第82話 差し出すもの
女をとるか、名もなき者をとるか。二者択一を迫られたアレンが選んだ、第三の道とは。
栄光の嵐が、二人を襲った。
だが、蒐集者の狙いは、もはやアレンではなかった。まばゆい刃の群れが、いっせいにエレノアへと向けられた。光を使いきり、立っているのがやっとの彼女へ。
「アレン様……っ」
アレンはとっさに、核から片手を離しかけた。エレノアをかばうために。だが、その一瞬、核のまばゆさがぶりかえした。せっかく半ばまで翳らせた蔵が、また光を取り戻そうとする。手を離せば、これまでが無に帰す。だが、離さねば、エレノアが。
時が、またしても引き延ばされた。まばゆい刃がエレノアの胸もとへ、ゆっくりと迫る。彼女にはもう、それを防ぐ光が残っていない。避ける力もない。アレンの片手が核から浮きかけ、宙で震えた。行くか、とどまるか。ほんの半歩の迷いが、永遠のように長かった。
「――そうだ」
蒐集者の声が、愉しげに響いた。
「その女をとるか。名もなき者をとるか。……さあ、選べ、勇者。片手で核を押さえ、片手で女を守る。そんな都合のいいことは、できぬぞ」
それは、にせの英雄がいつも人に迫る問いと、同じ構図だった。あれか、これか。ひとつをあきらめろ。そう迫ることで、人から第三の道を探す気力を奪う。だが、アレンはその手の二択を、数えきれぬほど旅で見てきた。そして、そのたびに三つ目の道を、泥にまみれて掘りあててきた男だった。
それは、冷たい二者択一だった。どちらかを捨てなければならない。蒐集者は二人を、その崖のふちへ追いつめた。
アレンの頭が、真っ白になった。エレノアか、何百年ぶんの遺志か。どちらも捨てられぬのに、選ばねばならなかった。
その時。
「アレン様」
エレノアの声がした。まばゆい刃をまぢかにして、それでも彼女はおだやかに笑っていた。
「わたしのことはいいんです。……名もなき者を返してください。それが、わたしたちの旅の意味、でしょう」
まばゆい刃を目の前にして、彼女は少しもおのれの命を惜しんでいなかった。それが、エレノアという人だった。人を想う心を糧に生きる者は、いざという時、おのれより誰かを選んでしまう。
「バカを言うな」
アレンは歯を噛んだ。
「お前を捨てて、何が旅の意味だ。……お前を失ったら、俺の光はどこにもなくなる」
その言葉は、まぎれもない本心だった。エレノアの光の源が人を想う心なら、アレンの心の源は、エレノアそのものだった。泥にまみれたあの日、差し伸べられた手。あれが彼を、もういちど立たせた。彼女を失えば、アレンもまた灰色のぬけがらに戻ってしまう。
――選べない。どちらも選べない。
だが、二択を突きつけられて、素直にどちらかを選ぶ。それは、アレンの流儀ではなかった。かつてクラリスの事件でもそうだった。偽物を暴けば、すがった弱者が傷つく。暴かねば、真実が埋もれる。……あのとき、アレンはどちらも選ばず、第三の道をこじあけた。誰も死なせない道を。
――今度も、だ。
二つのうちひとつを捨てるのではない。どちらも救う道を、むりやりにでもこじあける。それが、泥のなかで生きてきた男の意地だった。二択を差し出す者は、たいてい三つ目の答えを隠している。隠された答えを泥の底から掘り出すこと。それだけが、アレンにできる唯一の反撃だった。アレンの目に、光がもどった。
「蒐集者。……お前はひとつ、勘ちがいをしている」
アレンは言った。
「俺は片手で核を押さえて、片手でエレノアを守る。……そんな、けちなことはしない」
「なに」
問い返す声が、わずかに揺れた。
「両手を核にあてる。エレノアも守る。……この身ぜんぶを使ってな」
