第60話 取り戻せなかったもの
救えたのは、命だけだった。父の腕から、我が子の記憶が消えていた。
ヴェインは、逃げた。
誇りもなにもなかった。人が壊れるさまを見るのは好きでも、自分が傷つくことは何より嫌う男だった。アレンの剣先が届くより早く、彼は壁の隠し扉へと身をひるがえした。
「――覚えておけ。この塔は、私の庭だ。ここで私に勝てると思うな」
捨て台詞を残し、ヴェインは消えた。
同時に、塔じゅうにけたたましい鐘が鳴りひびいた。侵入者を告げる警鐘だ。廊下のあちこちから、統制隊の足音が津波のように押し寄せてくる。
「アレン様。もう、光が……」
エレノアがよろめいた。使いすぎて、彼女の体はもう限界だった。アレンは片腕に赤子を抱き、もう一方の肩にコルムを担ぎ、エレノアを支えるべく歯を食いしばった。
「こっちだ、はやく」
声がした。水路の抜け穴から、リオが顔を出していた。危険を承知で、地上まで迎えに来たのだ。
「リオ。なぜ、ここに」
「四の五の言ってる場合か。走れッ」
リオの目は血走っていたが、その手はしっかりとエレノアの腕を引き受けた。
四人とひとりの赤子は、螺旋の階段を駆け下りた。背後から統制隊の影が迫る。下層の廊下で、ひとり、行く手をふさぐ隊士がいた。アレンは赤子をかばいながら、剣の柄でそのみぞおちを突いた。隊士が崩れる。斬らずに、ただ道をあけた。
水路の鉄格子まで、あと少し。
だが、逃げるその途中でも、アレンは見てしまった。廊下の小部屋に座りこんだ、灰色の人々。警鐘がこれほど鳴りひびいても、誰ひとり顔を上げない。逃げようともしない。ただうつろに、宙を見ている。
助け出したくとも、この大勢を一度に運ぶことはできなかった。今日救えるのは、ほんのひとにぎり。腕は二本しかなく、時は残されていない。無数のうつろな瞳が、暗がりのなかからアレンを見ているようで、その一つひとつが、置き去りにされる沈黙の重さで胸に食いこんだ。それがどうしようもなく歯がゆかった。
――待っていてくれ。かならず、また来る。
アレンは走りながら、心の中でそう叫んだ。
だが、最後の角で、コルムがずるりとアレンの肩から滑り落ちた。
「コルム……っ」
男は廊下に座りこみ、ぼんやりと宙を見ていた。
「……なあ。おれは、なんでここにいるんだ」
その声に、アレンの胸がひやりとした。
「しっかりしろ。お前の子だ。ほら、無事だぞ」
アレンは腕の中の赤子を、コルムの顔に近づけた。だがコルムは、その小さな顔をじっと見て、首をかしげた。
「かわいい赤ん坊だな。……どこの子だ」
時が止まったように感じた。腕の中の赤子と、それを見あげる父の顔。本来ならいちばんかたく結ばれているはずのふたつが、ほんの一尺の距離をへだてて、赤の他人のように向きあっていた。
コルムの心は、塔で削られすぎていた。かろうじて命は助かった。だが、いちばん大切な記憶が、我が子の顔が、名が、抜け落ちてしまっていた。あれほど、あの子だけは、と叫んでいた、その心が。
塔の術式は、心の表から順に削っていく。悲しみ、喜び、そして、人を思う記憶。いちばん強い想いほど、核に近い上層で真っ先に狙い撃たれる。コルムのいちばん強い想いは、我が子への情だった。だからこそ、それが最初に奪われた。むごい皮肉だった。深く愛していた者ほど、その愛をまっさきにもがれてしまう。
「……そんな」
エレノアの声が震えた。
アレンは奥歯を噛みしめた。腹の底から、どうしようもないものがこみ上げてくる。間に合ったと思った。救えたと思った。だが、救えたのは命だけだった。父と子をつないでいた、いちばんあたたかな糸は、もう二度と、もとには戻らない。
