第57話 塔のなかの灰
心を削られ、名を忘れていく人々。塔の中で、アレンが見たものとは。
水路の果てに、錆びた鉄格子があった。
アレンは剣の柄で、留め金をそっと外した。軋む音を殺しながら格子を押し開け、塔の最下層へと忍びこむ。
中は、奇妙なほど静かだった。白い石の廊下が、ずっと奥まで続いている。壁には等間隔に灯りがともり、冷たく青白い光を放っていた。人の気配はあるのに、ない。息づかいのない、生きた者の抜け殻ばかりが並んでいるようだった。歩哨の姿すら、まばらだった。
――守りが薄い。
アレンは警戒した。だがすぐに、その理由を悟った。この塔は、逃げ出す者を想定していないのだ。ここへ運ばれる者はみな、心を削られ、抗う意志すらなくしていく。牢に鍵はいらない。人が自分から逃げようと思わなくなる。それがこの塔の、いちばんの守りだった。
それでも壁のところどころには、ひっかいたような跡が残っていた。爪で刻んだ文字。かすれた名前。誰かが灰になる前に、せめて自分の名をこの世に残そうとした跡だった。わたしはここにいた。わたしには名があった。……そう叫ぶように。だがその多くは、途中で途切れていた。書きかけのまま、名を刻んでいるその最中に、名を忘れてしまったのだ。
アレンはその壁を、そっと指でなぞった。冷たい石の感触の向こうに、ここで消えていった無数の名が眠っている気がした。忘れられた者たちの遺志。それを背負うのが、自分の旅だった。誰かが覚えていなければ、その者はほんとうに、この世からいなくなってしまう。
廊下の両脇に、小部屋が並んでいた。のぞきこむと、そこには灰色の人々が、ただ座っていた。誰もしゃべらない。誰も動かない。うつろな目で、宙の一点を見つめている。ときおり白い霧のようなものが天井の格子から部屋に流れこみ、それを浴びるたびに、人々の目から光が、また、ひとつ消えていく。感情を吸う術式の霧だった。
部屋の隅に、ひとりの老人がいた。手に木彫りの小さな鳥を握っている。誰かが彫ってくれたものか、それとも自分で彫ったものか。老人はその鳥をじっと見ていた。何かを思い出そうとするように。だが天井から霧が流れこむたびに、そのまなざしは少しずつうつろになっていく。
やがて老人の指がゆるみ、木彫りの鳥がころりと床に落ちた。老人はもう、それを拾わず、落ちたことにも気づかない。ついさっきまで握りしめていた大切なものが、もう何なのかもわからない。それが、灰化だった。血が流れるわけでも、悲鳴があがるわけでもない。ただ、ひとつの人生が、音もなく途切れていく。焼き殺すよりもむごい、静かな死だった。
アレンは歯を食いしばった。目の前で、人が灰になっていく。ゆっくりと、痛みもなく、ただ静かに。胸もとの聖印が、ふいに熱を帯びた。アレンの心が削られかけたのを、エレノアの光が押しとどめたのだ。
――しっかりしろ。俺は、俺だ。
アレンは聖印を握り、深く息を吸った。この霧のなかに長くいれば、いずれ自分もあの老人のようになる。時間はなかった。
コルムを探して、アレンは下層の小部屋をひとつずつあらためていった。やがて奥の一室で、見覚えのある背中を見つけた。
「コルム」
小声で呼ぶが、男は振り向かなかった。
アレンは部屋に忍びこみ、その肩をつかんだ。
「しっかりしろ。助けに来た。……お前の子は。赤ん坊は、どこだ」
コルムはのろりと顔を上げた。その目は、まだかろうじて光を残していた。だが、うつろだった。
「……あか、ん、ぼう」
「そうだ。お前の子だ。抱いていたはずだ」
コルムの目に、ほんの少し、何かがよぎった。ずっと奥のほうで、忘れかけた記憶が、もがいているように。
