第83話 忘れない、という光
世界じゅうで、忘れられた者たちが思い出されていく。だが、その光の中で、アレン自身が消えていく。
核が砕けた。
いや、ほどけた、というほうが近い。長いあいだ堰きとめられていたものが、ついに解き放たれる。そんな音だった。
閉じこめられていた栄光が、堰を切ってあふれ出す。まばゆい光の奔流となって蔵の天井を突き破り、世界じゅうへと降りそそいでいった。長いこと闇に沈んでいたものが、いっせいに息を吹き返すような、そんな光景だった。
――遠い町で。
腕を失った老狩人が、ふと顔を上げた。
道ゆく人々が次々と足を止め、彼を見る。まるで今はじめて、その存在に気づいたように。
「なあ、あんた。あの化け物を討ったのは……あんただったな」
誰かがそう言った。
老狩人の目が見開かれた。忘れられていた手柄が、人々の胸によみがえっていたのだ。
「そうさ。……おれが討ったんだ。腕一本と引き換えに、な」
声を震わせながら、老狩人は泣いた。それは、まぎれもないうれし涙だった。
誰かに見ていてほしかった。ただそれだけだった。栄光も褒美もいらない。あの日、命を賭けて成したことを、たったひとりでいいから覚えていてほしかった。そのささやかな願いが、何年もの時を越えて、ようやくかなったのだ。しわだらけの頬を、涙がとめどなく伝った。長いあいだ日陰に置いてきた誇りが、いま、陽の当たる場所へと引き上げられていた。
――忘却の荒野のほとりで。
語り部の老女が空を見あげた。
降りそそぐ光のなかに、若き日の亭主の姿があった。堤を築いた、あの日の亭主だ。土にまみれ、笑っていた、あのころのままの姿で。
「……おかえり、あんた」
そのひとことに、四十年ぶんの想いがこもっていた。老女はしわだらけの手を空へ伸ばす。
村じゅうの人々が、ふいに思い出していた。この堤を築いたのは誰だったか。忘れていた恩人の名を。
もう語り部は、ひとりで語りつづけなくてよくなった。今日からは村じゅうが亭主の名を知っている。忘れまいとひとり抗いつづけた長い夜が、ようやく明けたのだった。老女の頬にも、静かな涙が伝っていた。
――世界のいたるところで、同じことが起きていた。
忘れられていた名もなき者たちが、ひとり、またひとりと思い出されていく。にせの英雄のまばゆさが剥がれ落ち、本物の手柄が持ち主のもとへ還っていく。何百年ぶんの無念が、少しずつ晴れていった。
名を取り戻したのは、大きな手柄を成した者ばかりではなかった。ひとりの子を庇って死んだ母。橋を守って濁流に呑まれた若者。誰の記録にも残らず、それでもたしかに誰かを救った、無数の名もなき者たち。その一つひとつに、ふたたび名が戻っていく。
偽りの栄光を剥ぎ取る旅の、そのいちばん大きな根が、いま断たれようとしていた。
灰の帝国で名を取り戻した人々、クラリスにすがった弱者たち、金剛盾の真の持ち主ラウル――アレンが旅の途中でひとつずつ拾ってきた遺志のすべてが、この大きな光のうねりのなかに溶けあっていく。ひとつの旅の終わりが、世界じゅうの忘れられた者を、同時に照らしていた。
だが、その奔流のまんなかで、アレンの輪郭が薄れていた。
おのれの栄光を、名を、核へ差し出した代償だった。世界の記憶から、勇者アレンの存在が剥がれ落ちていく。名もなき者を返した、そのぶんだけ、彼自身が名もなき者になっていくのだ。
皮肉なことだった。あるいは、ふさわしいことだったのかもしれない。忘れられた者の遺志を背負いつづけた男が、最後に、おのれも忘れられた者となる。奪う者となることを決してせず、最後まで返す者であろうとした。その行き着く先が、これだった。
「アレン様……っ。アレン様っ」