リオがコルムの腕を取った。
「……いいから、とにかく逃げるぞ。ここにいたら、命までなくす」
その声もかすれていた。リオは、この取り返しのつかなさを知っていた。妹で、すでに味わっていたから。
四人は水路へ身を沈めた。冷たい闇のなかを、ひたすら進む。腕の中の赤子はもう泣き止み、すやすやと眠っていた。この子は助かった。まだなにも知らないまま。
だが、この子がいつか大きくなって父を呼んでも、その父はもう、我が子の顔を思い出せない。その事実の重さが、水の冷たさとはべつに、アレンの体を芯から凍えさせた。
これまでの旅で、アレンは何人もの敵を討ってきた。偽りの栄光を剥ぎ取り、奪われた者たちの無念を晴らしてきた。斬れば片がつく敵、倒せば報われる痛み。それらにはまだ、救いがあった。
だが、この国のむごさは、斬っても倒してももとには戻らない。削られた心は二度と埋まらない。奪われた記憶は返ってこない。剣では届かない痛みが、ここにはあった。
地下の隠れ家にたどり着いたとき、老女が無言で四人を迎えた。コルムのうつろな目を見て、何が起きたかをすべて悟ったようだった。
「……よく、子どもだけでも連れて帰ってくれた」
老女はそれだけ言って、深く頭を下げた。
アレンは何も言えなかった。勝ったとは、とても言えなかった。赤子は救った。だが、ひとりの父の心を取り戻すことはできなかった。
――これが、あの塔のむごさだ。
アレンは眠る赤子の頬に、そっと指を触れた。あたたかかった。このあたたかさを守れたことだけが、せめてもの救いだった。
白い塔は、まだ都の中心にそびえている。
――そのころ、塔の最上階では。
ひとりの老いた男が、窓のない部屋で、ヴェインの報告を聞いていた。
「侵入者。白金の光を放つ女と、剣を持つ男。……光は、この塔の術式を押し返した、と」
男のしわがれた声に、ヴェインがひれ伏した。
「はっ。信じがたいことですが、感情を糧に、光が増したのでございます」
老いた男はしばらく沈黙し、そしてぽつりとつぶやいた。
「……五十年ぶりだ。この塔の理を破る者が現れたのは。忌々しい。だが、……興味深い」
その声には、怒りよりも、どこか深い疲れがにじんでいた。長い歳月をかけて何かを押さえこみつづけてきた者の、底知れぬ倦みが。これが、大統制官。灰色の国を造りあげた男の、はじめての言葉だった。
あの塔には、まだ取り戻せる心が、取り戻せない心が、数えきれぬほど閉じこめられている。
――必ず、あの塔を堕とす。
アレンは眠る赤子を抱いたまま、静かにそう誓いなおした。もう二度と、誰にもこの痛みを味わわせないために。
その夜、隠れ家の隅で、エレノアは眠る赤子のそばに座り、小さな声で子守唄をうたっていた。この子には、うたってくれる母も、名を呼んでくれる父も、もういない。せめてひとつくらい、あたたかなしらべを覚えていてほしくて。
そのか細い歌声は、湿った土の匂いのする隠れ家に、細い糸のように流れた。眠る者たちの寝息にまじって、それはやけに澄んで聞こえた。そのか細い歌声を、アレンは少し離れた場所からじっと聞いていた。守れたものと、守れなかったもの。そのふたつを、けっして取り違えまいと胸に刻みながら。
――守る。この子の笑い声も、この人の歌声も。名を呼びあえるあたりまえの日々を、この国にかならず取り戻す。
取り返せなかったものの重さを胸に刻んで、アレンはもう一度、拳を握りしめた。
あえて、勝ちきらせませんでした。赤子は救えても、父コルムの記憶は戻らない。「斬っても倒しても、もとには戻らない痛み」を、この国の本質として置いています。大統制官も、ここで初めて声を出します。




