第73話 忘れられる荒野
記憶を吸う荒野で、アレンが見た幻。万象武具庫の始まり――名もなき「はじまりの男」の、途方もない覚悟とは。
白い荒野に、足を踏み入れた。
草木はなかった。地の果てまで、白い砂のようなものが広がっている。空も白くかすんで、太陽の位置すらわからなかった。音もしない。風すら吹いていないのに、頬がひやりと冷えた。
歩けども歩けども、景色は変わらなかった。そして一歩ごとに、何かが抜け落ちていく。振り返っても、自分たちの足跡はもう白い砂に呑まれて消えていた。来た道すら忘れさせる荒野だった。
「アレン様。……いま、何の話をしていましたっけ」
エレノアがふいに足を止めた。アレンも同じだった。ついさっき二人で話していたはずのことが、思い出せない。旅の途中であった出来事がぼやけていく。あの老狩人の顔も、語り部の婆さんの声も、もうあいまいだった。
「……ここは、記憶を吸う」
アレンは奥歯を噛んだ。
「気をしっかり持て。大事なものから忘れていくぞ」
二人は手をつないだ。どちらからともなく、ごく自然に。
「これだけは忘れません」
エレノアが言った。
「あなたの手のあたたかさ。……これを握っていれば、わたしはわたしでいられます」
アレンはその手を握りかえした。
忘却の荒野で、二人のつないだ手だけが、たしかな熱を持っていた。人を想う心は、この荒野でさえ奪えなかった。
なぜ、手のあたたかさだけは消えないのか。アレンにはわかる気がした。この荒野が奪うのは「したこと」だ。手柄。功績。成し遂げた記憶。だが、誰かを想う気持ちは、何かを成すこととはちがう。それはただ、そこに在るだけの心だ。
だから奪えない。栄光は奪えても、愛は奪えない。……それがこの荒野の、たったひとつの抜け道だった。二人はその抜け道を、つないだ手のなかに握りしめていた。名も、手柄も、旅の日々の記憶さえ薄れていくなかで、相手を想う気持ちだけは、確かにそこにあった。
だが、荒野の奥へ進むほど、アレンの右手が疼きはじめた。
万象武具庫。奪われた者の遺志を宿す力。その右手が、この荒野に呼応するように熱を帯びていく。まるで故郷に帰ってきた者のように。
「く……っ」
アレンは膝をついた。
右手からおびただしい記憶が流れこんできた。これまで呼び出してきたすべての武具の、持ち主たちの記憶。……いや、それだけではなかった。もっと古い、もっと深い、この力そのものの始まりの記憶が。
――アレンは、見た。
遠い昔。まだ英雄という言葉もなかったころ。
ひとりの男がいた。名はない。ただ人々のために魔を討ち、水を引き、道を拓いた。だが、その手柄はすべて、あるまばゆい存在に吸い取られていった。
そのまばゆい存在こそ、白の蒐集者のはじまりだった。
それは人のかたちをしていなかった。ただまばゆい、栄光のかたまり。人々が英雄をあがめ、名もなき者を忘れる。その心のすきまからにじみ出た、願望の化け物だった。
人は強く、うつくしい者にすがりたい。泥くさい真実よりも、まばゆい物語を信じたい。……その心が蒐集者を生み、育てた。だから蒐集者は、人がいるかぎり滅びなかった。
人々は名もなき男を忘れた。かわりに蒐集者のまとう栄光だけをあがめた。
名もなき男は憤らなかった。ただ悲しんだ。
――このままでは、成した者が忘れられ、奪った者があがめられる。そんな世が永遠に続いてしまう。
男はひとつのことを思いついた。蒐集者が栄光を奪い、蔵にしまうなら、自分はその逆をしよう。忘れられた者の遺志を拾い、背負い、次の世へ手渡そう、と。
