第69話 色を、学びなおす
塔を堕とせば、すべてよくなる。そう単純ではなかった。色を学びなおす、いびつな国。
塔が崩れて、ひと月が過ぎた。
だが、灰色の国はすぐには色づかなかった。
自由になったとたん、人々はとまどった。五十年、感じることを禁じられてきたのだ。よろこびかたも、悲しみかたも、忘れてしまっていた。
うれしいとは、どういうことか。腹が立つとは、何なのか。人を好きになるとは。……子どもですら、それをうまくあつかえなかった。
感情が堰を切ってあふれた。だが、それを受けとめる術を、誰も知らなかった。
エレノアが、それを手助けした。
彼女は人々に伝えてまわった。悲しいときは泣いていい。うれしいときは笑っていい。腹が立ったら声をあげていい。……あたりまえのことを、ひとつずつ、まるで幼子に教えるように。
なにしろこの国の大人たちは、感じることにかけては、生まれたての赤子と変わらなかったのだ。五十年ぶんの心を、いちから学びなおさねばならなかった。喜べば、なぜか涙が出る者がいた。悲しみと嬉しさの区別さえ、つかなくなっていたのだ。エレノアはそのひとりひとりの手を取り、あわてなくていい、と繰り返した。心は、時間をかけてゆっくりと溶けていくものだった。
ささいなことで、人がいさかった。
配給の順番、住む家、取り戻した名の呼びかた。……これまですべてを上から決められてきた人々は、自分たちで決めるということができなかった。塔を堕とせば、すべてがよくなる。そう単純ではなかった。
ある者は言った。灰色のほうが、まだましだったと。少なくとも悩まずにすんだ、と。感じる痛みに耐えかねて、ふたたび心を閉ざそうとする者すら現れた。
無理もなかった。感じるということは、よろこびだけではない。愛する者を失う恐れ、うまくいかないいらだち、他人とぶつかる痛み。……それらをぜんぶひっくるめて引き受ける、ということだ。
灰色の静けさは、たしかに楽だった。何も感じなければ、何も失わずにすむ。その誘惑に負けかけた者を、アレンたちは責めなかった。責める資格など、誰にもない。ただ、となりに座り、話を聞いた。うなずき、時に沈黙をともにした。心を取りもどす道のりは、塔を堕とすよりも、ずっと長く、地道なものだった。剣で断てるものなど、この世にはひとつもないのだと、アレンは思い知った。
自由は重く、色はまぶしすぎた。だが、まぶしさに目を細めながらでも、人々は少しずつ前へ進みはじめていた。
そして、ガイウスの処遇をめぐって、国は二つに割れた。
塔を堕としたあと、ガイウスは逃げも隠れもしなかった。みずから広場に立ち、すべての罪を認めた。
だが、それで人々の怒りがおさまるはずもなかった。
「あいつを処刑しろ」
声があがった。家族を灰にされた者たちだった。
「五十年、おれたちから名を、心を奪ったんだ。死んで償え」
当然の叫びだった。アレンにも、それを止める資格はなかった。
一方で、べつの声もあがった。
「待て。あの人がいなければ、この国はもっと早くに、戦で滅んでいたかもしれん。……灰色はまちがいだが、あの人の痛みまで裁けるのか」
国はもめた。連日もめて、評議の場は怒号で荒れた。かつてひとりの大統制官がすべてを決めていた国だ。おおぜいで話しあって、ものを決めるということを、誰も知らなかった。
声の大きな者が場を支配しかけた。私腹を肥やそうとする者も、早くも現れた。取り戻した自由を、さっそく悪用しようとする者すらいたのだ。
きれいごとだけでは、国は回らなかった。人が心を取り戻せば、醜さもまたよみがえる。それもふくめての、人だった。
アレンは、その争いを止めなかった。止めてはならなかった。
なぜなら、それこそがこの国が取り戻した証だったからだ。
意見がぶつかり、怒る者がいて、ゆるす者がいる。泣く者、わめく者。……どれも五十年前にはあったものだ。だが、灰色に塗りつぶされていた。
もめるということは、人がおのおの、ちがう心を持っているということだ。それはかつて、ガイウスがもっとも恐れ、消そうとした突出、そのものだった。だがいま、アレンにはわかっていた。もめない国など、死んだ国だ、と。
ガイウスは処刑されはしなかった。だが、ゆるされもしなかった。
評議のすえ、彼は残りの生涯を、塔の跡地で過ごすことになった。灰色にされた者たち――光のもどらなかった、あの人々を、死ぬまで世話しつづける。それが、彼に課された償いだった。
軽すぎると怒る者もいた。生ぬるいと石を投げる者もいた。ガイウスはそれをよけもせず、受けた。
「これでいいのだ」
彼はアレンに言った。
「死ねば楽になる。だが、楽になってはならぬ。……取り返せぬ者のそばで、取り返せぬことを毎日思い知る。それが、わしの生きる理由だ」
塔の跡地で、ガイウスはうつろな目の人々に粥を食べさせ、名を呼びつづけた。返事は返らないが、それでも呼びつづけた。
あるとき、アレンはその姿を見にいった。
ガイウスは灰色のまま動かぬ老婆の髪を、丁寧に梳いていた。そしてひとつひとつ語りかけていた。今日はいい天気ですよ、空が青い。あなたが好きだった色だ、と。
返事はない。老婆の目はうつろなままだが、それでも、ガイウスはやめなかった。
その背中はもう、国を灰にした暴君のものではなかった。ただ、おのれの罪の重さを一日ずつ背負う、ひとりの老人の背中だった。アレンは声をかけず、静かにその場を去った。かける言葉など、何もなかった。ただ、この男は逃げなかった。それだけは、たしかだった。
アレンとエレノアは、そのすべてを見届けた。
完璧な結末ではなかった。取り返せなかった命は返らない。国の争いはまだ続いている。ガイウスへの憎しみも、消えてはいない。
だが、それでも――灰色は、もうどこにもなかった。
「……いびつな国になりましたね」
エレノアがつぶやいた。廃墟となった塔の跡を見あげながら。
「ああ」
アレンはうなずいた。
「もめて、ぶつかって、泣いて。……ずいぶんうるさい国になった。だが」
彼はふと笑った。
「これが、生きてるってことだ。均されて静かなほうが、よっぽどおそろしい」
どこかで子どもの笑い声がした。誰かのうたう下手な歌が、風にのってきこえてくる。
名を呼ぶ声、言い争う声、笑う声、泣く声。……ありとあらゆる人の音が、かつて灰色だった都にあふれていた。
マレンが杖をつき、二人のそばにやってきた。
「見てのとおりさ。……まだぐちゃぐちゃだよ。争いは絶えないし、ガイウスをゆるさない者も大勢いる。きれいに片づいちゃいない」
老女はかすれた声で笑った。
「けどね、子どもらが声をあげて笑ってる。それがすべてさ。五十年、聞けなかった音だ。……あんたたちが取り戻してくれたんだよ」
アレンは首を振った。
「取り戻したのは、あんたたちだ。俺たちはただ、背中を押しただけだ」
マレンは目を細め、遠く広場のほうを見やった。取り戻した名で呼びあう声が、風に運ばれてくる。番号ではない、ひとりひとりの名前が。
いびつで、うるさくて、手のかかる。だが、まぎれもなく生きた国が、そこにあった。
新しい国を、きれいに片づけませんでした。争いは絶えず、私腹を肥やす者も出て、ガイウスを許さない者も大勢いる。でも、もめるということは、人がそれぞれ違う心を持っている証。「均されて静かなほうが、よっぽどおそろしい」――アレンの一言に尽きます。




