第59話 白金の、涸れぬ光
白い霧の底で、聞こえた声。涸れたはずの光が、なぜ塔の真上で燃えあがるのか。
白い霧の底で、アレンはひとつの夢を見ていた。
泥にまみれた日々の夢だった。栄光を奪われ、名を忘れられ、誰にも必要とされなかったあの頃。冷たい路地の隅で膝を抱え、通り過ぎる人の足音だけを数えて、ただうずくまっていた自分。腹は減り、指はかじかみ、心はそれよりもっと冷えきっていた。あのまま灰になっていれば、いっそ楽だったろうか。
――いや。
夢の中で、アレンは首を振った。
あのとき、差し伸べられた手があった。泥だらけの自分に、汚れるのもかまわず、まっすぐ手を伸ばしてくれた人が。白金の髪の、あの人が。その手を握った瞬間から、俺の心はもう一度動きはじめたのだ。だから捨ててなるものか。この苦しみも痛みも、ぜんぶ、あの人がくれた命の証なのだから。
夢の中の白金の髪の人が、ためらいもなくこちらへ手を伸ばす。その指先がアレンの頬に触れたと思った瞬間、ふいにあたたかいものが全身へ流れこんできた。凍えた指先から、しびれきった胸のなかまで。じんわりと、血が通いなおすように。
これは、夢ではない。
――アレン様。
遠くで誰かが自分を呼ぶ声がした。
――アレン様。目を開けてください。
聞き覚えのある声だった。この世でいちばん聞きたかった声。アレンの意識が、白い底からじわりと浮かびあがっていく。
目を開けると、霧が晴れていた。いや、晴らされていた。広間の中央に、エレノアが立っていた。両手を天へかざし、全身から白金の光を放っている。その光が渦巻く霧を押し返し、焼き払っていた。
「エレノア……っ。なぜ、ここに」
「待っていられませんでした」
エレノアは振り向かず、光を放ちつづけたまま答えた。その声は震え、かすれていた。
「あなたが、ひとりで行かせてと。……できるわけ、ないでしょう。あなたが心を削られているのを、指をくわえて待っているなんて、わたしにはできない」
アレンは息をのんだ。
この灰色の街で、エレノアの光は涸れかけていた。塔の中はなおのことだ。それなのに彼女は、乾ききったその身から命を削るように光を絞り出している。足もとはおぼつかず、膝は笑い、呼吸は浅い。額には玉の汗が浮き、唇からは血の気が失せていた。ひと目でわかった。これはほんのわずかに残った最後の力を、すべて注ぎこんでいる姿だと。
ここで光を使えば、彼女自身が灰になりかねない。それをわかっていて、なお、彼女はアレンのために命の火を燃やしていた。
――やめろ、と言うべきだった。だが、言えなかった。もし逆の立場なら、アレンもまた同じことをしただろうから。かける言葉のかわりに、アレンはただ、その細い背をまなざしで支えることしかできなかった。
「バカな」
声を上げたのはヴェインだった。その顔から愉悦の色が消え、かわりに、信じられないという驚愕が浮かんでいた。
「感情を殺すこの塔の真上で、なぜ光が増す。……ありえない。ここでは、どんな聖術も萎えるはずだ」
エレノアはヴェインへ目を向けた。その頬をひとすじ、涙が伝っていた。だが光は弱まるどころか、いっそう強く燃えあがった。
「わたしの光はね」
その声は静かで、けれど揺るぎなかった。
「人の心のあたたかさを糧にします。喜びも悲しみも、そして、誰かを想う気持ちを」
彼女は倒れたアレンを見おろした。そのまなざしはあまりにやわらかく、そして切なかった。
「この人を失いたくない。その気持ちが、いま、わたしのなかでいちばん強く燃えています。……あなたたちがどれだけ心を削ろうと、この想いだけは、決して灰にはできません」
それは、彼女がずっと隠してきた秘密の片鱗だった。