蒐集者には、その意味が読めなかった。両手を核にあてれば、エレノアを守る手がなくなる。どうやって両方をとるつもりか、と。
アレンは核に両手を押しあてた。そして、おのれの内へ呼びかけた。
万象武具庫。……ならば、俺自身の栄光も返してやる。
この力はもともと、奪われた者の遺志を返すための力。ならば、俺自身の栄光も返せるはずだ。誰にでもなく、この世の記憶そのものへ。腹をくくったアレンに、惜しむものなどなかった。栄光など、とうにいちど失っている。にせの英雄にすべてを奪われ、泥の底を這ったあの日々。あそこから立ち上がったのは、名声のためではなかった。ならば、もう一度手放すだけのことだった。名を捨てても、この胸にエレノアがいるかぎり、自分は自分でいられると信じられた。
アレンは目を閉じた。
――勇者アレン。偽りを剥ぎ取り、名もなき者を救った男。魔王を討ち、二つの国を救った。……その栄光を、すべてこの核へ返す。
自分の名を、手柄を、誇りを、おのれの意志で核へ差し出す。奪われるのではない。みずから手放す。そのちがいは、天と地ほど大きかった。奪われた栄光は蔵に囚われる。だが、みずから手放した栄光は囚われない。持ち主の意志がこもっているからだ。それは核を内側から突き崩す、楔になった。
その瞬間、しん、とすべての音が消えた。栄光の嵐も、蒐集者のうなりも、何もかも凍りついたように止まった。ただ、アレンの両手から核へと流れこむ、ひとすじの光だけがあった。
次の刹那、核が大きく脈打った。これまでとは比べものにならぬほどの光があふれ出す。翳っていた核が、一気に崩れはじめた。
「な……何を、した」
蒐集者がうろたえた。エレノアへ向かっていた刃が、ばらばらと宙で崩れ落ちる。
「わからないか」
アレンは血のにじむ口で笑った。静かな、だが晴れやかな笑みだった。
「お前がいちばんほしがる栄光を、俺は自分から手放した。……奪う者には永遠に理解できないだろうな。誇りをみずから捨てる心なんて」
核の崩壊が止まらない。世界じゅうから奪われた栄光が、堰を切って持ち主のもとへ還りはじめた。
だが同時に、アレンの体から何かが抜け落ちていくのを、エレノアは感じた。
――アレンの名が、栄光が、世界の記憶から薄れていく。
「アレン様……っ。あなた、まさか」
エレノアの顔から、血の気が引いた。
核を開ききるための最後の鍵。それは、アレンがおのれの栄光を、名を、すべて差し出すことだった。忘れられた者すべてを救うために。自分が忘れられる覚悟で。
「だめ……っ。だめです、アレン様」
エレノアがすがりついた。
「あなたが忘れられたら、……わたしまで、あなたを忘れてしまう。そんなの、いや。それだけは、いやですっ」
だが、核の崩壊はもう止まらなかった。世界じゅうで忘れられていた者たちが、次々と思い出されていく。名を取り戻した者たちの喜びが、まばゆい奔流となって蔵を満たす。その光の洪水のまんなかで、たったひとり、泥の勇者の輪郭だけが、少しずつ薄れはじめていた。
エレノアの手が、アレンの頬に触れる。だが、その感触さえ、指のあいだをすり抜けていくようだった。あれほど確かだった存在が、光に溶けていく。
――忘れないで。
声にならない祈りを、エレノアは胸の底で叫んだ。あなたがすべてを差し出してでも、誰かの名を忘れさせたくなかったのなら。今度はわたしが、あなたの名を、この命ある限り呼びつづける。たとえ世界が忘れても、わたしだけは。
クラリス編の「誰も死なせない第三の道」を、最終決戦で再演しました。アレンが差し出したのは、自分自身の栄光と名。奪われるのではなく、みずから手放す。その覚悟が核を開く最後の鍵になります。




