第80話 貫かれた背
核を開くアレンの、無防備な背へ。栄光の槍が、貫いた。それでも、手は離さない。
アレンの右手と、エレノアの両手が、核のふちに重ねられた。冷たい光の井戸の縁は、氷のように手のひらを刺した。
万象武具庫の力がうなる。白金の光が、それに寄りそう。奪う蔵を返す蔵へ。ふたつの力がひとつになって、核へ差しこまれていく。
「呼ぶぞ、エレノア。……最後まで、つきあってくれ」
「はい」
二人の声は静かだった。核のうずまく光を前に、腹をくくった者の落ちついた声だった。アレンは目を閉じ、右手に宿る遺志のなかから、ひとつずつ名を呼びはじめた。
――疾風の小手を遺した、名もなき伝令。
――金剛盾の真の持ち主、盾役のラウル。
呼ぶたびに、核の奥からひとすじの栄光がほどけ、光の粒となって舞い上がった。その光の粒には、人の面影が宿っていた。伝令の青年が息を切らせて走る姿。盾役のラウルが、仲間をかばって盾を構える姿。忘れられていた者たちが、ほんのいっとき核の上にまぼろしのようによみがえり、そして世界へと還っていく。
彼らはたしかに、そこにいた。たしかに何かを成し、誰かを守り、そして名を奪われて忘れられた。その証が、いまようやく日の目を見ようとしていた。何百年ものあいだ、この蔵の底で埃をかぶっていた無数の人生が、ひとつずつ息を吹き返していく。アレンには、それがまるで、暗い井戸の底からいくつもの手が伸びてくるように感じられた。
エレノアが、その栄光を白金の光ですくいあげる。
「還りなさい。……あなたを覚えている人の、もとへ。もう、忘れさせはしません」
彼女の光にのって、ほどけた栄光が蔵の外へ、世界へと飛んでいく。核のまばゆさが、ほんの少し翳った。
――効いている。確かに。
アレンの胸に手ごたえが芽生えた。ひとつ、ふたつと呼びつづける。ゆっくりと、だがたしかに、核はほどけはじめていた。
だが、その静かな営みは、長くは許されなかった。
「――やめろ」
背後の蒐集者から、はじめて余裕が消えた。まばゆさがふくれあがる。栄光の嵐がふたたび渦を巻いた。だが、今度のそれはこれまでとちがった。ためらいのない、殺意のこもった嵐だった。
静かだった核のまわりに、動がなだれこむ。凪が破れた。あれほど深かった静けさが、一瞬で轟音に塗りつぶされる。栄光の刃が四方八方から、核のふちの二人へと殺到した。台風の目は、ついに閉じたのだ。
「アレン様っ、うしろ……っ」
エレノアが叫んだ。
振り向く暇はなかった。核を開くには、両手を離せない。ここで手を離せば、ほどきかけた栄光がまた核へ呑まれる。アレンは核に手を重ねたまま、動けなかった。
選ばねばならなかった。身をかわして我が身を守るか。核から手を離さず、栄光を返しつづけるか。両方はできない。核を開く手は、今、ここでしかなかった。
アレンの答えは決まっていた。考えるまでもなかった。ここまで背負ってきた遺志を、この期に及んで見捨てるくらいなら、貫かれたほうがましだった。それが、泥のなかを這ってきた男の、ただひとつの矜持だった。
時が、ふいにゆるやかになった。まばゆい槍が、ゆっくりと迫るのが見えた。だが避けられない。避ければ、手が離れる。アレンは奥歯を噛みしめ、その一撃を背で受ける覚悟を決めた。
次の瞬間、蒐集者のあやつる一振りの槍が、まばゆい軌跡を描いて突き刺さった。
時がもとの速さに戻る。鈍い衝撃。灼けるような痛みが、背から胸へ突き抜けた。息が詰まる。目の前が白く明滅する。アレンの口から、血があふれた。
「アレン様……ッ」
