振り返らなかった。うしろで崩れゆく蔵にも、これまで背負ってきた無数の遺志にも、もう未練はなかった。ただ、前の光だけを見て、二人は歩きつづけた。長い収集奇譚の、その果てへ。
万象武具庫の起源との、別れの回です。名は忘れても、したことは忘れない。名を取り戻せぬまま消える、はじまりの男に、アレンは自分の旅そのものを手向けました。背負ってきた重みを、ようやく下ろせた回でもあります。




