第62話 光を灯す側
個を消して得る平和ではなく、無数の火で支えあう国を。塔を堕とす、たったひとつの策。
廃坑の隠れ家で、アレンは塔を堕とすための策を練りはじめた。だが、考えれば考えるほど壁は高かった。
塔をただ壊すだけなら、できるかもしれない。だが、中にはまだ、灰になりきっていない人々が大勢いる。乱暴に崩せば、その者たちごと術式に巻きこんでしまう。力でねじ伏せる相手ではなかった。
これまでの旅なら、剣があった。斬るべき敵がいて、倒せば何かが前に進んだ。だが、この塔はちがう。斬れば守るべき者が死に、壊せば救うべき心が消える。……敵は鉄でも肉でもなく、人を灰にする仕組みそのものだった。
アレンは生まれてはじめて剣以外の道を真剣に考えねばならなかった。握りなれた柄の重みが、いまはひどく頼りなく感じられた。この壁は、鋼をどれだけ振るっても越えられない。
「アレンさん。ひとつ、気になることが」
リオが言った。
「塔の核。感情を吸うあの術式は、……いったい、吸った感情をどこへためこんでいるんでしょう」
その問いに、アレンははっとした。考えてもみなかった視点だった。壊すことばかりに気を取られて、その先にあるものを見落としていた。
吸い取った心。喜び、悲しみ、恋しさ。……それは消えてなくなるのか。それとも、どこかにたくわえられているのか。
老女が口を開いた。
「昔、ガイウスがまだ正気だったころ、言っていたよ。……人の心は消せない。ただ、どこかへ移すことしかできない、と」
アレンの頭に、ひとつの考えがひらめいた。
――もし、塔が吸った心が、まだ核のなかに眠っているなら。
それをもう一度、人々に返せるかもしれない。コルムの記憶も、奪われた名も、歌も、……ぜんぶ、まだあの塔のどこかに眠っているのだとしたら。取り返せないとあきらめた、その心を、もう一度、持ち主のもとへ返してやれるなら。これほどの望みはなかった。
「エレノア。お前の光は、心を糧に燃える。……なら、逆に、お前の光で、眠った心を呼び覚ますことはできないか」
エレノアはしばらく、自分の手のひらを見つめて考えこんだ。
「……わかりません。やったことは、ありません。でも」
彼女は顔を上げた。その目に、かすかな光がともった。
「わたしの光が、人の心から生まれるものなら、人の心へ返すこともできる、はず。……やってみる価値は、あります」
だが、問題はまだあった。エレノアの光は、この国では弱まる。塔の核の真上ではなおのことだ。今のままでは、核までたどり着く前に彼女が燃え尽きる。
「アレンさん。それなら」
リオが膝を乗り出した。
「地下のみんなの火があります。名を捨てなかった、俺たちの想いが」
隠れ家の人々が顔を上げた。
「一人の光じゃ届かなくても、みんなの想いをひとつに集めれば、……エレノアさんの光を支えられるかもしれない」
その言葉に、アレンは胸を突かれた。
――そうか。それだ。
この国は心を削り、ひとりひとりを灰色に均してきた。だが、逆だ。ひとつひとつは小さな火でも、寄せ集めれば、塔の術式すら押し返す灯りになる。個を消して得る平和ではない。個を無数に灯して、たがいに支えあう。それが、灰色の国へのいちばんの答えだった。
突出を恐れて、すべてを均す。それがガイウスの道だった。だが、アレンの道は逆だ。ひとりひとりがちがっていい。誰かが歌がうまくても、誰かが足が速くても、それは罪ではない。むしろ、そのちがいこそが、たがいを照らしあう。
突出が英雄を生み、英雄が人を踏みにじる。……ならば、踏みにじらない英雄になればいい。突出を消すのではなく、突出を人のために使えばいい。それが、泥の勇者が長い旅の末にたどり着いた、ひとつの答えだった。