エレノアの悲鳴が蔵に響いた。だが、その手は核から離れなかった。悲鳴をあげながらも、彼女は自分の役目を放さなかった。ここで二人そろって手を離せば、すべてが水泡に帰す。それを、痛いほどわかっていた。
槍は、アレンの背から胸へと深く貫いていた。まばゆい栄光の槍。かつてどこかの英雄が魔を討った力。それがいま、名もなき者を返そうとする男の背を刺し貫いていた。
だが、アレンは核から手を離さなかった。
「……離すものか」
血のあふれる口で、アレンはつぶやいた。
「ここで手を離したら、……今返しかけたこいつらが、また忘れられる。それは、……させない」
貫かれたまま、それでもアレンは声を絞り出し、次の名を呼んだ。
――禁呪に身を焼いた、天才の無念。
核からまた、ひとすじ栄光がほどけた。
「なぜだ……っ」
蒐集者がうめいた。
「貫かれてなお、なぜ手を離さぬ。おのれの命より、他人の名が大事だというのか」
その問いには、まぎれもない困惑がにじんでいた。蒐集者には理解できなかった。栄光をためこむことしか知らぬ化け物には、おのれを投げ出してまで他人の名を守るという心が、永遠に届かなかった。奪う者にはわからない、分かちあう者の強さが。捨てる者にはわからない、背負う者の覚悟が。命を惜しむということは、蒐集者にとって当然の理だった。栄光とは、生き延びた者だけが手にできる勲章なのだから。その理からはみ出す男が、ただ不可解でならなかった。
「あたりまえ、だろう」
アレンは笑った。血にまみれて。
「俺の命ひとつで、何百年ぶんの無念が晴れるなら、……安いもんだ」
その言葉に、エレノアのなかで何かが爆ぜた。彼女はアレンの背から槍を、光の手で引き抜いた。そして、あふれる血に手をあてる。残りの光のありったけを、傷口にそそいだ。
「死なせません。……あなたを死なせて、たまるものですか。畑を耕す約束を、したでしょうっ」
声が裂けていた。いつもおだやかな彼女が、なりふりかまわず叫んでいた。人を想う心が強いほど、失う恐れも深い。エレノアはその底をのぞきこんでいた。だからこそ、残った光のすべてを、ためらわずアレンの傷へ注いだ。
白金の光が、裂けた肉をかろうじて閉じていく。深く抉られた傷は、ふさぎきれるものではなかった。それでも、命の流れ出る速さを、わずかに緩めるだけの光だった。そのかわり、彼女の指先から色が消えていった。爪の先から、手のひらへ、手首へと、白金が灰へと退いていく。
二人は血にまみれ、光を削りながら、それでも核から手を離さなかった。ひとりは背を貫かれて血を流し、ひとりは命の色を失いながら。みっともないほど必死な姿だったが、この蔵に飾られたどの栄光よりも、アレンには本物に見えた。飾られた勝利には、この血のにおいも、この震える指も、この必死さもなかった。だからこそ、まがいものなのだ。
誰にもあがめられなくていい。誰にも名を覚えられなくていい。ただ、忘れられた者を一人でも多く取り戻す。そのために、二人は命を燃やしていた。
核の白さは、少しずつ翳りはじめる。半分を越えた。世界じゅうから奪われた栄光が、ようやく持ち主のもとへ還っていく。
だが、代償は大きかった。アレンの背からは血が止まらず、エレノアの光は、ろうそくの最後のひとゆらぎほどしか残っていない。
間に合うのか。それとも先に、二人が尽きるのか。核の翳りと、二人の命の残り。そのどちらが先に底を突くか、もはや紙一重だった。
背にあるエレノアの手のぬくもりを感じながら、アレンは次の名を呼び続けた。
「動」の見せ場です。手を離せば栄光がまた奪われる――だからアレンは貫かれても核を離さない。おのれの命より他人の名を選ぶ姿を、静のスローモーションと動の衝撃で描きました。




