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泥の勇者と白金の英雄 ~偽りの栄光を剥ぎ取る収集奇譚~  作者: 源三郎


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8/90

第8話 噂と庭の夜

 第8話。少しだけ、穏やかな時間を。

 噂が街を変えはじめ、庭の月夜に、アレンが初めて、胸の内を語ります。恋の予感を、ゆっくり。

 せり市の夜から、数日が過ぎた。


 アレンは毎朝、屋敷の庭で脚を動かしていた。歩き、止まり、地を蹴る。まだ全力では走れず、少し無理をすれば腱の奥がじんと痛んだ。それでも彼は動くのをやめなかった。四年前は当たり前だった一つ一つの動作が、いまはひとつずつ宝物のように思えた。


 その様子を、エレノアは縁側から飽きもせず見守っている。茶を支度し、汗をぬぐう布を用意し、世話を焼くことそのものが、彼女の生きがいであるかのようだった。


「あまり見るな。落ち着かん」


「無理です。だって、あなたが動くたびに、うれしくて」


 そう言いながら、彼女はほんとうに幸せそうに笑うのだった。


 試しに庭の端まで軽く駆けてみると、十歩ほどで脚の奥が鋭く痛んだ。アレンは膝をつき、荒い息を吐く。すぐさまエレノアが駆け寄って、その背をさすった。


「無理を、なさらないで」


「……まだこの程度か。疾風の小手を全力で使うには、体が追いつかん」


「焦らずとも。あなたの脚はもう動いています。それだけで、奇跡なのですから」


 悔しさと、それでも隠せない喜びとが、アレンの胸で混じり合った。取り戻せたのはまだ力の一部にすぎない。だが確かに、前へと進んでいる。



 王都では、あの夜の噂が、人づてにじわりと広がっていた。


 地下のせり市で暴走した神域武装を、一人の男が鎮めた。落ちぶれたはずのあの勇者だ――と。噂は尾ひれをつけながら、貴族から民へ、民から民へと流れていく。エレノアも英雄としての立場を使い、その火にひそかに薪をくべていた。真実の欠片を、あるべき形へ導くように。


 市場の外れで、アレンはそれを自分の耳で聞いた。


「なあ、聞いたか。地下の化け物騒ぎを鎮めたって男の話」


「ああ。なんでも昔の勇者様だったって噂だぜ。ほら、王太子殿下に手柄を、って言われてる、あの」


「じゃあ、殿下の話は嘘だってのか」


 声をひそめる民たち。誰もまだ確信は持てずにいる。ただ心の隅に、小さな棘のような疑問が刺さりはじめていた。


 光が強すぎる国だ。だからこそ、ひとたび影が差せば、人はその影の意味を考えはじめる。


 エレノアが、アレンの袖を指先で引いた。


「ね。世界は変わりはじめています。あなたの、一歩から」


「よいのか。おまえまで目立って」


「かまいません。世界が少しずつ思い出せばいいのです。本物の英雄は誰だったのかを」


 エレノアの声には、揺らがない確信があった。彼女は急いでいない。一夜ですべてをひっくり返そうとはせず、じわじわと真実を世界に沁みこませていく。それがいちばん崩れにくいやり方だと、知っているのだ。



 その夜。


 眠れずに庭へ出たアレンは、月明かりの下に先客を見つけた。エレノアだった。夜着に肩掛けをまとい、噴水のふちにひとり腰かけている。英雄の甲冑も社交の仮面もない、ただの一人の娘の静かな横顔だった。


「……眠れんのか」


「あなたこそ」


 アレンは少し迷ってから、その隣に腰をおろした。噴水の水音が、二人のあいだをやさしく満たしていく。しばらく、どちらも何も言わなかった。


 やがて口を開いたのは、アレンのほうだった。自分でも意外なことに。


「四年前のことを、まだ夢に見る。玉座の間で、仲間に背中を刺された夜のことを」


 エレノアが、こちらを見る。


「あいつらとは十年、一緒に戦った。飯を分け、傷をかばい合った。……それが全部、嘘だった。魔王を倒したその瞬間に、手のひらを返された。あの日から俺は、誰も信じられなくなった」


