第68話 あふれる色
核が、ほどけた。灰色の都に、五十年ぶりの色があふれる。だが、返らない心もあった。
核が砕けた。
いや、砕けたというより、ほどけたというほうが近かった。
五十年ぶんの心が、にごった聖剣からいっせいに解き放たれた。喜び、悲しみ、怒り、恋しさ。……あらゆる色の光が塔のてっぺんから噴きあがり、都ぜんぶへと降りそそいだ。
灰色の都が、色を取りもどしていく。
石畳が、空が、人々の頬が、じわじわと血のかよった色に染まっていく。灰一色に塗りつぶされていた街並みに、赤が、緑が、青が、少しずつにじみ出してくる。まるで長い冬が明けて、凍った大地に春がもどるようだった。人々は、忘れていた色の名を、口のなかでひそかに確かめた。
広場で膝をついていた人々が、顔を上げた。降りそそぐ光を、全身に浴びて。
ひとりの女が、ふいに泣きだした。理由もわからぬまま、ただ涙があふれて止まらなかった。忘れていた悲しみが、忘れていたいとしさが、心にもどってきたのだ。
ひとりの男が、となりの老人の名を呼んだ。何十年も番号でしか呼ばなかった、父の名を。
子どもたちが、わけもわからず笑いだした。追いかけっこをはじめた。誰ももう、それを咎めなかった。
統制隊の隊士たちも、武器を取り落とした。
彼らもまた、光を浴びていた。奪われていた心がもどってくる。命じられるまま人を灰にしてきた、その手で何をしてきたのか、ようやくわかってしまった。ひとりの若い隊士がその場にくずおれ、おのれの手を見つめたまま、肩をわななかせていた。誰も彼を責めなかった。彼もまた、心を奪われた被害者だったのだから。
灰色の都に、声があふれた。泣き声、笑い声、名を呼ぶ声。……人が生きている音が、五十年ぶりによみがえった。
地下から地上へ逃げ延びていたマレンが、杖をつき、広場へ出てきた。降りそそぐ光を見あげて、老女はしわだらけの顔をくしゃりとゆがめた。
「……見えるかい。みんな、あんたたちの名前が、空に舞ってるよ」
マレンの頬を、涙が伝った。だがそれは、悲しみだけの涙ではなかった。五十年、ずっと心の奥で守り抜いてきた火が、ようやく都ぜんぶに燃え広がった。それを見届けられた安堵の涙でもあった。
名を刻みかけて、忘れて消えた者たちの想いも、その光のなかにあった。取り戻せはしない。だが、忘れられもしなかった。誰かの記憶に残るかぎり、人はほんとうには消えないのだと、マレンはこの五十年、ただそれだけを信じて生きてきたのだ。
空に舞う光は、やがてひとつ、またひとつと地に降りて、それぞれの持ち主のもとへ帰っていく。
だが、持ち主のいない光もあった。すでにこの世を去った者たちの心。行き場を失い、それでも消えることなく、淡く空にとどまっている。わたしたちを忘れるな、とささやくように。
塔の下層でも、小部屋に座らされていた人々の、うつろな目に光がもどりはじめた。
そのなかに、コルムがいた。
降りそそぐ光を浴びて、彼のあいまいだったまなざしが、だんだん焦点を結んでいく。そしてふと、彼は腕を見た。何かを抱いていたはずの、空っぽの腕を。
「……あ」
声がもれた。
「赤んぼう。おれの……おれの子だ。名前はまだつけてなくて。……そうだ、おれには子どもが」
奪われていた記憶が、光とともにもどってきた。我が子の顔。抱いた重み。守ろうとした、あの夜。
コルムはよろめきながら立ち上がった。
「どこだ。おれの子は、どこに」
その目に、涙があふれていた。取り戻せないと思われたものが、この一度だけ、奇跡のように返ってきた。
やがてリオが、眠る赤子を抱いて、コルムのもとへ連れてきた。決起の混乱のなか、ずっと守り抜いた小さな命だった。
