第64話 灰色の街に、歌が
真昼の広場に、白金の女がひとり。禁じられた歌が、灰色の都にあふれていく。
朝が来た。
灰色の都に、いつもの朝が訪れた。人々は番号を名乗り、うつむき、そろった足音で石畳を打ちはじめる。ざっ、ざっ、と。変わらぬ一日の始まり。
そのはずだった。
都の中央広場、塔のふもと。そこに、ひとりの女が立った。エレノアだった。
彼女は灰色の衣を脱ぎ捨て、白金の髪を朝日にさらして、すうと息を吸い、歌いはじめた。
澄んだ声が、しんとした広場にひろがっていく。朝の冷えた空気を震わせ、石畳の隅々まで、ひとつぶの光がしみわたるように。それは、マレンが地下でうたっていた、あの古い子守唄だった。連れ去られた老女の声を、今度はエレノアが受け継いでいた。
人々が足を止めた。
禁じられた歌。感情のきわみ。ひと声うたえば塔に送られる。それを、この白金の女は、真昼の広場で堂々とうたっている。
統制隊が血相を変えて駆けつけた。
「やめろッ。歌をやめろッ」
だが、エレノアはやめなかった。その歌声に呼応するように、人波のあちこちから声があがりはじめた。
最初はリオだった。彼が広場の隅で声を合わせた。下手くそな、だが、まっすぐな歌声で。
次に、ダンが妻と娘の手を握ってうたった。名を取り戻した者たちが、ひとり、またひとり、灰色の群れのなかから歌をあげていく。
そして、ずっと番号として生きてきたはずの人々のなかからも、ぽつり、ぽつりと声がもれはじめた。忘れていたはずの歌だった。だが、体が、喉が覚えていた。幼いころ、母がうたってくれた、そのしらべを。
灰色の都に、歌があふれていく。
それはひとつの歌ではなかった。ばらばらの、調子はずれの、てんでんばらばらの声だった。だが、だからこそ美しかった。
そろえられた足音とはまるでちがう。ひとりひとりがちがう声で、ちがう思いをこめてうたう。高い声、低い声、かすれた声、震える声。……そのそろわなさこそが、生きている証だった。
突出を罪とした国で、人々はいま、てんでに突出し、そのことを誰も恥じていなかった。そろえることを強いられてきた五十年の反動のように、めいめいの声が、めいめいの高さで空へのぼっていく。ひとつとして同じ声はなく、だからこそ、そのどれもがかけがえのないものだった。
アレンは塔のふもとで剣を抜き、統制隊をひきつけていた。エレノアたちに歌わせるために、その盾になる。それが彼の役目だった。
「灰色の掟なんて、くそくらえだ」
アレンは吠えた。
「人が歌って、何が悪い。笑って、何が悪い。誰かを好きになって、何が悪いッ」
その叫びは統制隊にも届いていた。押し寄せる隊士たちのなかに、ふと、剣を握る手を止める者が現れた。歌を聞いて、動けなくなった者が。彼らもかつては名を持ち、歌を知っていた。削られたその奥で、何かがうずいたのだ。灰色の壁が、ほんの少しずつほころびはじめていた。
統制隊が押し寄せる。だが、アレンの剣はひとりも斬らなかった。峰で打ち、柄で突き、ただ、歌う人々へ手が届かぬように、壁となって立ちはだかる。
背後で歌はますます大きく、うねっていく。ひとつの声がふたつを呼び、ふたつが十を呼ぶ。灰色に塗りこめられていた街並みが、歌によって少しずつ色を取り戻していくようだった。都じゅうが震えていた。五十年、押さえこまれてきた心が、堰を切ってあふれ出していた。
そのころ、塔の最上階で。
ガイウスは、窓のない部屋で、都のざわめきを聞いていた。石の壁を通して、かすかに、だが、たしかに届いてくる。歌が。
彼のしわだらけの手が震えた。
「……歌、だと」
そのしらべに、彼は覚えがあった。遠い、遠い昔、焼ける前の村で、母が、妹が、そして幼い自分が、声をあわせてうたった、あの歌。
