第63話 裏切りの理由
決起の前夜、踏みこむ統制隊。仲間を売ったのは、娘を守ろうとした、ひとりの父親だった。
決起は三日後と決まった。長すぎず、短すぎない。仲間の覚悟が鈍らぬうちに、それでいて備えの整うぎりぎりの日取りだった。
そのあいだに、地下の火は少しずつ街へと広がっていった。夜ごと、名を取り戻した者たちがこっそりと隣人の戸を叩いた。あなたにも名があったはずだ、と。小さな声で、歌を口ずさんでみせた。
はじめは恐れて、戸を閉ざす者がほとんどだった。だが、ときおり、ほんのときおり、その歌に涙をこぼす者がいた。理由もわからぬまま、ただ胸の奥がふるえて、忘れていた何かを思い出したように。火はたしかに、灯りはじめていた。消えかけた燠に息を吹きこむような、根気のいる夜が続いた。
エレノアの体にも、少しずつ色がもどっていた。街の火が灯るほどに、彼女の光は息を吹き返す。二人のあいだの想いだけでなく、国じゅうの小さな火が、いまや彼女を支えはじめていた。
だが、アレンにはひとつ、ぬぐえぬ不安があった。
これだけ火が広がれば、いずれ統制隊の目にもとまる。決起の前に、嗅ぎつけられはしないか。……その予感は、最悪のかたちで当たることになる。
決起の前夜、廃坑に統制隊が踏みこんできた。
誰かが密告したのだ。
悲鳴。怒号。逃げ惑う人々。統制隊は手際よく隠れ家を囲み、次々と人を捕らえていった。アレンは剣を抜き、応戦した。エレノアの光が、人々を逃がす道を照らした。リオが年寄りや子どもを、裏の抜け道へと導いた。
多くは逃げ延びた。だが。
「マレンさんが……っ」
リオが叫んだ。
老女は、逃げ遅れた子どもをかばって、統制隊の手に落ちていた。アレンは駆けつけようとした。だが、統制隊の壁が厚かった。マレンは連れていかれる。塔へ。あの白い塔へ。
「行かせるかっ」
アレンの剣がひらめく。だが、マレンが振り向いて叫んだ。
「来るなッ。あんたが捕まれば、ぜんぶ終わりだ。……明日を、明日をやりな。わたしのことはいいから」
その声を最後に、老女の姿は灰色の闇にのまれた。差しのべたアレンの手は、あと一歩というところで、無情な兵の壁に阻まれた。その間際まで、マレンはかばった子どもを抱きしめて離さなかった。統制隊に引きはがされるまで、その小さな体を、痩せた両腕で守りつづけた。連れ去られていくその背に、幼なじみの少年へ向けた五十年ぶんの想いが、まだ残っているように見えた。
自分はもうじゅうぶん生きた、と前に言っていた。だが、それはあきらめではなかった。次の世代に名と心を手渡すための、覚悟だったのだ。
嵐が去ったあと、廃坑には逃げ延びた者たちが、呆然と座りこんでいた。
アレンは拳を壁に叩きつけた。
「なぜ、場所がばれた。……誰かが、売ったのか」
その問いに、ひとりの男がおずおずと進み出た。ダンという名の、まだ若い男だった。妻と幼い娘を連れて、この隠れ家に逃げこんできた男。
「……おれ、です」
場が、水を打ったように凍りついた。
「おれが、統制隊に話しました」
ダンの声は震えていた。
リオがダンの胸ぐらへつかみかかった。
「てめえッ。なんで、なんでそんな」
「娘がッ」
ダンが叫んだ。
「娘が、統制隊に目をつけられたんだ。この前、泣き声をあげたって。次に乱れたら塔に送る、と。……言われた。でも、場所を教えれば、娘は見逃す、と。そう言われて」
ダンはその場に崩れ落ちた。
「おれは英雄なんかじゃない。ただの父親だ。……娘を守るためなら、おれは仲間だって売る。何度でも売る」
その頬を涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「すまない。すまない。マレンさん。みんな。……でも、おれには娘しかいないんだ」