「……上に。子どもは心がやわらかいから、すぐ灰になるって。……上の階へ、連れていかれた」
言いながら、コルムの目からひとすじ、涙がこぼれた。灰になりかけたその心のいちばん底に、まだ消えずに残っていたもの。それは、我が子を思う気持ちだった。名前も思い出せない。自分が誰かもあやふやだ。それでも、ただこの胸のどこかが、あの小さなあたたかさを探している。
「たすけて……あの子を。おれのことはいい。あの子だけは」
その切れぎれの言葉が、アレンの決意をいっそう固くした。心を削られてなお消えなかった、親の情。それはこの塔の術式でも奪いきれなかった、人の証だった。
アレンの血が凍った。子どもは上へ、核に近い上層へ。心のやわらかい赤子ほど、灰化がはやい。まだ言葉も知らぬ、笑うことしか知らぬ命が、いちばん先に色を失っていく。急がねば。刻一刻と、あの小さな声が細くなっていく。
「立てるか。ここを出るぞ」
アレンはコルムを抱え起こした。だがその時、廊下の奥から、ざっ、と足音がした。巡回の統制隊。二人。灯りの影に揺れて、近づいてくる。
アレンはとっさにコルムを部屋の隅へ隠し、自らは扉の脇に身を伏せた。足音が部屋の前で止まる。
「この個体。まだ意識が残っているな。……処理を早めよ。上へ運べ」
統制隊が二人、部屋に入ってきた。剣を抜くには狭い。だが、狭さは時に味方になる。
アレンは影から飛び出した。一人のみぞおちに拳を埋める。声もなく崩れ落ちる。もう一人が振り向くより早く、その首すじに手刀を叩きこんだ。二人が床に伏す。音はほとんど立たなかった。倒れた二人は、抗いもせずに崩れ落ちた。
――斬らなかった。
こいつらも、ただ灰色にそだてられた、この国の子だ。命じられるまま動く。斬るべきはこいつらではない。倒れた統制隊の一人、その若い顔をアレンは見おろした。まだ二十歳にもなるまい。この男にもかつては名があり、母がいて、子守唄をうたってもらった夜があったはずだ。それをすべて忘れさせられ、歯車の紋章を胸につけさせられた。こいつらもまた、被害者だった。加害者の顔をした。憎むべきは彼らではない。彼らをこう造り変えた、この国の仕組みそのものだ。剣を鞘に納めたまま、アレンは静かにそう思い定めた。
――だからこそ、この仕組みごと壊す。人が人を灰にする、この塔を、根こそぎ。
「行くぞ、コルム。お前の子を取り戻す」
アレンはぐったりとした父親を背に負った。そして上の階へと続く、螺旋の階段を見上げた。のぼるほど核に近づき、感情を吸う霧は濃くなる。心が削られ、守りも厚くなる。それでも。
背に負ったコルムの重みが、妙にあたたかかった。この重みは、命の重みだ。まだ灰になりきっていない、心の重み。それを背負っているかぎり、アレンは迷わなかった。
一段、また一段。のぼるたびに霧がまとわりついてくる。頭の奥がだんだん痺れてくる。どうでもよくなってくる。なぜこんな危ないことを、引き返せば楽なのに。……そんなささやきが、心のすきまから忍びこんでくる。
胸もとの聖印を、ぐっと握る。指先に伝わるかすかな温もりだけが、灰色に沈もうとする意識を、かろうじて岸につなぎとめていた。
――エレノア。もう少し、俺の心を貸してくれ。
アレンは一歩、階段に足をかけた。白い塔の上へ。名もまだない、小さな命を灰にさせないために。泥の勇者は登りはじめた。一歩ごとに霧は濃く、心は重くなる。それでも足は止まらない。心を削る、光の真上へと。
壁に爪で刻まれた、書きかけの名前。名を刻んでいる最中に、その名を忘れてしまう。灰化の怖さを、そんな細部で見せられたらと思って書きました。




