第70話 その名を、呼ぶ
その名を、呼ぶ。番号でも称号でもない、ただひとりの、人の名を。二人の物語は、次の地平へ。
旅立ちの朝が来た。
灰色だった国は、もうアレンたちの手を必要としなくなっていた。
人々はまだいさかいながらも、少しずつ自分たちで国をかたちづくりはじめていた。評議の場も、すこしは話しあいらしくなってきた。リオが、若いまとめ役のひとりに選ばれた。
まだ二十歳のリオには、荷が重い役目だった。だが彼は逃げなかった。妹を灰にされた、あの痛みを、二度と誰にも味わわせないために。城門の見送りの列のなかで、リオはまっすぐに背を伸ばしていた。かつて塔におびえ、うつむいてばかりいた少年の面影は、もうどこにもなかった。
もうここに、勇者と英雄が居座る理由はなかった。旅を続ける者は、留まってはならない。留まれば、人々はまた誰かにすがりはじめる。それは、あたらしい灰色の始まりになりかねなかった。
英雄にすがりすぎた国がどうなるか、二人はもう、いやというほど見てきた。エレノアが偽りの英雄に祭りあげられた、あの国。そして、英雄を恐れるあまり、心ごと捨てた、この国。どちらも、ひとりの突出した者に国の命運をあずけすぎた、ゆがみだった。
だから、二人は去る。この国の色は、この国の人々が自分たちの手で塗っていく。たとえ下手でも、いびつでも、それが、いちばんいい。
城門の前に、都の人々が見送りに集まっていた。
コルムが赤子を抱いて立っていた。その子には、名がついていた。
「この子の名は、アレンにしました」
コルムが照れくさそうに言った。
「あなたが取り戻してくれた、笑い声ですから」
アレンは思わず目を丸くした。それから、ふっと笑った。
「……重い名だな。せいぜい、よく笑う子に育ててやってくれ」
マレンが進み出た。しわだらけの手に、小さな包みを持って。
「餞別だよ。道中の食い物さ。……達者でな、勇者さん、英雄さん」
老女の目に、涙がにじんでいた。
「あんたたちのこと、この国はずっと忘れないよ。名を取り戻してくれた恩人として。……いや」
マレンは首を振った。
「恩人なんて、他人行儀はよそう。……友だちとして、さ」
ダンが娘を肩車して、手を振っていた。名を取り戻した人々が、口々に別れを惜しんだ。
かつてうつむき、声を殺し、番号として生きていた人々が、いま声をあげ、名を呼び、涙を流して、二人を見送っている。
その光景が、何よりの報酬だった。金貨でも、称号でも、石像でもない。ただ、人が人らしく声をあげているという、それだけのことが。
旅のはじめ、アレンは栄光を奪われた男だった。名を忘れられ、泥にまみれ、誰にも見向きもされなかった。
だがいま、彼は知っている。ほんとうの栄光とは、像になることでも、名を石に刻まれることでもない。こうして誰かの笑顔を取り戻すこと。名を呼びあえる日々を守ること。……それこそが、奪われたって誰にも奪い返せない、ほんものの栄光だった。
アレンとエレノアは、深く頭を下げた。そして、城門をくぐった。
街道をしばらく歩いた。
振り返ると、もう都は小さくかすんでいた。あの白い塔のあった場所には、いま何もない。ただ、青い空が広がっている。
「……行っちゃいましたね。灰色の国」
エレノアがつぶやいた。
「ああ」
「わたし、ほんとうは、すこしこわかったんです」
エレノアは歩きながら、ぽつりと言った。
「あの国で、わたしの光が涸れかけたとき。……英雄でなくなる自分が、こわかった。光を失ったら、あなたに必要とされなくなるんじゃないかって」
アレンは足を止めた。つられて、エレノアも止まる。朝の光が、白い街道にまっすぐ差していた。
「ずっと言えなかったこと。……ひとつ、あるんです」
彼女はうつむいた。頬が赤かった。
