第65話 核に眠る聖剣
核に眠っていたのは、五十年前に村を焼いた、あの英雄の聖剣だった。
塔のなかは、すでに地獄と化していた。
第七術式がうなりをあげ、感情を吸う霧が渦を巻いて廊下を埋め尽くしている。都から吸い上げた心が白い奔流となり、上へ、上へと、核へ向かって流れこんでいく。その流れに触れるたび、アレンは背筋を這うような寒気を覚えた。人の喜びも悲しみも、こうして音もなく吸い上げられ、灰に変えられてきたのだ。
アレンは剣で霧を斬り払った。むろん霧など斬れはしない。だがエレノアの光をまとわせた刃は、触れた霧をつかのま押しのけた。
二人は歌を背に負って、螺旋を駆けのぼる。
エレノアの光が行く手の霧を焼き、アレンの剣が統制隊を打ち払う。統制隊の兵たちは、命じられるままに立ちふさがってくる。その目にはもう、おのれの意思の色さえ残っていなかった。斬るたびに、アレンの胸は鈍く痛んだ。彼らもまた、心を奪われた被害者なのだ。だから峰で打ち、道を空けるにとどめた。
のぼるほどに霧は濃くなり、エレノアの息はあがっていった。それでも彼女は都の歌を手放さなかった。その光はもはや、ひとりのものではない。街じゅうの火をあつめた、ひとつの灯りだった。歌が途切れれば、この光も潰える。彼女はそれを知っていたから、荒い息の合間にも、細く、けれど確かに、うたいつづけた。
走りながら、アレンはふと腰の剣に目を落とした。
万象武具庫――かつて手に入れた力だ。奪われた者たちの無念が宿る武具を呼び出す、その力を、この国ではずっと使うのをためらってきた。呼び出すたびにアレンの命を少しずつ削る、重い代償があるからだ。強い武具ほど、その代償は重くのしかかる。
だが、ここが使いどきだ。アレンはそう腹をくくった。この塔を堕とすためなら、命のいくらかを差し出しても惜しくはなかった。刻まれる時間より、いま守れるもののほうが、はるかに重い。
中ほどの階で、アレンは見覚えのある姿を見つけた。
「マレンさんっ」
小部屋に、老女が座らされていた。灰化の途中だった。だがまだ、その目には光があった。都の歌が壁ごしに、彼女の心をつなぎとめていたのだ。
「……来たね。遅いよ、まったく」
マレンには、皮肉を言うだけの気力がまだ残っていた。エレノアがその手を握り、光をそそぐと、うつろになりかけた老女の目に生気がもどっていく。
「無事で。……よかった」
「無事なもんかね。ずいぶん削られたよ。……だが、歌が聞こえてね。あたしの名を、忘れずにすんだ」
マレンはよろよろと立ち上がった。
「行きな。核はすぐ上だ。……ガイウスに会っておやり」
壁に手をつき、息をととのえてから、彼女はふと遠くを見るような目になった。
「あの子はね……ガイウスは、ずっとひとりで泣いてたんだよ。五十年、誰にもそれを見せずにね。だから、心を殺す仕組みなんぞを造っちまった。……泣かなくていいように」
老女の声はかすれていた。皺の刻まれたその顔に、憎しみは微塵もなかった。あるのはただ、幼い日をともに過ごした者への、断ちきれぬ情だけだった。
「もし会えたら、伝えておくれ。お前はひとりじゃなかった、と。あのとき手を握ってやれなかったわたしが、ずっと悔いていた、と」
最上階、核の間だった。
そこにあったのは、予想もしなかったものだった。巨大な水晶のうちに、一振りの剣が突き立っている。
刀身はかつて、まばゆく輝いていたのだろう。だがいまは無数の、人の顔のような影を閉じこめて、にごった光を放っていた。吸い上げた心を、その剣がぜんぶ、ためこんでいたのだ。
「あれは……聖剣」
エレノアが息をのんだ。
