第8話 噂と庭の夜
第8話。少しだけ、穏やかな時間を。
噂が街を変えはじめ、庭の月夜に、アレンが初めて、胸の内を語ります。恋の予感を、ゆっくり。
せり市の夜から、数日が過ぎた。
アレンは毎朝、屋敷の庭で脚を動かしていた。歩き、止まり、地を蹴る。まだ全力では走れず、少し無理をすれば腱の奥がじんと痛んだ。それでも彼は動くのをやめなかった。四年前は当たり前だった一つ一つの動作が、いまはひとつずつ宝物のように思えた。
その様子を、エレノアは縁側から飽きもせず見守っている。茶を支度し、汗をぬぐう布を用意し、世話を焼くことそのものが、彼女の生きがいであるかのようだった。
「あまり見るな。落ち着かん」
「無理です。だって、あなたが動くたびに、うれしくて」
そう言いながら、彼女はほんとうに幸せそうに笑うのだった。
試しに庭の端まで軽く駆けてみると、十歩ほどで脚の奥が鋭く痛んだ。アレンは膝をつき、荒い息を吐く。すぐさまエレノアが駆け寄って、その背をさすった。
「無理を、なさらないで」
「……まだこの程度か。疾風の小手を全力で使うには、体が追いつかん」
「焦らずとも。あなたの脚はもう動いています。それだけで、奇跡なのですから」
悔しさと、それでも隠せない喜びとが、アレンの胸で混じり合った。取り戻せたのはまだ力の一部にすぎない。だが確かに、前へと進んでいる。
王都では、あの夜の噂が、人づてにじわりと広がっていた。
地下のせり市で暴走した神域武装を、一人の男が鎮めた。落ちぶれたはずのあの勇者だ――と。噂は尾ひれをつけながら、貴族から民へ、民から民へと流れていく。エレノアも英雄としての立場を使い、その火にひそかに薪をくべていた。真実の欠片を、あるべき形へ導くように。
市場の外れで、アレンはそれを自分の耳で聞いた。
「なあ、聞いたか。地下の化け物騒ぎを鎮めたって男の話」
「ああ。なんでも昔の勇者様だったって噂だぜ。ほら、王太子殿下に手柄を、って言われてる、あの」
「じゃあ、殿下の話は嘘だってのか」
声をひそめる民たち。誰もまだ確信は持てずにいる。ただ心の隅に、小さな棘のような疑問が刺さりはじめていた。
光が強すぎる国だ。だからこそ、ひとたび影が差せば、人はその影の意味を考えはじめる。
エレノアが、アレンの袖を指先で引いた。
「ね。世界は変わりはじめています。あなたの、一歩から」
「よいのか。おまえまで目立って」
「かまいません。世界が少しずつ思い出せばいいのです。本物の英雄は誰だったのかを」
エレノアの声には、揺らがない確信があった。彼女は急いでいない。一夜ですべてをひっくり返そうとはせず、じわじわと真実を世界に沁みこませていく。それがいちばん崩れにくいやり方だと、知っているのだ。
その夜。
眠れずに庭へ出たアレンは、月明かりの下に先客を見つけた。エレノアだった。夜着に肩掛けをまとい、噴水のふちにひとり腰かけている。英雄の甲冑も社交の仮面もない、ただの一人の娘の静かな横顔だった。
「……眠れんのか」
「あなたこそ」
アレンは少し迷ってから、その隣に腰をおろした。噴水の水音が、二人のあいだをやさしく満たしていく。しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがて口を開いたのは、アレンのほうだった。自分でも意外なことに。
「四年前のことを、まだ夢に見る。玉座の間で、仲間に背中を刺された夜のことを」
エレノアが、こちらを見る。
「あいつらとは十年、一緒に戦った。飯を分け、傷をかばい合った。……それが全部、嘘だった。魔王を倒したその瞬間に、手のひらを返された。あの日から俺は、誰も信じられなくなった」
初めて他人に語る言葉だった。四年ものあいだ腹の底に沈めていた、いちばん深い傷。エレノアは口を挟まず、ただ聞いていた。語り終えて、アレンは自嘲するように笑った。
「……なのに、俺はいま、おまえの隣で、こんな話をしている。おかしなものだな」
