第58話 首席矯正官ヴェイン
ゆりかごの前に立つ、痩せた男。人が壊れる瞬間だけを悦ぶ、首席矯正官ヴェイン。
上層は、下とは空気がちがった。
霧は濃く白く、息をするたびに肺の底まで冷えた。壁の灯りはいっそう青ざめ、生者のいる場所とは思えない。背に負ったコルムの息づかいだけが、ここが死の底ではないと教えてくれる、たったひとつのしるしだった。
アレンはコルムを背に、廊下を進んだ。子どもを、名もまだないあの赤子を探して。やがて、ひときわ大きな扉の前に出た。
中から細い泣き声が聞こえた。糸のように途切れがちで頼りない、赤子の声だった。まだ生きている。まだ、間に合う。
アレンは扉を押し開けた。
広間だった。中央に、ゆりかごのような白い器が据えられている。その中で小さな赤子が、手足をばたつかせて泣いていた。器の上には、感情を吸う霧が渦を巻いて垂れこめている。
まだ泣いている。まだ灰になっていない。その泣き声はたしかに生きていた。だが器のふちには、すでに灰色のしるしがにじみ始めていた。赤子の頬、ふっくらとしたその色が、ほんの少しずつ血の気を失っていく。急がねば、あといくらも猶予はない。この小さな心が、まだ泣くことを覚えているうちに。泣くというのは、命がここにあると訴える、いちばんまっすぐな声だ。それが消えたとき、この子は人であることをやめてしまう。
アレンは駆け寄ろうとした。だが、その足が止まった。
ゆりかごのかたわらに、一人の男が立っていた。背が高く痩せた男で、灰色の制服をまとっていた。だがその胸の紋章は、歯車ではなく、金の縁取りがしてあった。位の高さを示すもの。
男は赤子の泣き声を、うっとりと目を細めて聞いていた。極上の調べでも味わうように。そのたたずまいには、冷酷という言葉すら当てはまらなかった。冷酷な者は、少なくとも目的のために心を殺している。だがこの男はちがった。心を殺すどころか、人が壊れるさまに、うっとりと心を震わせている。悪意ですらなかった。悪意にはまだ、相手を見ているまなざしがある。だがこの男の目には、赤子は人として映っていない。ただ壊れていく、美しい玩具としてしか。そこに映るのは命ではなく、崩れゆく過程の美しさだけだった。
「……いい、声だ」
男が言った。
「泣いている。まだこんなにも、命がここにあると、全身で叫んでいる。……この声が少しずつ細くなって、やがてふつり、と途切れる。あの瞬間が、私はたまらなく好きでね」
アレンはすぐに悟った。
――こいつが、ヴェイン。
首席矯正官。灰化を取り仕切る、大統制官の右腕。人が灰になる、その顔を見るのを何よりも好むという男。
ヴェインは首をめぐらせ、アレンのほうを振り向いた。その目には狂気も憎悪もなかった。ただ、純粋な、楽しげな色があった。それが何よりもおぞましかった。憎しみからでも、信念からでもなく、ただ愉しみのために人を壊す。そういう心が、この世にはたしかに存在するのだと、アレンは目の前で思い知らされていた。剣を握る手に、じっとりと汗がにじんだ。
「珍しい。ここまで心を保ったまま登ってこれる者はいない。……よほど強い、心の支えがあると、みえる」
ヴェインの視線が、アレンの胸もとに注がれた。聖印を握る、その手に。
「なるほど。そういうことか。……誰かの想いを握りしめて、それを支えにしている。ふふ、いいね。とてもいい。……壊しがいが、ある」
アレンはコルムを音を立てぬよう床に下ろし、剣の柄に手をかけた。
「その子を、返してもらう」
「返す?」
ヴェインは心底おかしそうに笑った。
「返してどうする。この子はこれから灰になる。楽になるんだ。悩みも痛みもない。……お前はこの子からその安らぎを奪おうというのか。ずいぶんと残酷な男だな」
