第56話 連れていかれた声
赤子が笑った、ただそれだけで。連れていかれた親子を追い、アレンは単身、塔の水路へ。
事は、あっけなく起きた。
地下の隠れ家にいた、あの若い父親。名をコルムといった。膝の上で幼子をあやしていた、あの男だ。
その日、コルムは配給の列に並んでいた。腕の中には赤子。乳飲み子はまだ、この国の掟を知らない。列が進む途中、赤子が何かにつられて、きゃっ、と声をあげて笑った。ただ、それだけだった。
だが、その澄んだ笑い声は、しんと静まりかえった灰色の列のなかで、あまりにもよく響いた。人々がいっせいに父子から離れる。関わりを恐れて、潮が引くように。笑い声ひとつが、それほどの罪になる街だった。
統制隊は、すぐに現れた。
「番号を」
「……四一〇八、です」
「その腕の幼体。感情の表出を確認した。風紀を乱す個体だ。矯正の対象とする」
「待ってくれ。まだ赤ん坊だ。笑っただけだ。悪いことなんて、何も」
「笑うことが乱れだ。乱れは芽のうちに摘む。それが掟だ」
統制隊が赤子に手を伸ばした。コルムはとっさに身をひねり、我が子をかばった。その抵抗が、命取りだった。
「保護者も乱れている。……二体とも連行する」
コルムは抗ったが、多勢に無勢だった。取り押さえられ、赤子ごと引き立てられていく。
「やめろ。この子はなにも知らないんだ。俺はどうなってもいい。だからこの子だけは。この子だけは……っ」
父の叫びは、灰色の街に吸いこまれて消えた。
まわりの人々は、誰ひとり助けなかった。見て見ぬふりをした。いや、ほとんどの者は本当に何も感じていないのだ。目の前で親子が連れられていく。それをただ、天気の移り変わりでも眺めるように見て、また、うつむき列に戻っていく。
助けよう、という心すら、もうこの国の多くの人からは削り取られていた。それがいちばん恐ろしいことだった。むごい掟よりも、そのむごさに誰も傷つかなくなった、そのことが。人を人でなくすというのは、こういうことなのだと、アレンは思い知らされた。悲鳴すらあがらない街。それがこの国の、完成された姿だった。
報せは、その日の夜、地下に届いた。
隠れ家は静まりかえった。誰も口をきかない。ただ老女が、しわだらけの手で顔をおおっていた。
「……また、ひとり。いや、ふたり、だね」
リオが壁を殴った。
「くそッ。赤ん坊まで。あいつら、赤ん坊まで灰にするのか」
リオの目に、こらえきれぬ涙がにじんでいた。
「俺の妹も、そうだった。……あいつは歌が好きでね。小さいころから、いつも口ずさんでた。母ちゃんが教えてくれた子守唄を。ある日それを聞かれて、連れていかれた」
リオの声が震えた。
「帰ってきた妹は、もう歌わなかった。俺の顔を見ても、にこりともしない。名を呼んでも、番号で返事をする。……あれは俺の妹じゃなかった。妹の形をした、灰だった」
その記憶が、リオを統制隊から抜けさせ、この地下へ導いたのだった。歯車の紋章を捨てたあの日から、彼はずっと、妹に歌を返せなかった自分を責め続けている。
アレンはじっと床の一点を見ていた。腹の底が、焼けるように熱かった。だが、頭は冷えていた。怒りにまかせて飛び出せば、コルムも赤子も救えぬまま、自分たちも灰になる。
「リオ。塔に送られた者は、すぐに灰化されるのか」
「……いえ。下の層でしばらく留め置かれます。心の強い者ほど、時がかかる。核まで運ばれるのに、数日は」
「なら、まだ間に合う」
アレンは立ち上がった。
「予定を早める。今夜、塔に入る」
隠れ家がざわめいた。無謀だ、まだ下調べも足りない、と。
「待ちなさい」
制したのは老女だった。