一瞬、ガイウスの目に、人らしい光がよぎった。喉の奥がひとりでに動きかけた。そのしらべを口ずさもうと、五十年封じてきた歌が、ほどけかけた。あの村の夜。焚き火を囲んで、母の膝で、妹と肩を寄せあってうたった、世界がまだあたたかかったころの歌。母の手はやわらかく、妹の笑い声はよく弾んだ。まだ、灰など知らなかった。まだ、何も失っていなかった、あの夜。
だが、それはすぐに恐怖に塗りつぶされた。
「……また、か。また突出する者が現れた。歌う。笑う。人を率いる。……英雄が、生まれようとしている」
彼の脳裏に、輝く鎧の英雄がよみがえる。村を焼いた炎。名もなく消えた母と妹。
「だめだ。だめだ。……あんな悲劇を、二度と起こさせはしない」
ガイウスは立ち上がった。そして、かたわらのヴェインに命じた。
「塔の核を、全力で稼働させろ。……封印していた第七術式まで、すべて解け」
ヴェインの顔がゆがんだ。愉悦に。
「よろしいので。第七まで使えば、都じゅうの感情を一度に吸い上げます。歌う者も、ただそこにいる者も、……見境なく灰になりますが」
「かまわん」
そのひとことを口にするのに、ガイウスは全身の力をふりしぼった。喉もとまでこみあげた歌を、むりやりのみくだして。
その声は震えていた。だが、とめられなかった。
「一時の灰は、永遠の悲劇よりもましだ。……都をひとつ灰にしてでも、英雄の芽は摘む」
塔の奥で、巨大な術式がうなりをあげて目覚めはじめた。
ヴェインは恭しく頭を下げた。だが、その伏せた顔には、抑えきれぬ笑みがにじんでいた。都ひとつをまるごと灰にする。これほどの見ものは、彼の長い生涯でもはじめてだった。何万もの人々の光が一度に濁っていく、その壮大な崩れを、この目で拝める。人が壊れる瞬間ばかりを求めてきた男にとって、それは至上の宴にほかならなかった。主君の苦悩など、彼の悦びの前ではただの余興でしかなかった。
ガイウスの悲壮な覚悟と、ヴェインの下卑た悦びは、おなじ命令のうえで、ねじれるように重なっていた。
広場の歌が、ふいにかすれた。
空気が重く、冷たくよどみはじめた。塔のてっぺんから、かつてない量の白い霧が、都ぜんぶをのみこもうとあふれ出す。うたっていた人々が、ふらり、ふらりと膝をつく。
「アレンさんっ。これは……っ」
リオが叫んだ。
アレンは塔を見あげた。
白い塔が、かつてない光を放っていた。都ぜんぶの心を一度に刈り取ろうとする、断末魔のような、まがまがしい輝きを。
――間に合わせる。
アレンはエレノアのもとへ駆けた。
エレノアは歌いながら青ざめていた。都ぜんぶの感情が塔に吸い上げられていく。その逆流に、彼女の光も引きずられ、今にもかき消えそうだった。
「エレノア。無理をするな」
「いいえ」
彼女はうたうのをやめなかった。
「みんなの火が消える前に、塔まで運びます。この歌が、……みんなの心が、生きているうちに」
アレンは彼女の手を取った。もう片方の手で、剣を握る。
「わかった。なら、俺が道をこじあける。お前は、その光を核まで運べ」
二人はうなずきあった。
白い霧が広場の縁からじわりと這い寄り、人々の足首をのみはじめる。それでも、誰ひとり逃げなかった。声を張り、たがいの手を握りあい、消えかけた歌を必死につなぎとめている。
いまこそ、塔に乗りこむ時だった。都が灰になる前に。歌がやむ前に。この街に取り戻されたばかりの色を、二度と手放さないために。
決起の回です。そろわない、てんでばらばらの歌声こそが、生きている証。それを聞いたガイウスが、都ごと灰にする禁術に踏みきる。悲壮な覚悟と、ヴェインの下卑た悦びが、同じ命令の上でねじれます。