男は蒐集者の力の一片を、おのれの右手に宿し、それをまるごとひっくり返した。奪う蔵を、返す蔵へと。奪うことしか知らぬ力を、返すためだけの力へ。その一点の反転にこそ、名もなき男の意志のすべてが込められていた。
それは途方もない覚悟だった。
蒐集者の力を宿すたびに、男の命は削られた。奪う力を返す力へねじ曲げる、その無理が使う者に跳ね返る。だから万象武具庫には代償がある。武具を呼ぶたびに命を削る、あの痛み。……あれははじまりの男の覚悟が、そのまま刻みこまれたものだった。
名もなき男は栄光を望まなかった。ただ、忘れられた者が忘れられない世を望んだ。そのたったひとつの願いのために、おのれの命を削りつづけた。
――それが、万象武具庫の始まりだった。
名もなき男はその力を、ひとりの後継者に託した。そしてその者がまた、次の者へ。忘れられた者を忘れまいとする心を、持つ者から持つ者へ、何百年も受け継がれて。
そしていま、その力はアレンの右手にあった。
「……そういう、ことか」
アレンは荒い息のまま、つぶやいた。
万象武具庫と白の蒐集者は、同じ根から生まれた。だが一方は奪うために、一方は返すために。名もなき男が蒐集者に抗って生み出した力。それがめぐりめぐって、同じく栄光を奪われたアレンのもとへ来た。
偶然ではなかった。この力はずっと、蒐集者を倒せる者を探していたのだ。何百年も、忘れられた者から忘れられた者へと受け継がれながら、この右手はただ一人、あの化け物へ引導を渡せる者が現れるのを、静かに待ちつづけていた。
なぜこの力がアレンを選んだのか。それもわかった。栄光を奪われ、名を忘れられ、泥にまみれた者。……その痛みを骨の髄まで知る者でなければ、忘れられた者の遺志を、ほんとうに背負うことはできない。
アレンはかつて、にせの英雄にすべてを奪われた。だからこそ、奪われる痛みが誰よりもわかる。この力はそういう傷を負った者にしか宿らない。傷が資格だった。皮肉な話だと、アレンは思った。あの日、栄光を奪われて泥にまみれたことこそが、いまこうして忘れられた者たちを背負うための、たったひとつの資格になっていたのだ。
「アレン様……っ。だいじょうぶですか」
エレノアがアレンを支えた。
「ああ。……見えた。俺の力の始まりが。そして、あいつを倒すためにこの力が俺のところへ来た理由も」
アレンは立ち上がった。右手の疼きはまだ消えないが、もう恐れはなかった。
「行こう。……この旅は俺が始めたものじゃなかった。名もなき、はじまりの男からずっと続いてきた旅だ。その、いちばん最後を俺が引き受ける」
白い荒野の奥に、かすかに何かが見えはじめた。白くそびえる、巨大な蔵のような影が。
――白の蒐集者の、栄光の蔵。
その蔵は近づくほどにまがまがしく、そして哀しかった。白い壁は無数の、人の顔のレリーフで埋めつくされていた。栄光を奪われた者たちの顔。名もなき討伐者、忘れられた築堤者、手柄を取られた兵士。……何百年、何千人。おびただしい忘れられた者の顔が、声もなく壁からこちらを見つめていた。
「……ぜんぶ、あの中に」
エレノアが息をのんだ。
「奪われた栄光が、ぜんぶあの蔵に閉じこめられているんですね」
「ああ。……なら、やることはひとつだ」
アレンは右手を握った。
「あの蔵をこじ開けて、ぜんぶ返す。持ち主のもとへ。忘れられた者たちの名を、この世に取り戻す」
忘れられた者たちの無念の、行き着く先が、ようやく二人の視界に姿をあらわした。長い収集奇譚の終着点が、すぐそこにあった。
力の起源編です。武具を呼ぶたびに命を削る「代償」は、はじまりの男の覚悟そのものだった、という設定にしました。栄光を奪われた痛みを知る者にしか宿らない――傷が資格、というのが今作のテーマです。