「気持ちはわかる。だがね、旅の人。あんたがここでしくじれば、この隠れ家も終わりだ。わたしらはみんな灰になる。……それでも、行くのかい」
アレンは老女をまっすぐ見返した。
「見捨てれば、俺はあの偽りの英雄たちと同じになる。栄光のために名もなき者を切り捨てた、あいつらと。……それだけは、できない」
老女はしばらくアレンを見つめ、やがて深くうなずいた。
「……いい目だ。わかったよ。抜け道を教えよう。塔の下層へ続く、古い水路がある。もう誰も使っちゃいないがね」
「アレン様」
エレノアが彼のそでをつかんだ。
「わたしも、行きます」
「だめだ。お前はこの街では力を使えない。塔の中はもっとひどいはずだ。感情を吸う術式の真上だぞ。行けば、お前が灰になる」
「それでも」
「エレノア」
アレンは彼女の両肩をつかんだ。強く、だが痛くないように。
「たのむ。ここで待っていてくれ。お前が無事でいてくれること。それが俺のいちばんの力になる」
エレノアは何か言いかけて、唇を噛んだ。言いたいことが、彼女にはあった。ずっと胸にしまってきたこと。愛しているからこそ言えないこと。それをいまこそ告げるべきか迷って、けれど、また、のみこんだ。送り出すいまだからこそ、重い荷を背負わせたくない。そう思ったのかもしれない。
「……必ず。必ず帰ってきてください。あの親子と、いっしょに」
「ああ。約束する」
アレンは彼女の額に、そっと自分の額を寄せた。ほんの束の間、二人は目を閉じた。触れ合った額から、たがいの体温が伝わる。言葉よりたしかな何かが、そのあいだに流れた。もしかしたら、これが最後になるかもしれない。そんな不吉な予感を、二人とも口には出さなかった。
離れぎわ、エレノアは自分の首にかけていた、小さな聖印を外した。そしてそれをアレンの手に握らせた。
「わたしの光のかけらです。今のわたしには、もうたいした力はありません。それでも、塔の中で心が削られそうになったら、これを握ってください」
彼女は精いっぱいの笑みをつくった。
「あなたがあなたでいられるように。……わたしがそばにいなくても、これがわたしの代わりに」
アレンはその小さな温もりを、ぎゅっと握りしめた。手のひらのなかで、それはたしかに脈打つように熱を帯びていた。
夜。アレンはリオの案内で、塔の下層へと続く水路の抜け道に、身を沈めた。冷たい水が腰まで届いた。頭上には、人の心を削る白い塔が、月あかりに青白く浮かんでいる。
――待っていろ。コルム。それに、名もまだない、小さなお前も。
アレンは腰の剣を、ひとつ握りなおした。助けにいく。笑ったことを罪だとされるこの国から、もう一度あの子が、誰にはばかることなく声をあげて笑える、その日のために。
水路は長かった。かび臭い、冷たい闇がどこまでも続く。ときおり頭上から、人々のそろった足音が、地の底までしみてきこえた。生きた人の都の下に、こんな忘れられた暗渠が通っている。まるでこの国の、削り取られた心の行き着く先のように。
アレンは胸もとの聖印を握った。ほのかな温もりが、指先から伝わってくる。エレノアの光のかけら。それだけで、腹の底の迷いが消えていく。
水路の闇の奥へ、泥の勇者はひとり進んでいった。誰にも名を呼ばれぬ親子を、もう一度、光のある場所へ連れ戻すために。背後で見送るリオの顔も、待つと約束したエレノアの震える指も。すべてを胸に刻んで、アレンは冷たい水を掻き分けていく。振り返ることは、もうしなかった。
この国は、悪人でなくとも人を追いつめます。「笑ったことが罪」という理不尽を、赤ん坊という一番弱い存在で突きつけました。エレノアが聖印を託す場面も、後半への布石です。




