第72話 忘却の語り部
忘れられる荒野。人から「したこと」を奪う、白の蒐集者。そして、アレンの力・万象武具庫との、不吉なつながり。
白い荒野へまっすぐ向かう道は、なかった。
地図の空白。そこは人が近づかぬ場所だった。行こうとする者を、土地の者は口々に止めた。あそこは忘れられる場所だ、と。
忘れられるとはどういうことか。問うても、誰もうまく答えられなかった。ただ、あの荒野へ向かった者は二度と誰の記憶にも残らない、と。そう言い伝えられていた。
旅のはじめ、二人はそれをただの土地の迷信だと思っていた。だが近づくほどに、妙なことが起きはじめた。宿で名を告げても、翌朝には宿の主が二人のことを忘れている。道をたずねた相手が、別れたとたん、誰と話していたのかわからなくなっている。
このあたりでは記憶がうまく根づかない。まるで土そのものが、人のしたことを吸い取っていくように。二人は互いの名を何度も呼びあい、これまで交わした約束を口にしては確かめた。忘れまいとすればするほど、指のあいだから砂がこぼれるように、旅の記憶がぼやけていくのが恐ろしかった。
荒野の手前、最後の集落で、二人はひとりの老女に会った。
語り部だと名乗った。このあたりの古い話を語り継ぐのが役目だという。枯れ枝のような身体を杖に預け、落ちくぼんだ眼だけが、遠い昔を映すように澄んでいた。
「白い荒野のことを、知りたいのかい」
どうしてそれがわかったのか。二人はまだ何もたずねていなかった。老女はかすかに笑った。
「あの荒野へ向かう目をした者は、すぐにわかるのさ。……この何十年で、あんたたちで三人目だよ。前の二人は、帰ってこなかったがね」
老女は二人をじっと見た。
「やめておき。あそこはこの世でいちばんむごい場所さ。……人からしたことを奪う場所だ」
「したことを、奪う」
「そうさ。手柄も功績も、愛した記憶さえも、……ぜんぶ吸い取られる。吸い取られた者は、何も成さなかったぬけがらになる。そして、その栄光を啜って肥え太るものがいる」
二人は顔を見あわせた。
町で見たにせの英雄、腕を失った老狩人。あの若者に手柄を奪われ、誰にも覚えてもらえなかった老人。……あれもこの荒野から伸びた手の、ひとつだったのだ。
老女は声をひそめた。
「白の蒐集者。……そう呼ばれている」
その名を聞いたとたん、エレノアの光がびくりと震えた。町で感じた、あの気配の正体だった。
「大昔からいるのさ。人が英雄をあがめ、名もなき者を忘れる。そのたびにあれは力を増す。……いや、逆かもしれないね。あれがいるから、人は英雄にすがり、ほんとうの手柄を忘れるのかも」
鶏が先か、卵が先か。だがどちらにせよ、にせの栄光とあの蒐集者は、分かちがたく結びついていた。人の心の弱さがあの化け物を養い、あの化け物がまた人の心の弱さを煽る。断ち切るには、その輪のどこかへ刃を差し入れねばならなかった。
「なぜあんたは、それを知っている」
アレンが問うた。老女はしばらく黙り、それからぽつりと言った。
「……忘れられたくないからさ」
彼女の目に、深い悲しみがよぎった。
「あたしの亭主はね、若いころこの村を洪水から救ったんだ。堤をひとりで築いて。……けど、あの蒐集者にその手柄を吸い取られた。今じゃ誰も覚えちゃいない。亭主が何をしたかなんて」
老女のしわだらけの手が震えた。
「だからあたしは語り部になった。忘れられた者のことを語り継ぐ。……せめてあたしだけは覚えていよう、と。それがあれへの、ささやかな抵抗さ」
