第53話 名を捨てぬ者たち
地下から漏れる、消え入りそうな歌声。名を捨てなかった者たちとの、はじめての出会い。
番号の都で夜を越すのは、思いのほか難しかった。
宿はあった。だが、そこもやはり灰色だった。番号で部屋を割り振られ、消灯の刻限が来ると、都じゅうの灯がいっせいに落ちる。誰かが決めた時刻に、都のすべてが眠らされるのだ。窓の外には星ひとつ見えず、ただ規則正しい闇だけが街を覆っていた。寝返りの音さえ、はばかられる夜だった。
アレンは暗がりで目を開けていた。となりの寝台からエレノアの寝息が聞こえてくる。だが、それもどこかひそやかで、遠慮がちだった。この国では、寝息すら息をひそめている。
「眠れませんか」
闇の中からエレノアの声がした。彼女も起きていたらしい。
「ああ。……こういう静けさは、どうも性に合わない」
アレンは小さく笑った。戦場の喧騒のほうが、まだ眠れる気がする。あそこには少なくとも、生きて足掻く者の熱があった。この都の静けさには、それがない。あるのは、感情という感情をていねいに削り落とした、冷えた無だけだった。
その時だった。壁の向こうから、かすかな音が届いた。歌だ。とても小さな、消え入りそうな声だったが、まぎれもなく人の歌声だった。
この国で歌うことは罪だ。感情の表出は矯正の対象になる。それを承知のうえで、誰かが闇にまぎれて歌っている。
アレンは寝台を抜け出し、音をたどった。宿の裏手、積み上げた木箱の陰に、ちいさな地下への入り口があった。歌声はそこから漏れていた。用心しながら、軋む段を一段ずつ踏みしめて降りていく。
降りきると、灯りがあった。この国へ来て、はじめて見るあたたかい色の灯りだった。狭い一室に十人ほどの人々が身を寄せている。彼らは番号ではなく、名で呼び合っていた。歌い、ときに涙ぐみ、たがいの肩に手を置いて。灰色の都の地下で、ここだけが人の色をしていた。
若い父親らしき男が、膝の上で幼子をあやしている。その子は地上では決して出してはならない声で、きゃっ、きゃっ、と笑っていた。父親はその笑い声を、宝物のように聞いていた。隅では若い娘が糸をつむぎながら鼻歌をこぼしている。灰色の衣ではなく、ほんの少し藍に染めた布を身につけて。ささやかな、けれど命がけの彩りだった。壁ぎわでは老いた男が、子どもたちに古い物語を低くささやいていた。おそらくは、地上では語ることを許されぬ物語を。
侵入者に気づくと、人々はいっせいに身をこわばらせた。歌が止み、恐怖の目がアレンに向けられる。密告者かと疑うのだろう。
「……騒がないでくれ。敵じゃない」
アレンは両手を上げて見せた。
そこへ奥から、一人の老女が進み出た。背は曲がっているが、目は鋭い。この地下の人々を束ねる者らしかった。
「旅の人だね。番号を割り振られた、よそ者。……なぜ、ここへ」
「歌が聞こえた。それだけだ」
老女はしばらく彼を見つめ、やがてふっと肩の力を抜いた。
「歌なんぞを追って、わざわざ暗い地下へ降りてくるよそ者は、密告者にはいないよ。あいつらはね、歌を聞くと耳をふさぐのさ。聞かなかったことにするために。あんたは逆だ。聞いて、こっちへ来た。心がまだ灰になっていない証拠だよ」
この国で見た、はじめての大人の笑みだった。皺の奥で、目もとがやわらかくほどけている。
「わたしらは、名を捨てなかった者だよ」
老女はそう名乗った。
「この国では名が禁じられ、感情も禁じられる。だがね、人から名と心を奪って、それで残るものが、はたして人と呼べるかい。わたしにも昔は名があってね。母がつけてくれた名が。……もう、口に出すのもひさしぶりさ。忘れてしまいそうで、こうしてたまに、声に出すのさ」
