第61話 灰をつくった男
灰をつくった男の、五十年前。焼けた村と、消えた母と妹。
塔から人を連れ出した。その報せは、すぐに都じゅうへ広まった。
統制隊の締めつけは、日に日にきつくなった。夜ごと家々があらためられ、番号の点呼が増えた。地下の隠れ家も、いつまで安全かわからなかった。人々を、より深い廃坑の跡へ移すことになった。
その道すがら、老女がぽつり、ぽつりと語りはじめた。大統制官のこと。この灰色の国が、どうして生まれたのかを。
「あの人はね。もとは、名をガイウスといったのさ」
老女の声は、遠い昔をたどるようだった。
「わたしと同じ村の生まれでね。子どものころは、よく笑う、歌のうまい子だったよ。わたしの幼なじみだったのさ」
その言葉に、アレンは思わず聞き返した。
「歌のうまい……あの大統制官が」
「ああ。信じられないだろう。歌を禁じた、あの人がね。……昔は誰よりも大きな声でうたっていたのさ。祭りのたびに、村の真ん中で」
老女はかすかに笑った。だが、その笑みはすぐに消えた。
「あの笑い声を、歌声を奪ったのは、……ほかでもない。この世があの子にした仕打ちなのさ」
廃坑へ続く坑道は、松明の火だけがたよりだった。列をなす人々の足音が、湿った岩肌にこもって反響する。老女の低い声は、その足音の合間を縫うように、途切れ途切れに続いた。
五十年前。この地は、まだ灰色ではなかった。名があり、歌があり、祭りのたびに人々は踊った。畑には麦が実り、夕暮れには家々の窓に灯がともった。どこにでもある、ささやかな暮らしがあった。
だが、国境の向こうから、ひとりの英雄がやってきた。輝く鎧をまとい、魔を討つ聖剣を掲げた英雄。人々はその姿に熱狂した。救い主が来た、と。
英雄は、近くの山に巣くう竜を討つと約束した。見返りに、村の蓄えをほとんど差し出させた。人々は喜んで従った。英雄のためなら、と。
「けどね。その英雄は、竜を討つのに、村を囮に使ったのさ」
老女の声が低くなった。
竜をおびき寄せるため、英雄は村に火を放った。逃げ惑う人々を、竜の気を引く餌にした。そして竜が村に気を取られた、その隙に、背後から一突きで仕留めた。
英雄は竜を討った英雄として、都でたたえられた。だが、村は焼けた。半分の人が死んだ。
生き残った村人が、都まで訴えに行った。英雄は村を囮にした、と。だが、誰も取り合わなかった。
英雄が竜を討ったことは、まぎれもない事実だった。都は救われた。多くの命が助かった。……そのために、ひとつの村が犠牲になった。それのどこが悪い。むしろ国のために、名誉なことではないか。都の人々はそう言った。悪気すらなかった。ただ、焼けた村の痛みが、彼らには見えていなかっただけだ。
「ガイウスは、その火の中で、母親を、妹を、ぜんぶ失ったんだよ」
老女は目を閉じた。
「あの子は生き残った。焼け跡でひとり、三日三晩、動かなかった。……そのとき、あの子のなかで、何かが壊れたんだろうね」
崩れた柱の下から、変わり果てた母と妹を掘り出したのは、まだ年端もいかぬ少年の細い腕だったという。灰にまみれ、涙も涸れはてて、ただ黒く煤けた空を見あげていた。老女の語る、その光景が、アレンの脳裏にありありと浮かんだ。
英雄は罰せられなかった。竜を討った功績のほうが、村ひとつの命よりも重かったからだ。碑ひとつ建たなかった。焼けた村人の名は、誰の記憶にも残らなかった。ただ、英雄の像だけが、都の広場に高々とそびえた。
「あの子はその像を、ずっと見ていたよ。……何年も、何年も」
焼けた村の名は、どこにも残らない。だが、竜を討った英雄の名は、石に刻まれ、永遠にたたえられる。そのあまりに大きなへだたりを、幼いガイウスは毎日、広場で見あげていた。