彼女の光の源。それは神から賜った聖なる力などではなかった。ただ誰かを想う、その人間の心。それこそが白金の光の本当の正体だった。
だからこそ、彼女はそれを口にできなかった。もしこの想いがいつか褪せたら、彼女の光も消えてしまう。英雄であることをやめてしまう。その恐れを、ずっとひとりで抱えてきた。人を好きになるということは、その人を失う痛みをあらかじめ抱きこむということだ。だからエレノアはずっと、この気持ちに名をつけずにきた。名をつけなければ、失う日も来ないかのように。
けれど、いま、彼女はその恐れよりも、目の前のこの人を選んだ。心を殺して得る安らぎなど、生きているとは言わない。たとえいつか失う痛みが待っていても、想うことを恐れて灰になるより、ずっといい。この灰色の国が、皮肉にも彼女にそれを教えたのだった。
白金の光が広間を満たした。感情を吸う霧が焼き尽くされていく。ゆりかごの赤子の頬に、じわりと血の色がもどった。灰になりかけたその心が、あたたかな光に包まれて、ふたたび泣きはじめる。力のこもった、生きた泣き声だった。
その声を聞いて、エレノアの頬に安堵の涙が伝った。間に合った。この小さな命を、灰にさせずにすんだ。塔の冷たい石壁に反響するその泣き声は、感情を禁じたこの場所で、なによりも力強い抗いのように響いた。生きているものは泣く。腹を立て、笑い、誰かを恋う。それを取り上げることが、どうして人を守ることになるだろう。
アレンは床に手をつき、よろめきながらも立ち上がった。心がもどってくる。エレノアの光が、削られたその隙間をあたたかく満たしていく。指の先まで、忘れかけていた熱がめぐった。
「……すまない。助けられた」
「おあいこ、です」
エレノアはこちらを見て、涙に濡れた顔でふわりと笑った。
「あなたがいつも、わたしを支えてくれる。だから今日は、わたしの番」
その言葉に、アレンの胸が熱くなった。いつだって守られてばかりだと、彼女は気にしていた。だが、ちがう。守り、守られ、支え、支えられ。そうやって二人はここまで来た。どちらが上でも下でもなく、ただ並んで立っている。それが二人のかたちだった。
アレンは剣を握りなおした。膝はもう笑っておらず、となりには白金の光、腕の中には取り戻すべき命がある。
「エレノア。あとは俺がやる。……あの化け物を、ここで止める」
ヴェインがじりと後ずさった。その顔に、はじめて焦りの色が浮かんでいた。
「ばかな……ばかな。心を糧に、光が増すだと。そんなもの、私の知る術理にはない。……この塔の五十年が積み上げてきた理が、たったひとりの女の想いに押し返されるというのか」
ヴェインの声はうわずっていた。彼は人が壊れる瞬間だけを見つめて生きてきた。壊れ、濁り、灰へと崩れていく心ばかりを、美酒のように味わってきた。だから知らなかったのだ。人の心が、壊れるのとは逆に、誰かのためにかえって強く燃えあがる、その瞬間のあることを。守りたいと願うたび、人は弱くなるのではなく、強くなれるのだということを。
アレンは、そのうろたえる男に剣先を向けた。剣を握る手には、もう迷いはなかった。
「教えてやる。……心ってやつは、お前が思うより、ずっとしぶといんだ」
その言葉は、脅しではなかった。この塔の底で削られてきた無数の人々への、そして自分自身への、静かな誓いだった。奪われた心は、まだどこかで火をくすぶらせている。消えてなどいない。
白金の光を背に、泥の勇者が一歩、踏み出した。
エレノアの秘密――光の源は「誰かを想う気持ち」だという核心を、ようやく明かしました。感情を殺す塔の真上で、感情ゆえに光が増す。この逆説を、二人の恋のいちばん強い場面にできたと思います。