「安らぎだと。心を奪うことが、か」
「そうとも。心は苦しみのみなもとだ。喜びは失う恐れを生む。愛は別れの痛みを生む。……ならば、初めからなければいい。この国の理想は正しい。人は心を捨ててこそ、真に安らげる」
その言葉は、大統制官の思想の歪んだ写し身だった。だが、ヴェインのそれは思想ですらなかった。
アレンはこの灰色の国で、はじめて心の底から冷たい怒りを覚えた。これまで対してきた敵にも、悲しい者はいた。哀れな者もいた。偽りの英雄すら、どこかに救いようのある弱さを抱えていた。憎みきれない痛みがあった。だがこの男はちがう。人の痛みを悦ぶ心。それはどんな事情でも、どんな過去でも説明のつかないものだった。理解しようとしても、手が届かない。かける言葉がない。どんな悲しい過去も、どんな歪んだ理想も、この男の前ではただの飾りにすぎなかった。話し合いで止められる相手ではない。止めるには、この手で打ち倒すしかなかった。
「……お前は、理想なんて信じちゃいない」
アレンは低く言った。
「お前はただ、人が壊れるのを見たいだけだ。理想は、そのための口実にすぎない」
ヴェインの笑みが一瞬、止まった。そしてさらに深く、愉悦の色を濃くした。
「……その通りだよ。よくわかったな。理想だの平和だの、どうでもいいのさ。私はね、ただあの瞬間が見たいだけだ。光を宿した目がだんだん濁って、何もかもどうでもよくなって、ぷつり、と糸が切れる。……あれ以上の悦びを、私は知らない」
ヴェインがすっと手を上げた。とたん、広間の天井から霧がどっと噴き出した。四方から、アレンを包みこむように。
「まずは、お前からだ。その握りしめた想いごと……ゆっくり削ってやろう。泣き叫ぶその顔を、とっくりと拝ませてもらう」
濃い霧がアレンの視界を白く染めていく。視界がぼやけ、手足の感覚が遠のいていく。頭の奥であのささやきがふたたび湧く。楽になれ。もういいだろう。何もかも手放してしまえ。抗うのは、苦しいだけだ、と。
――ちがう。
アレンは奥歯を噛みしめた。
――苦しいのは、心がまだある証拠だ。苦しみを手放したら、俺は俺でなくなる。エレノアの光も、コルムの涙も、あの子の泣き声も……ぜんぶどうでもよくなる。そんなものは、安らぎではない。それはただの、生きたままの死だ。心を捨てて得る平穏など、まっぴらだった。
胸もとの聖印が、焼けるように熱くなった。エレノアの光が懸命に心を守ろうとしている。だがここは核のすぐ下、霧はあまりに濃い。
――くそッ。意識が。
アレンの膝が、かくり、と折れた。それでも霧は容赦なかった。アレンの体はずるり、と床に崩れた。剣を抜くことすらできず、指先はもう思うように動かない。
ヴェインが一歩ずつ歩み寄ってくる。倒れたアレンを見おろし、舌なめずりをするように目を細めた。
「さあ、見せてもらおうか。その強い心が灰になっていくさまを。……お前ほどの心なら、さぞ見ごたえがあるだろう」
遠のく意識のなかで、赤子の泣き声だけが、まだ細く、途切れ途切れに聞こえていた。その小さな声が、アレンをこの世につなぎとめる、細い、細い糸だった。
――まだだ。まだ倒れるわけには。あの子を、あの親子を。まだ、俺は。
意識が白く塗りつぶされていく最後の瞬間まで、アレンはその泣き声に手を伸ばそうとしていた。届かない。指一本、動かせない。
だが意識は、無情にも白い霧の底へと沈んでいった。
この物語で、いちばん救いのない敵です。事情も過去も関係なく、ただ人が壊れるのを見たいだけ。冷酷ですらない、その空っぽさを描きました。アレン、まさかの気絶で引きです。