その言葉は、アレンの旅そのものと重なった。名もなき者の遺志を拾い、背負う。忘れられた者を忘れない。……アレンがずっとしてきたことも、つまりはこの老女と同じ、ささやかな抵抗の積み重ねだったのだ。剣を持つか、言葉を紡ぐか。手立ては違っても、根にあるものはひとつだった。忘れられていく者の名を、この世につなぎとめておきたい。ただ、それだけの願いだった。
ひとりの語り部と、ひとりの勇者。かたや言葉で、かたや剣で。だが守ろうとしているものは同じだった。忘れられた者の、たしかにあった証を。
アレンはその話を聞きながら、ふと自分の右手を見た。
万象武具庫。奪われた者の遺志を宿す武具を、呼び出す力。この力を手に入れたとき、誰が授けてくれたのか、アレンはじつは覚えていなかった。気づいたら使えた、ただそれだけだった。
――待てよ。
嫌な予感がした。名もなき者の遺志を拾い、背負う、この力。それは、栄光を奪い忘れさせるあの蒐集者と、まるで合わせ鏡のようではないか。
「語り部の婆さん。ひとつ教えてくれ」
アレンは声を低くした。
「その白の蒐集者は、……どんな力を使う」
老女は答えた。
「奪う力さ。人の成したことを、手柄を、ぜんぶおのれの蔵にしまいこむ。……万物の栄光を蒐める蔵。そう呼ばれているよ」
アレンの背に、冷たいものが走った。
万物を蒐める蔵。
――万象武具庫。
あまりにもよく似ていた。万象武具庫は奪われた武具を呼び出す。白の蒐集者は奪った栄光を蔵にしまう。かたや持ち主のもとへ返そうとし、かたや永遠に閉じこめる。……やはり逆だ。だが逆だからこそ、同じ根から分かれた二本の枝のように思えてならなかった。
もしこの力の大本があの蒐集者だとしたら、俺はいったい何者の手のひらの上で、旅をしてきたのか。……その問いが、アレンの胸を冷たく締めつけた。
「エレノア」
アレンは彼女を見た。
「俺のこの力は、もしかしたらあの蒐集者と同じ根から生まれたものかもしれない」
エレノアは首を振った。
「同じ根でも、あなたはちがいます」
迷いのない声だった。エレノアはアレンの右手を、両手で包んだ。
「この手はいつも、差し伸べる手でした。泥にまみれたわたしを拾ってくれた手。名もなき者に剣を返してきた手。……奪う手には、決してなりませんでした」
「あれは奪って、忘れさせる。……あなたは拾って、覚えていようとする。同じ力でも、使う者の心がまるで逆です。……根が同じなら、なおのこと、あなたが行くべきなんです」
その言葉に、アレンのざわついた胸がすっと凪いだ。
そうだ。同じ力でも、奪う者と背負う者がいる。ならば、奪う者の大本を正せるのも、同じ根を持つ自分しかいない。恐れは消えなかった。だが、その恐れの奥に、静かな覚悟が芽生えていた。合わせ鏡だというのなら、鏡の向こうへ手を伸ばして、歪んだ像を正すのは自分の役目だ。
別れぎわ、語り部の老女は二人の手をかたく握った。
「あんたたちのことは、あたしが覚えておくよ。……もしあの荒野で忘れられてしまっても、ここにひとり、あんたたちを覚えている者がいる。それを忘れないでおくれ」
アレンはうなずき、エレノアも深く頭を下げた。
たったひとりでも、覚えている者がいる。それは忘却の荒野へ挑む二人にとって、何よりの灯りだった。世界じゅうから忘れられたとしても、この集落にひとつだけ、二人の名を灯しつづける火が残る。その火を頼りに、二人は帰ってこられる気がした。
白い荒野へ。忘れられる場所へ。二人は踏みこむ覚悟を決めた。忘れられたすべての者のために。そしてたがいを、決して忘れないと、心に誓いあって。
アレンの力の正体に踏み込みます。奪う蔵と、返す蔵。蒐集者と万象武具庫が、同じ根から生まれた合わせ鏡だと明かしました。「同じ力でも、使う者の心で逆になる」――エレノアの一言が芯です。