アレンはダンを見おろした。
殴ってやりたい、と心の半分が叫んだ。マレンを、仲間を売ったのだ。だが、もう半分は、……わかってしまった。
もしエレノアが人質に取られていたら、俺はどうしただろう。この国のためだと、彼女を見捨てられただろうか。答えられなかった。
アレンはかつて、栄光を奪われ、泥にまみれた。だが、それでも、守るべき者を売ったことはなかった。けれど、それは運がよかっただけかもしれない。守るべき者を人質に取られたことがなかっただけ。ダンのように、刃をいちばん弱いところに突きつけられたことがなかっただけだ。
人を裁くのはたやすい。安全な場所から石を投げるように、他人の弱さをなじるのはたやすい。だが、同じ崖のふちに立たされ、背にわが子を負わされたとき、自分が踏みとどまれると、誰に言いきれよう。
この国はむごい。悪人でなくとも、人を裏切らせる。愛する者を守ろうとする、そのいちばんまっとうな心をてこにして、人と人とを裂いていく。
――これも、あの塔のむごさだ。
ダンは悪人ではなかった。ただ、追いつめられた父親だった。
リオがなおも、ダンにつかみかかろうとする。それをアレンが止めた。
「よせ、リオ」
「なんでだよッ。こいつのせいで、マレンさんが」
「わかってる」
アレンの声は低かった。
「だが、ここでこいつを裂けば、統制隊の思うつぼだ。……あいつらはそれを狙ってる。俺たちがたがいに憎みあい、ばらばらになることを」
アレンはダンの前に膝をついた。
「ダン。顔を上げろ」
ダンがおそるおそる顔を上げた。
「お前の娘は俺が守る。お前ごと守る。……だから、もう誰も売るな。今度は娘のために歌え。娘が堂々と笑える国を、その手でつくれ」
ダンの目が見開かれた。そして、ふたたび涙があふれた。今度はちがう涙だった。
「……いいんですか。おれを、仲間に、まだ」
「あたりまえだ。……お前を切り捨てたら、俺もあの塔と同じになる。弱い者を、弱いというだけで切り捨てる。それこそが、あいつらのやり方だ」
廃坑に、しずかな時が流れた。
裏切りは、仲間を裂かなかった。むしろその傷を抱えたまま、人々はもう一度、身を寄せあった。ダンの妻が夫の背にそっと手を置いた。娘が父の涙を、小さな手でぬぐった。誰もダンを責めなかった。責める資格のある者など、この追いつめられた国にひとりもいなかったからだ。
傷ついた者どうしが、傷を責めあうのではなく、傷を分けあう。それが、灰色の国にひとつだけ、まだ残っていた人のあたたかさだった。ガイウスが五十年かけても消しきれなかった、最後のひとかけら。裂こうとする力に抗って、人はなお、寄り添うことを選べる。その事実が、アレンには何よりの希望に思えた。
その夜、アレンは眠れなかった。となりで、エレノアも目を開けていた。
「アレン様。……ダンさんを許して、よかったのでしょうか」
小さな問いだった。
「わからん」
アレンは正直に答えた。
「許すとか、許さないとか、そういう話じゃないのかもしれない。……ただ、あいつを切り捨てたら、俺たちの火までひとつ、消えちまう。それだけは、したくなかった」
エレノアはしばらく黙って、それからそっとアレンの手を握った。
「あなたのそういうところが、……わたしの光を、いちばん強くするんです」
その手のあたたかさを感じながら、アレンはようやく、少し眠れた。
明日、決起する。マレンを取り戻すために。この灰色の国に、取り返しのつく傷と、つかない傷を刻んだ塔を、堕とすために。
「整いすぎない」ように、裏切りを入れました。でも悪人ではなく、追いつめられた父親に。この国は、愛する者を守ろうとする一番まっとうな心を、てこにして人を裂く。アレンがダンを切り捨てなかった理由を、ぜひ読んでほしいです。




