第67話 泣いてもいい
なぜあんたは、歌を聞いて泣きそうな顔をした。五十年ぶりに、老人の頬を涙が伝う。
核の間の奥の扉がひらいた。
そこにガイウスが立っていた。
思っていたより、ずっと小さな老人だった。背は曲がり、手は枯れ枝のように細い。五十年、この国を灰色に染めつづけた男とは、とても思えなかった。
だが、その目だけは異様に澄んでいた。狂気とも正気ともつかぬ、凪いだまなざし。
その目を見て、アレンは悟った。この男は狂ってはいない。むしろ正気すぎたのだ。痛みをあまりにまっすぐ受けとめすぎて、感じることそのものを恐れるようになった。それが、この凪いだ目の正体だった。
狂った暴君のほうが、まだ倒しやすい。憎めばいいし、斬ればすむ。だがガイウスは、理屈の通った悲しみでこの国を造っていた。その悲しみは、アレン自身が旅のなかで幾度も見てきたものと、地続きだった。だからこそ、剣では断てなかった。断てば、この男の痛みまで、なかったことにしてしまう気がした。
「……やめよ、その光を」
ガイウスは、エレノアに向けて言った。
「せっかく集めた心だ。ばらまいてどうする。……あの心がまた、突出を生む。英雄を生む。悲劇を生むのだ。わからんのか」
「わかりません」
エレノアは聖剣に手をかざしたまま、一歩も退かずに、まっすぐ答えた。
「悲しみをなくすために、悲しむ心を消してしまう。……それは人を救うことではありません。人を、人でなくすことです」
アレンが壁を押して立ち上がった。傷ついた体で、ガイウスの前に歩み出る。
「ガイウス。あんたの痛みは聞いた。……村を焼かれ、母と妹を失った。英雄の栄光の影で、名もなく消された。その無念も」
ガイウスの肩が、ぴくりと動いた。
「マレンから聞いた」
その名に、老人の目が揺れた。
「……マレン。生きていたのか」
「ああ。あんたが灰にしかけた。だがまだ、あんたを幼なじみだと呼んでいた」
アレンは、マレンの言葉を伝えた。
「あんたはひとりじゃなかった。あのとき手を握ってやれなかったことを、ずっと悔いている、と。……そう、マレンが」
ガイウスの、枯れ枝のような手が震えた。
「……ちがう」
ガイウスは首を振った。
「わしは正しいことをしてきた。誰も傷つかぬ国を造った。突出も、競争も、戦もない。誰も、わしのようにすべてを失わずにすむ。……これは救いだ。救いなのだ」
「なら、なぜ」
アレンは問うた。
「なぜあんたは、さっき都の歌を聞いて、泣きそうな顔をした」
ガイウスの表情が凍りついた。
「わしは……泣いてなど」
「あんたもほんとうは、わかってるはずだ。灰色の平和が、人を救ってなんかいないことを。……救われるふりをして、ただ感じることをやめた。それだけだと」
ガイウスは答えなかった。答えられなかったのだ。その沈黙こそが、何よりの答えだった。
五十年、彼は自分に言い聞かせてきた。これは救いだ、と。誰も傷つかぬ平和だ、と。だが心のいちばん奥では、とうに気づいていた。この静けさは安らぎではなく、ただの緩やかな死だと。
その時、塔の外から歌が届いた。
第七術式で心を吸われ、膝をついたはずの人々が、それでもうたっていた。かすれた声で、途切れ途切れに、だが決してやめずに。
解き放たれた心が都に降りそそぎ、人々のもとへ帰りはじめていた。返された心で、人々はまたうたう。うたえば、エレノアの光が増す。光がさらに多くの心を解き放つ。灰色の鎖が、ほどけていく。
窓のない核の間にまで、その歌はしみこんできた。
ガイウスは両手で耳をふさいだ。だが歌は、耳からではなく、心の奥から湧いてくるようだった。封じたはずの記憶が、歌に呼ばれて次々とよみがえる。