 初めて他人に語る言葉だった。四年ものあいだ腹の底に沈めていた、いちばん深い傷。エレノアは口を挟まず、ただ聞いていた。語り終えて、アレンは自嘲するように笑った。


「……なのに、俺はいま、おまえの隣で、こんな話をしている。おかしなものだな」


「おかしくなんて、ありません」


 エレノアは月を見上げたまま、言った。


「疑ってくれて、いいのです。私をすぐに信じなくていい。でも、こうして話してくれた。それだけで、私は……」


 声が詰まり、彼女の頬を一筋の涙が伝う。


「それだけで、四年、探しつづけた甲斐が、ありました」


 アレンは、その横顔を見つめた。この女は見返りを求めない。崇拝を返せとも、愛を返せとも言わない。ただ彼が少しでも心を開けば、それだけで泣くほど喜ぶのだ。


 重い。この想いは、間違いなく重い。だがその重さが、いまは心地よかった。凍えた体をじんわりと温める火のように。


 アレンは、壊れ物にふれるように、彼女の頭に手を置いた。かつて彼女が、彼の手にそうしたのと、同じように。


「……ありがとう。探してくれて」


 エレノアの目が、大きく見開かれた。そしてくしゃりと、子どものように泣き笑いする。しばらく彼女は、その手のぬくもりを味わうように目を閉じていた。やがて消え入りそうな声でつぶやく。


「あの、アレン様。……ひとつだけ、わがままを言っても」


「なんだ」


「いつか。……あなたの隣にいる理由が、恩や義務ではなくなる日が来たら。そのときは、ちゃんと言葉にしてもらえますか。あなたの、口から」


 その願いの意味を、アレンは正しく受け取った。頬が、月明かりの下でも分かるほど熱くなる。すぐには答えられなかった。まだこの胸の名を確かめる勇気がない。だが、嘘だけはつきたくなかった。


「……いつか、な。約束はまだできん。だが」


 言葉を、探す。


「その日が来ない気は、しない」


 精一杯の、不器用な返事だった。エレノアはそれを聞いて、この夜いちばん幸せそうに微笑んだ。


 だが、その笑みは、月が雲に隠れた一瞬、ふっと翳った。


(……その日が来る前に。あなたがすべてを取り返して、本物の英雄に戻ってしまう前に。私がしたことを、知られてしまったら)


 エレノアは、言いかけた言葉を喉の奥で呑みこんだ。あなたを探すために、この手が何をしたか。復讐が終わったとき、自分がどうなるのを恐れているか。言えない。愛しているから、言えない。嫌われるくらいなら、この罪は一人で抱えて、墓まで持っていく。


 アレンは、その一瞬の翳りに気づかなかった。エレノアはすぐに、いつもの澄んだ笑顔へ戻っていたから。



 翌朝、その穏やかな時を破るように、一羽の伝令鳥が屋敷に舞い降りた。


 エレノアが文を開くと、その表情がすっと引き締まった。


「アレン様。……次の一つが、動きます」


「神域武装か」


「はい。【不壊の金剛盾】。持ち主は――重騎士ボルド。あなたの、元仲間です」


 エレノアは、文を握りしめた。


「厄介な相手です。モルガンのような腐った貴族とは違う。ボルドはいま、民に愛される英雄騎士。魔物から街を守った武勇伝を掲げ、民衆の人気は絶大です。……盾を奪えば、あなたが民の英雄を襲った悪役に、されかねません」


「表向きは、英雄、か」


「はい。だからこそ、力ずくでは駄目です。あの男の偽りの武勇伝そのものを、白日のもとに暴かなければ。……盾と一緒に、嘘の栄光ごと剥ぎ取るのです」


 アレンの目が、冷たく凪いだ。


 ボルド。あの日、倒れた自分を見下ろし、「悪く思うなよ」と笑った男の一人だ。それがいまは民に愛される英雄騎士として、その盾を誇らしげに掲げているという。


「……そうか。あいつか」


 声に憎しみはなかった。ただ底の見えない冷たさだけが、そこにあった。そのほうが、よほど恐ろしかった。


 握りしめた拳の奥で、疾風の小手が脈打った。次の獲物を待ちわびるように。


 偽りを剥ぎ取る旅は、いよいよ、かつての仲間へと、向かっていく。

 ありがとうございます。

 「その日が、来ない気は、しない」。まだ言葉にできないアレンの、精一杯の返事です。不器用ですが、そこが彼らしいと思っています。

 穏やかな夜のあとに届く、次の標的の報せ。元仲間・重騎士ボルドと、【不壊の金剛盾】。因縁の相手との対決が、近づいてきます。

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泥にまみれた元勇者アレンと 白金の英雄エレノアの旅の物語です
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