「おかしくなんて、ありません」
エレノアは月を見上げたまま、言った。
「疑ってくれて、いいのです。私をすぐに信じなくていい。でも、こうして話してくれた。それだけで、私は……」
声が詰まり、彼女の頬を一筋の涙が伝う。
「それだけで、四年、探しつづけた甲斐が、ありました」
アレンは、その横顔を見つめた。この女は見返りを求めない。崇拝を返せとも、愛を返せとも言わない。ただ彼が少しでも心を開けば、それだけで泣くほど喜ぶのだ。
重い。この想いは、間違いなく重い。だがその重さが、いまは心地よかった。凍えた体をじんわりと温める火のように。
アレンは、壊れ物にふれるように、彼女の頭に手を置いた。かつて彼女が、彼の手にそうしたのと、同じように。
「……ありがとう。探してくれて」
エレノアの目が、大きく見開かれた。そしてくしゃりと、子どものように泣き笑いする。しばらく彼女は、その手のぬくもりを味わうように目を閉じていた。やがて消え入りそうな声でつぶやく。
「あの、アレン様。……ひとつだけ、わがままを言っても」
「なんだ」
「いつか。……あなたの隣にいる理由が、恩や義務ではなくなる日が来たら。そのときは、ちゃんと言葉にしてもらえますか。あなたの、口から」
その願いの意味を、アレンは正しく受け取った。頬が、月明かりの下でも分かるほど熱くなる。すぐには答えられなかった。まだこの胸の名を確かめる勇気がない。だが、嘘だけはつきたくなかった。
「……いつか、な。約束はまだできん。だが」
言葉を、探す。
「その日が来ない気は、しない」
精一杯の、不器用な返事だった。エレノアはそれを聞いて、この夜いちばん幸せそうに微笑んだ。
だが、その笑みは、月が雲に隠れた一瞬、ふっと翳った。
(……その日が来る前に。あなたがすべてを取り返して、本物の英雄に戻ってしまう前に。私がしたことを、知られてしまったら)
エレノアは、言いかけた言葉を喉の奥で呑みこんだ。あなたを探すために、この手が何をしたか。復讐が終わったとき、自分がどうなるのを恐れているか。言えない。愛しているから、言えない。嫌われるくらいなら、この罪は一人で抱えて、墓まで持っていく。
アレンは、その一瞬の翳りに気づかなかった。エレノアはすぐに、いつもの澄んだ笑顔へ戻っていたから。
翌朝、その穏やかな時を破るように、一羽の伝令鳥が屋敷に舞い降りた。
エレノアが文を開くと、その表情がすっと引き締まった。
「アレン様。……次の一つが、動きます」
「神域武装か」
「はい。【不壊の金剛盾】。持ち主は――重騎士ボルド。あなたの、元仲間です」
エレノアは、文を握りしめた。
「厄介な相手です。モルガンのような腐った貴族とは違う。ボルドはいま、民に愛される英雄騎士。魔物から街を守った武勇伝を掲げ、民衆の人気は絶大です。……盾を奪えば、あなたが民の英雄を襲った悪役に、されかねません」
「表向きは、英雄、か」
「はい。だからこそ、力ずくでは駄目です。あの男の偽りの武勇伝そのものを、白日のもとに暴かなければ。……盾と一緒に、嘘の栄光ごと剥ぎ取るのです」
アレンの目が、冷たく凪いだ。
ボルド。あの日、倒れた自分を見下ろし、「悪く思うなよ」と笑った男の一人だ。それがいまは民に愛される英雄騎士として、その盾を誇らしげに掲げているという。
「……そうか。あいつか」
声に憎しみはなかった。ただ底の見えない冷たさだけが、そこにあった。そのほうが、よほど恐ろしかった。
握りしめた拳の奥で、疾風の小手が脈打った。次の獲物を待ちわびるように。
偽りを剥ぎ取る旅は、いよいよ、かつての仲間へと、向かっていく。
ありがとうございます。
「その日が、来ない気は、しない」。まだ言葉にできないアレンの、精一杯の返事です。不器用ですが、そこが彼らしいと思っています。
穏やかな夜のあとに届く、次の標的の報せ。元仲間・重騎士ボルドと、【不壊の金剛盾】。因縁の相手との対決が、近づいてきます。