「わたしの光の源は、神さまの力なんかじゃない。……誰かを想う気持ちなんです。そして、いちばん強くわたしの光を灯しているのは。……アレン様、あなたを想う気持ち」
言ってしまった。彼女はぎゅっと目を閉じ、返ってくる言葉を待った。
しばらく、沈黙があった。風が街道の草をなでてゆく。その数瞬が、エレノアには永遠のように長く感じられた。
「知ってた」
アレンが、静かに言った。
エレノアが顔を上げる。
「え」
思いがけない返事に、エレノアは目を見開いた。
「塔のなかで、お前が言ってただろう。この人を失いたくない、その気持ちがいちばん強い、と。……あのとき、もう聞いてた」
アレンは頬をかいた。彼にしてはめずらしく、ばつが悪そうに。
「それに、俺も同じだ」
「……え」
「泥にまみれてた俺を、お前が拾ってくれた。誰もが俺を見捨てたあの日、お前だけが手を差し伸べた。……あのときからずっと、お前を想ってる。お前の光が涸れようが、英雄でなくなろうが、関係ない」
アレンはまっすぐ、エレノアを見た。
「必要としてるのは、英雄のお前じゃない。……エレノア。お前、そのものだ」
飾らない、ぶっきらぼうな、だがまっすぐな言葉だった。
英雄だから。聖女だから。光を放てるから。……そんな理由ではなかった。もし彼女がその力をすべて失っても、アレンの想いは、指の先ほども変わりはしない。ただ泥のなかで手を差し伸べてくれた、その心を、彼女そのものを、アレンは想っていた。それは、エレノアが長いあいだ、誰よりもほしかった言葉だった。称えられることには慣れても、ただ一人の自分を求められたことは、一度もなかったのだから。
そして、アレンはその名を呼んだ。番号でも、称号でもない。白金の英雄でも、聖女でもない。ただ、ひとりの人の名を。この世でたったひとつの、彼女の名を。
エレノアの目から涙がこぼれた。けれど頬は、朝日の中で見たこともないほど明るく染まっていた。胸の奥からあふれた白金の光が、二人の影を長く街道へ落とす。
想いを口にすれば、失う怖さも生まれる。だから彼女は、ずっとこの気持ちに名をつけずにきた。
だが、もう恐れなかった。失う痛みごと引き受けて、それでも誰かを想う。そのまぶしさこそが、彼女の光の源だった。
「……はい」
エレノアは泣きながら笑った。アレンは照れ隠しのように前を向き、それでも手だけは離さなかった。
そのとき、追い抜いていく荷馬車の御者が、何気なく振り返った。
「あんたら、まだ西へは行かんほうがいい。白い荒野の近くじゃ、妙な話が増えてる。昨日まで英雄だった若者を、町中の人間が知らないと言いだしたそうだ」
御者は不吉な話をしたことなど忘れたように、馬を急がせて去っていった。
アレンとエレノアは、つないだ手のまま視線を交わす。西の空は、ひどく遠く、澄みきっていた。
「畑は、もう少し先だな」
「はい。お供します」
つながれた手のぬくもりが、どんな不吉な噂よりも確かだった。何が待っていようと、二人でなら越えていける。エレノアは、そう信じられた。
灰の帝国で手に入れたものは、勝利だけではなかった。誰もが同じ色になる必要はないこと。名を呼び、歌い、泣くことを選ぶ者がいるかぎり、人は自分の足で立てること。
その確かさを胸に、二人は西へ向かった。次に拾い上げるべきものが何なのか、まだ知らないまま。
第二部、完結です。エレノアが秘密を打ち明け、アレンが「必要としてるのは、英雄のお前じゃない、お前そのものだ」と、その名を呼ぶ。ここまでの全部を、この一場面に注ぎました。
奪うのではなく背負う。断つのではなく塗りかえる。二人の収集奇譚は、まだ続きます。長いあいだ、お付き合いくださって本当にありがとうございました。