老女はそっと目を閉じ、誰にも聞こえぬほどの声で、自分の名をつぶやいた。それは祈りのように、あるいは失うまいと必死につかむ手のように聞こえた。
聞けば、かつてこの国にも名があり、歌があり、祭りがあったという。それを根こそぎ奪ったのが、今の大統制官だった。
「あのお方は言うのさ。突出が英雄を生み、英雄がいつか国を焼く、とね。だから誰も突出させない。誰も光らせない。みんな同じ灰色に。それが平和だと。……はじめのうちは誰も逆らわなかった。むしろ、ほっとしたのさ。競わなくていい、抜きん出なくていい、誰かに勝たなくていい。疲れた人ほど、灰色は心地よかった」
老女の声が、ふと沈んだ。
「けどね、楽なものには必ず値がつく。気づいた時には、子どもが笑わなくなり、歌を知らない世代が育ち、名を聞いても誰も振り向かなくなっていた。……そうなってからでは、もう遅いのさ。何を失ったのかを覚えている者すら、いなくなるんだから」
しわだらけの手が、かたく握られる。
「わたしらは灰色になりたくない。歌いたい、笑いたい、名で呼ばれたい。……それだけのことなんだよ」
その言葉に、地下の人々が静かにうなずいた。誰も大きな声はあげない。ただ目と目で、願いをたしかめ合うように。玉座もいらない、栄光もいらない。ただ名で呼ばれ、笑い、歌う。それがこの国では、命がけの贅沢だった。
アレンは拳を握った。胸の底が熱くなるのを感じた。かつて自分も名を奪われ、泥にまみれた身だ。名で呼ばれることのありがたさを、誰よりも知っている。
偽りの栄光を剥ぎ取る旅だった。だが、ここには栄光すらない。あるのは、灰色の平和という名の、緩やかな死だ。それでもこの地下には、まだ火があった。消されまいと身を寄せて守られてきた、小さな火が。奪われ、削られ、それでも消えずに残った、人という名の熾火だった。
「――手を、貸そう」
言ってから、自分でも驚いた。もう迷いはなかった。
エレノアがいつのまにか階段の途中に立って、そんな彼をやわらかな目で見ていた。彼女は何も言わない。ただその眼差しが、あなたならそう言うと思っていた、と告げていた。やがて階段を降りきると、アレンのとなりに並び、地下の人々に向けてそっと右手をかざした。
手のひらから、ほのかな白金の光がこぼれる。あたたかく、やわらかい聖光だった。灰色の都に来てから、彼女の光は痩せ、鈍っていた。感情を殺す土地で、感情を糧とする力は、日ごとに細っていく。それでもいま、人々の消えかけた火を見て、その光はふたたびほのかに息を吹き返していた。
「――あなたたちの火が、わたしの光を灯してくれました」
エレノアの声は震えていた。
「だから、こんどはわたしたちが、あなたたちの火を守ります」
アレンは彼女を見た。灰色の都で色を失いかけていた白金の英雄。その頬に、ほんの少し赤みが戻っていた。
――守るのは、この国の人々だけじゃない。この隣にいる、ひとりの笑顔も、俺が守る。
口には出さなかった。この国では、想いを声にすることさえ危うい。だがエレノアは、まるで聞こえたかのようにこちらを見て、ふわりと微笑んだ。言葉にせずとも伝わるものが、たしかに二人のあいだにはあった。
灰色の都の地下で、消えかけた火に、ひとつ薪がくべられた。その火がいつかこの国ぜんぶをあたためる日が来るのか、それとも風に吹き消されて終わるのか。まだ誰にもわからない。ただ、火はたしかに燃えていた。そして今夜、その火を見守る者が、二人ぶん増えたのだった。
どんな国にも、消されまいと守られてきた小さな火があります。老女マレンの「名で呼ばれたい、それだけのことなんだよ」という一言に、この物語のぜんぶを込めました。




