第76話 返してやろう
栄光の嵐がやみ、蒐集者が差し出したのは――取り返せなかったものを、すべて返すという、甘すぎる取引だった。
栄光の嵐が、ふいにやんだ。
舞い狂っていた武具が、ぴたりと宙で止まる。まるで時が凍りついたように。
白の蒐集者が、腕を下ろしていた。
「……少し、話をしよう」
声はふたたび、あのやわらかな響きに戻っていた。
「おまえは、おもしろい男だ」
蒐集者は玉座から、ゆっくりと歩み出た。
「わたしに抗った者は数多いた。だがみな、栄光を返したがると口では言いながら、心の奥ではおのれの栄光を惜しんでいた。……おまえはちがう。ほんとうに、おのれの誉れなどどうでもいいらしい」
まばゆい顔が、アレンをのぞきこんだ。
「なら、ひとつ取引をしよう」
その瞬間、蔵の空気が変わった。まばゆさの奥から、あたたかい光景がにじみ出す。
――アレンは、見た。
泥にまみれる前の、自分を。
勇者としてたたえられ、栄光に包まれていたころの自分。奪われなかった名、踏みにじられなかった誇り。……もしあの日、すべてを失わなければ手にしていたはずの未来が、まばゆくそこにあった。
まぼろしのなかのアレンは、玉座に座り、人々にたたえられていた。かたわらには、うつくしい装いのエレノアもいた。何ひとつ欠けていない、傷ひとつない栄光の日々だった。
それはかつて、アレンが奪われた未来そのものだった。見せられて、胸が締めつけられぬはずがなかった。あの日、泥のなかで失ったすべてが、手を伸ばせば届くところで輝いている。忘れかけていた温もりが、まざまざとよみがえってくる。
「返してやろう」
蒐集者はささやいた。
「おまえから奪われた栄光を、すべて。……いや、それだけではない」
光景が移ろう。
――そこには、あの親子がいた。
灰の帝国のコルム。我が子の顔を忘れさせられた父が、この光景のなかでは笑っていた。我が子を抱き、名を呼び、何ひとつ失っていない姿で。
――クラリスに枯らされた娘たちがいた。門前で死んだ赤子がいた。
みな、生きて、笑っていた。
その光景は、あまりにもよくできていた。アレンが旅の途中で救えなかった者たち。取り返せなかった命。忘れられた記憶。……胸のいちばん痛むところを、蒐集者は正確に突いてきた。
まるでアレンの心の傷を、ぜんぶ読み取ったうえで、そこにぴたりと合う鍵を差しこむように。剣で斬りかかられるより、この光景のほうがよほど鋭くアレンを抉った。守りたくても守りきれなかった者たちの顔が、笑って自分を見ている。それは責め苦にも似た、優しさだった。
「わたしにはできる」
蒐集者の声が、甘く響いた。
「わたしは奪う者。だが、奪ったものを返すこともできる。……取り返せなかったものを、ぜんぶおまえに返してやろう。死んだ者も、忘れられた記憶も、すべてなかったことにしてやる」
アレンの、剣を握る手が震えた。
「そのかわり」
蒐集者は言った。
「この蔵のことは忘れろ。名もなき者を返す旅をやめろ。……おまえがこの蔵から立ち去りさえすれば、世界はおまえにとって、いちばんやさしいかたちになる」
沈黙が落ちた。
アレンは動かなかった。
取り返せなかったはずのものが、すべて目の前にあった。コルムの笑顔。死なずにすんだ娘たち。生きて泣く赤子。……この旅で救えなかった、あの苦さ。それがぜんぶ消える。
喉が渇いた。
――もし、うなずけば。
その誘惑は、あまりにも強かった。うなずけば、すべてが報われる。旅のはじめから抱えてきた後悔が、ぜんぶ消える。
