第55話 光の涸れる街
塔に近づくほど、白金の光は痩せていく。無力さに涙するエレノアへ、アレンが差し出した言葉。
塔を堕とすには、まず敵を知らねばならない。
翌朝、アレンとエレノアは灰色の旅客を装い、都の中心へ向かった。リオが道案内を買って出た。番号を割り振られたよそ者が都を歩くこと自体は咎められない。ただし、目立てばそれまでだった。
三人は灰色の人波にまぎれた。歩幅をそろえ、うつむき、声を殺す。それだけで息が詰まった。ふつうに生きることを禁じられた街だった。笑うことも、立ち止まって空を見あげることも、ここでは咎めの種になる。
やがて建物の切れ間から、あの白い塔が見えた。まぢかで見あげると、塔は思ったよりもずっと巨大だった。窓はほとんどなく、のっぺりとした白い壁が天へと伸びている。てっぺんは雲にかすんで見えなかった。近づくにつれ、空気がひやりと湿り気を帯び、耳の奥がわずかに痺れていくのがわかった。
塔のまわりには、灰色の人々が列をなしていた。みずから進んで塔へ入っていく者たちだ。誰かに引き立てられたのではない。自分の足で、すっきりしたい、心の重荷を下ろしたい、と願って並んでいる。その列の静けさが、何よりも恐ろしかった。
列に並ぶ者のなかには、老いた者も若い者もいた。まだあどけない子どもの姿もある。母親らしき女が、その小さな手を引いて、無表情のまま塔へと向かっていた。子どもだけが何かを感じ取ったのか、母の手を引き返そうとぐずっている。だが母は振り向きもせず、ただ前へ前へと進んでいく。やがて子どものぐずりも消えた。あきらめたのか、それとももう感じることをやめたのか。小さな背中が、灰色の列にのまれていった。その光景を、周りの誰ひとりとして気に留めなかった。当たり前の朝の景色を眺めるように、人々はただ列の進むのを待っていた。
リオが、見ていられないというように目をそらした。かつて統制隊にいた彼にとって、それは自分がかつて手を貸していたかもしれない光景でもあった。
「……ひどい」
エレノアがかすれた声でつぶやいた。
アレンは彼女を見た。顔が白い。ただの青ざめ方ではなく、唇まで色を失っている。
「エレノア。だいじょうぶか」
「平気、です。少し……めまいが」
彼女はそう言って、ふらりと傾いだ。アレンはとっさにその体を支えた。腕の中の体は、驚くほど軽かった。
この街そのものが、彼女の光を吸っている。塔の近くはとりわけひどく、感情を殺す空気が濃くよどんでいた。人の心のあたたかさを糧とする彼女には、ここは水のない砂漠に等しかった。一歩踏みこむごとに、体の芯から光を汲み出されていくようだった。
リオが小声で告げた。
「塔のまわりには、感情を吸う術式の名残がしみついてるんです。長くいると、ふつうの人でも頭がぼうっとして、だんだんどうでもよくなってくる。気づけば自分から、あの列に並んでる。そういう者も少なくない」
だからこの街の中心には、長くとどまってはならないのだという。
「戻ろう。これ以上は危ない」
「まだ、平気です。もう少し、見ておかないと」
エレノアはアレンの腕を握り、無理に背を伸ばした。強がりだとすぐにわかった。彼女はいつもそうだった。人を守るためなら、自分の痛みを平気で後まわしにする。
――この危うさが、俺はこわい。
アレンは胸の内でそう思った。彼女は聖女で、英雄だ。だがそれ以前に、無理をしすぎるひとりの人だった。そしてその無理を、いつも笑顔の下に隠してしまう。だからこそ、そばで見ている者のほうが、よほど胸を痛めるのだ。
その時、前方の雑踏がざわりと乱れた。灰色の制服の一団が、こちらへ向かって歩いてくる。胸に歯車の紋章。統制隊だった。先頭の隊長らしき男が、鋭い目で人波をなめるように見ている。