エレノアが、透けかけたその体をかき抱いた。
「いや、いやです。あなたが消えるなんて。……名もなき者を救うのはいい。でも、あなたがその名もなき者になるなんて、そんなの、あんまりです」
「……いいんだ」
アレンの声は、もうかすれていた。
「これで何百年ぶんの無念が晴れる。……俺ひとりが忘れられるくらい、安いもんだ」
「安くありませんっ」
エレノアは叫んだ。
「あなたは、わたしの光の源です。あなたを忘れたら、わたしの光も消える。あなたのいない世界になんて、わたしの光は、もう灯りませんっ」
それは、かつて彼女が命がけで守ってきた秘密の、裏返しだった。人を想う心が光の源。だからこそ、その人を失うことが何よりこわかった。ずっと想いに名をつけずにきた。だが、もう恐れない。失うのがこわいなら、失わせない。ただ想いつづける。それが彼女の選んだ道だった。
彼女の涙が、透けかけたアレンの頬に落ちた。あたたかいひとしずくだった。この蔵のどんなまばゆい栄光よりも、たしかな熱を持っていた。
その瞬間、消えかけたアレンの輪郭が、ふいにとどまった。
薄れていた指先が、手のひらが、ふたたびかたちを取りもどす。透けていた胸が、あたたかい実体を取りもどしていく。エレノアの想いが、彼をこの世につなぎとめていた。
――忘れない。
彼女は全身の力をふりしぼって念じた。世界じゅうがあなたを忘れても、わたしだけは忘れない。あなたの名はアレン。泥まみれのわたしを拾ってくれた、世界でいちばんやさしい勇者。この想いは、誰にも、核にも奪えない――と。
人を想う心は栄光ではない。だから忘却の力でも奪えなかった。エレノアのそのたったひとつの想いが、世界の記憶から剥がれ落ちるアレンを、かろうじて引きとめていた。
世界じゅうがアレンを忘れても、たったひとり、エレノアだけが覚えている。ただそれだけのことが、核の忘却の力にあらがっていた。まるで灰の帝国で番号にされた人々が、名を呼ばれることで人に戻ったように、彼女の想いが、アレンの名をこの世につなぎとめる楔となっていたのだ。
「……エレノア」
アレンの輪郭が、少しずつ濃さを取りもどしていく。
「お前が俺を覚えていてくれるなら……俺は、消えないのか」
「あたりまえです」
エレノアは涙に濡れた顔で笑った。
「たったひとりでも覚えている者がいれば、人は消えません。……あの語り部の婆さんが、教えてくれたことです」
忘れられた者を忘れない。その心こそが、蒐集者に抗ういちばんの力。それを二人は、おのれの身をもって証していた。
言葉にすれば、たったそれだけのことだ。だが、その一念が、世界の記憶をも書き換えようとする巨大な力に、たしかに拮抗していた。アレンの体を包む透明な冷たさが、エレノアの手のぬくもりに、少しずつ押し返されていく。
――そのころ。
白の蒐集者は、玉座の前で立ち尽くしていた。
餌であった栄光が、次々と蔵を抜け出していく。まばゆかったその身が、みるみる痩せ細っていく。飢えていくのだ。人々が忘れられた者を思い出すたびに、この化け物からは力が抜け落ちていった。
「……ありえん。ありえん。わたしの蔵が、空になっていく」
うわごとのように蒐集者はつぶやいた。だが、もう二人を襲う力も残っていなかった。
核が砕け、栄光が還り、それでも二人はたがいの名を手放さなかった。世界でたったふたり、たがいだけは決して忘れない――そう、静かに誓いあっていた。
感情の頂点です。名もなき者を返したぶん、アレン自身が名もなき者になる。それを引きとめるのは、エレノアの「忘れない」というたった一つの想い。想いは奪えない、という今作の答えの結晶です。