アレンにもわかった。あれこそ五十年前、竜を討ち、ガイウスの村を焼いた、あの英雄の聖剣だ。英雄が去ったあと、ガイウスがそれを手に入れ、人を灰にする塔の核へと造り変えたのだ。
皮肉な話だった。人を踏みにじった栄光の象徴が、今度は人の心を刈り取る機械になりはてている。栄光の剣が、灰色の国の心臓に。
水晶に閉じこめられた刀身には、無数の顔が浮かんでは消えた。あれは吸い上げられた人々の心だ。コルムの記憶も、あのなかにあるのかもしれない。マレンの五十年も、名を刻みかけて忘れた者たちの遺志も――すべて、あのにごった光のなかにためこまれている。
消えてはいなかった。ただ奪われて、閉じこめられていただけ。まだ返せる。まだ間に合うかもしれない。その一点だけが、この地獄のような塔のなかで、せめてもの希望だった。
「見つけてしまったか」
声がした。核の影から、ヴェインが現れる。その手には灰色の長剣。うっすらと、あの白い霧をまとっていた。
「あの聖剣こそ、この国のすべてだ。あれが都じゅうの心を吸い上げ、灰に変える。……あれを止めれば、塔は死ぬ。だが」
ヴェインの言葉は、図らずも急所を教えていた。あの聖剣を止めれば、塔は死ぬ。だが、ただ砕けば、ためこまれた心は行き場を失い、四散してしまう。コルムの記憶も、マレンの五十年も、永遠に取り戻せなくなる。
砕くのではなく、解き放つ。閉じこめられた心を、持ち主のもとへ返す。それができるのは、人の心を糧とするエレノアの光だけだった。
ヴェインが、剣をゆっくりと構えた。
「ここまで来て、生きて触れられると思うな。私はね、壊すのが好きなんだ。とりわけ……そこの白金の女が、お前の目の前で灰になるところを見てみたい」
アレンのなかで、冷たい怒りがふくれあがった。
これまでの道で討ってきた敵には、悲しみがあった。ガイウスにすら、理由があった。だがこの男には何もない。ただ壊す悦びだけがある。理解しても救えない、償っても取り返せない――この国でただひとり、斬るしかない敵だった。
アレンは腰の剣に意識を集めた。万象武具庫がうなりをあげ、奪われた者たちの無念が呼応する。その代償として、胸にずきりと鋭い痛みが走った。命が削れる感覚。だが、かまわなかった。
彼の手に、冷たく澄んだ光の刃が宿った。かつて名もなき者を守ろうとして散った、無名の騎士の剣だった。派手さはない。だが誰かを庇うことにかけては、右に出るもののない一振り。
この剣で、エレノアを守る。
「エレノア」
アレンは剣を構えた。
「聖剣を頼む。……あの剣にためこまれた心を、人々に返してやれ。ここは俺がふさぐ」
「アレン様……っ」
「行け。時間は俺が稼ぐ」
エレノアは唇を噛んだ。彼を置いて、一歩でも離れることに、胸が引き裂かれる思いだった。だが、うなずいた。ここで泣いてすがるより、聖剣を解き放つことこそ、いま彼女にしかできないことだった。それが、アレンの背を守ることにもなる。
アレンはヴェインに向きなおる。剣では届かぬ痛みの多いこの国で、ようやく剣で断つべき相手が、目の前に立っていた。
「――かかってこい。人でなし」
ヴェインがにたりと笑った。
「いいねえ、その目。守りたいものがある目だ。……そういう目の男が、守れずに膝をつく瞬間が、私はいちばん好きでね」
アレンは答えなかった。ただ剣を低く構えた。無駄な口をきく相手では、もうなかった。背後で、エレノアの歌が高まっていく。その光を守り抜くことだけを、いま彼は考えていた。
二つの刃が、核の光に冷たくぬれた。
武具収集の糸を、この国の起源に結びました。人を踏みにじった栄光の象徴が、今度は人の心を刈り取る機械になっている。万象武具庫の代償として、アレンが命を削る覚悟も描いています。