「決めた」
アレンは立ち上がった。
「塔にもう一度、乗りこむ。今度はひとりじゃない。エレノアの光と、お前たちの火と、いっしょに」
「けど、どうやって。あんな堅い塔に、大勢で」
「正面から、だ」
アレンの言葉に、みなが息をのんだ。
「これまでお前たちは、地下に隠れて、息を殺して生きてきた。だが、もう隠れる必要はない。……都の人々の前で、堂々と歌え。笑え。名を名乗れ」
無謀に聞こえた。だが、アレンには勝算があった。
この国の人々は、心を削られている。だが、完全に消えたわけではない。奥の奥に、まだかすかな火がくすぶっている。コルムの情が最後まで消えなかったように。その消えかけた火に、歌を、笑いを、名を、もう一度見せてやれば、きっと呼び覚ませる。ひとりが思い出せば、となりが思い出す。灰色は連なって、色を取り戻していく。
アレンはひとりひとりの顔を見わたした。
「灰色の平和がまちがっていると、この国のみんなに見せつけるんだ。それが、塔を堕とす、いちばんの力になる」
沈黙が落ちた。
こわい。当然だ。歌えば、笑えば、塔に送られる。五十年、そう教えこまれてきた。その恐れは、骨の髄まで染みついている。誰もすぐには動けなかった。目をそらす者、うつむく者、震える手をかたく握りしめる者。五十年の恐れは、ひと晩でぬぐえるものではなかった。
アレンは急かさなかった。ただ待った。この恐れを越えるかどうか、それは彼らが自分で決めることだった。誰かに命じられてあげる声など、すぐにまたかき消される。
だが、最初に立ち上がったのは、あの老女だった。
「……いいだろう。わたしゃ、もうじゅうぶん長く生きた。どうせなら、最後くらい、名を名乗って死にたいものさ」
老女は背すじをぴんと伸ばした。
「わたしの名は、マレン。ガイウスの幼なじみの、マレンだよ。……五十年、ずっと番号で呼ばれてきた。けどね、わたしはマレンだ」
その名乗りに、地下がふるえた。しんと湿った岩の空間に、たった一人の老女の声が、まるで最初の一滴が水面に落ちたように広がっていく。
マレンという、そのたった三文字の響きが、五十年の沈黙を破った。番号ではない。人の名だった。母が娘に、願いをこめてつけた名だった。その音を聞いて、人々の胸の奥で凍りついていた何かが、小さく、だが、たしかに溶けはじめた。
次に、リオが立った。そして、若い父親を失いかけた母親が、木彫りを握る老人が、ひとり、またひとり。名がよみがえっていく。灰色の底から、ひとつ、ひとつ。
アレンはその光景を、まぶしく見つめた。
エレノアがそっと彼の手を握った。その手のひらに、ほのかな、だが、たしかなあたたかさがもどっていた。人々の火が、彼女の光を灯しはじめていた。
――名を取り戻す。
それは、この国が奪ってきたすべての始まりだった。名を奪い、感情を奪い、人を番号に変えた。ならば、取り戻す道もまた、名から始まる。
ひとつ、またひとつ、灰色の底から名がよみがえる。そのささやかな声の積み重なりが、やがて塔を揺るがす大きなうねりになる。アレンにはそう信じられた。
番号として生きるよう強いられた五十年。その厚い氷が、一人の老女の名乗りを起点に、静かに割れはじめていた。取り戻すべきは、塔でも、勝ち負けでもない。奪われた一つひとつの名であり、そこに宿っていた誰かの人生だった。
塔を堕とす戦いは、剣ではなく、この、取り戻された名から始まろうとしていた。
答えは「名を取り戻す」でした。番号ではなく名を名乗る。その小さな声の積み重ねが、塔を揺るがす力になる。マレンが真っ先に名乗る場面を、いちばん書きたかったんです。