「リオ。あれは」
「まずい。定時の巡察だ。……目を伏せて。感情を殺して。心を無に」
リオが早口で囁いた。
アレンはうつむき、息を殺した。エレノアも懸命に無表情をつくった。だが、彼女の青ざめた顔は、灰色のなかであまりに目立った。
統制隊が近づく。ざっ、ざっ、とそろった足音。隊長の視線が人波を一人ずつ確かめていき、やがてエレノアの上でふと止まった。
「そこの、女」
低い声だった。
アレンの心臓が跳ね、手が腰の剣に伸びかけた。だがここで抜けば終わりだ。都じゅうの統制隊が押し寄せる。
エレノアは動かず、ただうつむいている。
「顔色が悪い。……感情の乱れか。それとも病か」
隊長が一歩詰め寄った。
「――旅の疲れです」
答えたのはアレンだった。声を殺し、うつむいたまま、できるかぎり抑揚を消して。
「連れは遠い村から来ました。長い道のりに体をこわして、お見苦しいところを。しばらく休めば治ります」
隊長はしばらく、疑いのこもった目で二人を見ていた。沈黙が長い。アレンの背に汗が伝った。剣を抜くか。抜けば、この街のすべてが敵になる。エレノアはいま光を使えない。守りきれる保証はどこにもなかった。となりで、エレノアの指がわずかに震えているのが、袖ごしに伝わってきた。
やがて隊長は、ふん、と鼻を鳴らした。
「……病人ははやく宿へ戻せ。街中で倒れられては風紀が乱れる。次はない」
そう言い捨てて、統制隊は去っていった。ざっ、ざっ、と足音が遠のく。だが隊長は数歩進んだところで、もう一度肩ごしにこちらを振り返った。ほんの一瞬、値踏みするような視線だった。そして、去った。
――覚えられた。
アレンはそう直感した。あの目は、病人の女とその連れを、決して忘れまい。次に見かければ、今度は見逃されまい。時は、そう多くはなかった。ぐずぐずしていれば、あの隊長の記憶が確信に変わる前に、動かねばならない。アレンは詰めていた息を、そっと吐いた。
宿へ戻る道すがら、エレノアはずっとうつむいていた。
「……ごめんなさい。わたしのせいで」
「謝るな。悪いのは、この国だ」
アレンは短く言った。だが、エレノアの肩は震えていた。
「わたしは英雄と呼ばれてきました。人を守る力をいただいて。それなのにこの国では、立っているだけで精いっぱいで、あなたに庇われてばかり」
彼女の声は涙で濡れていた。
アレンは足を止めた。そして彼女の前にまわり、うつむいた顔をのぞきこんだ。
「エレノア。俺が勇者に戻れたのは、誰のおかげだと思ってる」
「……」
「お前が俺を拾ってくれたからだ。泥にまみれて、栄光を奪われて、誰にも名を呼ばれなくなった俺を、お前だけが見つけてくれた」
アレンは彼女の頬に、そっと手を添えた。
「だから、こんどは俺の番だ。お前が光を使えないなら、俺が剣になる。庇われるのが嫌なら……並んで立て。それでいい」
エレノアの目から、涙がひとすじこぼれた。だが、それは悲しみの涙とはちがって見えた。この灰色の街で、彼女の頬にようやく色がもどっていた。差し出された言葉のひとつひとつが、涸れかけた光に注がれる、ひとしずくの水のようだった。
塔はまだ白くそびえている。心を削るその仕組みは、揺らぎもしない。だが二人のあいだにだけは、この国がいくら奪おうとしても奪えないものが、たしかにあった。灰色の風がどれだけ吹きつけても、消えることのない、ひとつの温もりが。
万能ではない英雄を書きたかった回です。守られてばかりで泣くエレノアに、アレンが「並んで立て、それでいい」と返す。強さの見せ方を、力ではなく関係で描いてみました。