コルムはその小さな顔を見て、今度こそはっきりと思い出した。
「……ああ、お前だ。おれの子だ。ごめんな。父ちゃんは、お前の顔をいちど忘れちまった。……もう、二度と忘れない」
父は我が子を抱きしめた。骨ばった腕に、あたたかく小さな命の重みが返ってくる。赤子が、きゃっと笑った。もうその笑い声を咎める者は、どこにもいなかった。この街では、子が笑うことすら罪とされてきた。その長い夜が、ようやく明けたのだ。
だが、すべてが返ってきたわけではなかった。
塔の最上に近い階。かつて核まで運ばれ、心を根こそぎ抜かれた者たち。彼らのうつろな目には、ついに光はもどらなかった。
彼らの心は、もう聖剣にためこまれてすらいなかった。とうの昔にすり切れ、消えてしまっていたのだ。
降りそそぐ光のなかで、その者たちだけが灰色のまま立ち尽くしていた。迎えに来た家族が、その変わらぬうつろな顔を見て、声をあげて泣き崩れた。
間に合わなかった。
アレンはその光景を、核の間から見おろしていた。都ぜんぶを救えはしなかった。取り返せた心と、取り返せなかった心が、おなじ光の下にあった。
勝った。だが、手放しでは喜べなかった。
救えた命のとなりに、救えなかった命がある。取り戻せた笑顔のとなりで、取り戻せなかった者の家族が泣いている。
これが戦いのほんとうの姿だと、アレンは知っていた。すべてを救える英雄など、どこにもいない。物語のなかの英雄は、いつだって間に合う。だが現実の戦いには、必ず間に合わなかったものが残る。だからこそ、救えたひとつひとつを噛みしめる。そして、救えなかった者たちを忘れない。忘れないことだけが、死者に手向けられる、たったひとつの弔いだった。それが、泥の勇者の流儀だった。
「……見えるか」
かたわらで、ガイウスがつぶやいた。
老人は核の間の窓にすがりついて、都を見おろしていた。色を取りもどしていく都を。そして、灰色のまま動かぬ者たちを。
「わしが灰にした者たちだ。……返せぬ心もある。取り返しのつかぬことを、わしはしてしまった」
ガイウスの声は震えていた。
アレンは何も言わなかった。慰めの言葉は、ここでは嘘になる。取り返せないものは、取り返せない。それを曲げてなだめるのは、むしろ死者への裏切りだった。
「償え」
アレンは、ただそれだけを言った。
「取り返せないなら、せめて取り返せた者たちを守れ。あんたが造った灰色を、あんたの手で塗りかえろ。……それが、あんたにできるたったひとつの償いだ」
ガイウスは窓の外を見つめたまま、深く、深くうなずいた。
塔が低くうなりはじめた。核を失い、よりどころをなくした塔が、ゆっくりと崩れはじめる。
「アレン様。ここも、もうもちません」
エレノアが彼の腕を取った。
アレンは傷ついた体で、ガイウスに手を差し伸べた。
「立て。まだ死ぬな。……償いはこれからだ。逃げるなよ」
ガイウスはその、泥の勇者の手をじっと見つめた。五十年前、焼け跡で誰にも差し伸べてもらえなかった手。それがいま、目の前にある。
老人はこわばった手で、ためらいがちに、その手を握った。骨と皮ばかりの、けれど温かな手だった。
白い塔が、ぐらりと傾く。五十年、人の心を刈り取ってきた、そのまがまがしい建物が、いま役目を終えて崩れ落ちようとしていた。
三人は崩れゆく塔を駆け下りた。降りそそぐ色の光のなかを、灰色の時代の終わりへと向かって。
コルムの記憶は戻します。でも、とうに心をすり切られた者たちには、光は届かない。救えた命の隣に、救えなかった命がある。手放しで喜べない結末を、あえて残しました。ガイウスへの「償え」は、この物語のひとつの答えです。