これほど甘い毒はなかった。蒐集者は剣で脅すのではなく、いちばんやさしい顔で、アレンの意志を溶かそうとしていた。にせの栄光が人々をたらしこむのと、同じやり方で。まばゆい嘘を、人がみずから望んでしまう。あの町で見た人々と、いまの自分は何も変わらない。アレンは奥歯を噛みしめた。
アレンの剣先が、わずかに下がった。ほんの一瞬、心がかたむいた。取り返せるなら、……取り返してやりたい。あの親子に、あの赤子に、もういちどあたりまえの幸せを。
「アレン様」
声がした。エレノアだった。青ざめた顔で、それでもまっすぐアレンを見ていた。
「決めるのはあなたです。……でも、ひとつだけ」
彼女もまた、まぼろしを見せられていた。死んだはずの者が生き返る光景。人を想う心の強い彼女には、その誘惑はアレン以上につらかったはずだ。それでも、彼女はのまれなかった。
彼女の声は震えていた。
「そこにいるコルムさんは、ほんとうのコルムさんではありません。あの人は記憶を失っても、それでも前を向いて生きようとしていました。……そのけなげさを、なかったことにしていいんですか」
アレンの胸が突かれた。
まぼろしのコルムは、たしかに笑っていた。だが、その笑みはどこかうつろだった。何も失っていないかわりに、何も乗り越えていない、痛みを知らぬ笑顔。それは灰の帝国で見た、灰色の人々のうつろさと、どこか似ていた。
痛みを消すことは、痛みを乗り越えた者の強さまで消してしまう。エレノアの言葉は、それを言い当てていた。なかったことにされた幸福は、もう幸福ですらない。乗り越えた痛みがあるからこそ、その笑顔には重みが宿る。まぼろしのコルムには、その重みがどこにもなかった。
そうだ。
アレンは剣を握りなおした。
「……いい話だ。あまりにいい話すぎて、反吐が出る」
蔵にまばゆく広がっていた光景が、ぴくりと揺れた。
「取り返せなかった痛みを、なかったことにする。……それは救いじゃない。ごまかしだ。コルムは記憶を失った。だが、それでも名もない我が子を、もういちど抱きしめて生きなおそうとした。……その痛みごと、あいつの人生だ。俺が勝手に消していいものか」
アレンは、まばゆい蒐集者をにらんだ。
「取り返せないものがある。それを抱えて、それでも前を向く。……それが人だ。お前のまやかしの楽園なんか、いらない」
蒐集者のまわりの光景が、音をたてて砕けた。
やさしいまぼろしが消え、ふたたび冷たい栄光の墓場があらわれる。
「……愚かな」
蒐集者の声から、ぬくもりが消えた。
「与えられた幸福を、みずから捨てるか。……ならば、もう加減はせぬ」
まばゆさがふくれあがった。蔵じゅうの栄光が、ふたたび不穏に唸りをあげる。
エレノアが、そっとアレンのとなりに並んだ。
「よかった」
彼女は青ざめた顔で、それでも微笑んだ。
「あなたがうなずいたら、……どうしようかと思いました。まぼろしの幸せのなかで、あなたがあなたでなくなってしまう。それがいちばん、こわかった」
「……すまん。一瞬、心が揺れた」
「揺れていいんです。揺れても、戻ってきてくれた。それでじゅうぶんです」
その言葉に、アレンは小さくうなずいた。
二人は目をあわせた。まぼろしの栄光の日々よりも、この傷だらけのいまのほうが、ずっとたしかで、あたたかかった。取り返せないものを抱えたまま、それでも隣に立っていてくれる者がいる。それだけで、どんな楽園よりも十分だった。
いちばん甘い誘惑をはねのけた二人へ、白の蒐集者のほんとうの怒りが、牙をむこうとしていた。
誘惑回です。救えなかったコルムたちを「なかったことにする」楽園を突きつけました。痛みを消すことは、乗り越えた強さまで消すこと。エレノアの一言でアレンが踏みとどまる、今作の心臓部です。