母の手のぬくもり。妹の笑い声。焚き火のはぜる音。焼ける前の村の、あたたかな夕餉のにおい。……忘れようと五十年もがいてきたすべてが、いま、歌とともに彼のなかにあふれかえった。封じこめたはずの痛みは、消えてなどいなかった。ただ、心の底で息をひそめていただけだったのだ。
「や、やめろ。やめてくれ……っ」
ガイウスが頭を抱えた。
「その歌を聞かせるな。……思い出してしまう。母が、妹がうたった、あの夜を。焼ける前の、あたたかかった、あの……」
老人の目から、ついに涙があふれた。
五十年、一度も流さなかった涙。心を殺すことで、見ないふりをしてきた痛み。それが歌にほどかれて、堰を切った。
「わしはずっと、泣きたかった。だが、泣けば負けだと思った。感じれば、またあの痛みが襲ってくると。……だから感じることを、国ごと捨てたのだ」
「ちがう」
アレンは老人の前に膝をついた。傷ついた手で、その震える肩に触れる。
「泣いてもいいんだ、ガイウス。……痛みを感じるのは、弱さじゃない。それは、あんたが母や妹をちゃんと愛していた証だ。愛したから、痛い。それだけのことだ」
その言葉は、アレン自身が長い旅でたどり着いた答えでもあった。
泥にまみれ、栄光を奪われ、名を忘れられた日々。あのとき心を殺してしまえば、楽だった。何も感じなければ、傷つかずにすんだ。
だがアレンは、感じることを捨てなかった。悔しさも孤独も抱えたまま、前を向いた。だからこそ、差し伸べられた白金の手を握ることができたのだ。
感じる心を捨てた者に、誰かの手は握れない。痛みを恐れて心を閉ざせば、たしかに傷つかずにすむ。だが同時に、誰かを愛することも、誰かに愛されることも、永遠に手放すことになる。ガイウスが五十年かけて国じゅうから奪ったのは、まさにそれだった。
ガイウスは子どものように泣いた。枯れ枝のような体を折りまげ、床に手をつき、五十年ぶんの涙をひといきに流した。嗚咽が、狭い核の間にこだました。誰も、その泣き声を止めなかった。止める必要など、どこにもなかった。
「すまない……すまない。わしは守るつもりで、もっと多くの心を殺してしまった。……取り返しのつかぬことを」
その震える背に、エレノアの光がやさしくそそがれた。
「泣いてください。いくらでも。……その涙が、あなたの心がまだ灰になっていない証です」
核の聖剣が、まばゆく輝いた。
ガイウスの涙が、最後の鍵だった。造り手みずからが感じることを取り戻した、その瞬間、塔の術式はよりどころを失った。
白金の光と都の歌がひとつになって、にごった聖剣をつつみこむ。五十年の澱が、少しずつ、けれど確かにほどけていった。
いまだ。
アレンはエレノアのとなりに並んだ。傷ついた体で、それでも剣をかかげて。
二人は目をあわせ、うなずいた。
言葉はいらなかった。
いくどとなく背中をあずけあってきた二人だ。どちらがどう動くか、目を見ればわかった。アレンが剣を振り下ろす、その軌跡にエレノアの光がそっと寄り添う。泥の勇者と白金の英雄。ふたつの力が、ここでひとつになる。
剣は、核を壊すためではなかった。閉じこめられた心をぜんぶ、解き放つための一撃だった。奪う剣ではなく、返す剣。断つ光ではなく、灯す光。
泥の勇者の剣と、白金の英雄の光がひとつに重なって、二人の想いを乗せた刃が、五十年、閉ざされてきた灰色の核へと振り下ろされた。
ガイウスとの対決を、剣ではなく言葉と歌で。「泣いてもいいんだ」――五十年、心を殺してきた男に、アレンがかける言葉です。造り手みずからが感じることを取り戻した瞬間、塔はよりどころを失います。双撃の場面、うまく書けました。