なぜ、母は、妹は、名もなく消えたのに。母を、妹を焼いたきっかけをつくった、あの英雄が、こうしてたたえられているのか。その問いに、誰も答えてくれなかった。
やがて、ガイウスは姿を消した。
次に彼が現れたとき、彼はひとつの思想を手にしていた。
突出が英雄を生む。英雄が栄光のために、名もなき者を踏みにじる。ならば、誰も突出させなければいい。誰も光らせなければ、二度とあの悲劇は起きない、と。
「あの子は本気で信じていたのさ。これが人を守る道だと。……もう二度と、自分のような子どもを出さないために」
彼は同じ痛みを抱えた者を集めた。英雄に、栄光に踏みにじられた者たちを。そして、灰色の国を造りあげた。誰も光らない国、誰も突出しない国、誰も傷つかない――はずの国を。
はじめは、彼に従う者も多かった。同じように英雄に、栄光に踏みにじられた者たちが、ガイウスの旗のもとに集った。二度とあんな思いはしたくない、と。
だが、痛みから生まれたその理想は、いつしか痛みを生む仕組みへと変わっていった。突出を恐れるあまり、心の揺れそのものを罪とした。悲しみをなくすために、悲しむ心を削った。……気づけば、守るはずだった人々を、ガイウス自身が灰にしていた。
アレンは黙って聞いていた。胸の奥が重くふさがっていた。
――わかってしまう。
それがつらかった。ガイウスの痛みが、アレンには痛いほどわかった。偽りの英雄に名もなき者が踏みにじられる、そのむごさを、アレンもまた、この目で見てきたから。もしアレンがあの火の中ですべてを失っていたら、同じ道を選ばなかったと、言いきれるだろうか。
エレノアがそっと、アレンのとなりに並んだ。彼女もまた、老女の話をじっと聞いていた。
「……にている、のですね」
エレノアが小さくつぶやいた。
「アレン様と大統制官は、おなじ痛みを見てきた。おなじものに怒っている。……なのに、ふたりの進んだ道は、まるで逆だった」
その言葉が、アレンの胸に深く刺さった。似ているからこそ、憎みきれない。憎みきれないからこそ、なおのこと苦しかった。もし一歩、掛け違えていたなら、いまここに立っているのは自分だったかもしれないのだ。
同じ痛みから、ある者は心を守るために心を殺す道を選び、ある者は心を守るために心を灯す道を選ぶ。そのわかれ道が、ガイウスとアレンを分けたのだった。
「……だからって」
だが、アレンは首を振った。
「だからって、今度は国じゅうの心を奪っていいわけがない。あの子の笑い声を、コルムの記憶を奪っていいわけが、ない」
痛みはわかる。理由もわかる。だが、それでも、灰色の平和はまちがっている。
「悲しみをなくすために、悲しむ心ごと消してしまったら、……救われる者なんて、どこにもいない」
老女はアレンを見た。そして、ふっと、かなしげに微笑んだ。
「そうだね。……その通りだ。誰かあの子に、それを言ってやれる者がいれば、よかった。五十年前に」
廃坑への道は暗く、長かった。だが、アレンの心は定まっていた。
あの塔を堕とす。ガイウスの痛みごと受け止めて、そのうえで、それでもまちがっていると告げるために。斬って終わる相手ではない。憎んで済む相手でもない。ただ、五十年前に誰も言ってやれなかった、その言葉を、いま、この手で届けるために。
少年のガイウスが焼け跡でひとり見あげた空に、届かなかった言葉を。
大統制官ガイウスの過去です。彼の痛みは、アレンにも痛いほどわかる。だからこそ厄介で、剣では断てない。「同じ痛みから、逆の道を選んだ二人」というエレノアの一言が、この物語の背骨です。




