第52話 番号の都
名を捨て、感情を禁じられた「番号の都」。笑っただけで矯正塔へ連れていかれる、静かすぎる国の正体とは。
難民の忠告を承知のうえで、二人は灰色の壁の門をくぐった。
入国の審査は、奇妙なものだった。役人は二人を見ても、顔色ひとつ変えない。名を聞かれて答えると、その名は記録もされず、かわりに鉄の札が一枚ずつ渡された。
「本日よりあなたがたは、旅客番号四七二九、および四七三〇です。滞在中はこの番号で呼ばれます。名の使用は禁じます。名は個を生み、個は乱れを生む」
暗記した経文のような口ぶりだった。この役人自身も、名を持たぬまま番号で生きてきたのだろう。
「感情の表出も禁じます。大声、笑い、泣き声。すべて風紀を乱す行為です。お守りいただけない場合は、矯正の対象となります」
抑揚のない、機械のような声だった。エレノアがそっとアレンを見る。アレンは小さくうなずいた。逆らうな、まずは中を見る、と。
役人の背後の壁には、番号を書きこむ帳簿が、天井まで積み上がっていた。人ひとりの一生が、名ではなく数字の列で綴じられていく。ここでは人が、生まれてから死ぬまで、ただの通し番号でしかないのだと、その光景が語っていた。
鉄の札を握り、二人は門の内側へ足を踏み入れた。
そこは、噂に違わぬ――いや、噂以上の、灰色の世界だった。
空気までが灰色に感じられた。物売りの声も、子どもの泣き声も、犬の吠える声もない。都市というものが当然持っているはずの生活の雑音が、そっくり抜け落ちている。聞こえるのは、無数の足音がそろって石畳を打つ音だけ。ざっ、ざっ、と。まるで巨大な一つの機械が唸っているようだった。
整然と区画された街路に、同じ形の同じ高さの建物がどこまでも続く。行き交う人々はみな同じ灰色の衣をまとい、歩く速さまでそろっていた。誰もしゃべらず、誰も笑わず、誰も立ち止まらない。子どもさえ広場で遊ぶでもなく、大人と同じ足取りで黙々と歩いていた。
窓辺に花を飾る家もなければ、軒先に洗濯物のはためく家もない。色というものが、この都からは徹底して排されていた。赤も青も、誰かの好みを示してしまう。好みは個を生み、個は乱れを生む。だからここには、灰色以外の色が、ひとつもなかった。
美しいと言えば、美しかった。争いも乱れもなく、すべてがあるべき場所に収まっている。だが。
「……墓場みたいですね」
エレノアが声を殺してつぶやいた。
「ああ。生きているはずなのに、誰も生きていない」
その時、街路の一角で小さな騒ぎが起きた。
一人の若い男が、突然、天を仰いで笑いだしたのだ。何がおかしいのか、ただけたけたと、抑えきれないというように。
周囲の灰色の人々が、びくりと足を止めた。だが誰も、その男に近づかない。かかわりを恐れるように、そっと距離を取る。
やがて、どこからともなく灰色の制服の一団が、足音すら抑えて現れた。胸には歯車の紋章。大統制官の手の者――統制隊だ。その動きに無駄はひとつもなかった。この事態を何百回も繰り返してきたかのように、彼らは笑う男を取り囲み、無言で拘束する。感情の乱れは、この国では火事や疫病と同じ。素早く確実に鎮圧すべき異常事態なのだった。
男は抵抗しなかった。ただ笑いながら、連れていかれる。その笑い声だけが、しんと静まった街路に、いつまでも尾を引いて響いた。
「どこへ……連れていくんだ」
アレンがそばの老人に、小声で問うた。老人は話しかけられただけで、びくりと肩を震わせる。旅人と口をきくことすら危ういのだ。それでもうつむいたまま、消え入るような声で答えた。
「矯正塔。……感情を乱した者が送られる場所です。戻ってきた者は、二度と笑いません。二度と泣きません。完全な番号になって、帰ってきます」
その声には、恐怖すらなかった。恐怖もまた、感情だからだ。ただ、決められた事実を読み上げるような、乾いた響きだけがあった。
それだけ言うと、老人はもう二度と口を開かなかった。たった今しゃべったことすらなかったことにしたいように、足早に灰色の群れへまぎれて消えた。
エレノアが、遠くを見あげた。
都の中心、灰色の建物の屋根のはるか上に、一本だけ突き出た白い塔があった。窓のほとんどない、のっぺりとした円柱。それが矯正塔だと、聞かずともわかった。
人の突出は許さぬくせに、人を均すためのその仕組みだけが、天を指してそびえている。皮肉な眺めだった。
塔の壁面には、爪でひっかいたような細い傷が、無数に走っていた。遠目にもわかる。かつてそこへ送られた者たちが、灰色に塗りつぶされる寸前、せめて自分がここにいたと刻もうとした跡なのかもしれなかった。
「アレン様。あの塔から……人の気配がしません」
エレノアの声が、かすかに震えた。
「あんなに大きくて、中にたくさんの人がいるはずなのに。まるで、抜け殻のよう」
聖光を宿す彼女には、人の生きた気配がほのかに見える。その彼女が、あの塔からは何も感じないと言う。生きてそこにいるのに、生きているしるしを根こそぎ抜き取られた者たち。
アレンの拳が、握られた。
笑っただけだ。ただ笑った、それだけで、この国は人から心を削り取る。
「……これが理想の国か」
声が、低くなった。
英雄信仰の国は、光にすがりすぎて腐った。この国はその逆の極だ。人が光ること――ほんの少しでも他人より突出すること、それ自体を罪とした。笑う者、歌う者、誰かを恋う者、人より賢い者、人より強い者。そうした「揃わない」ものを片端から灰色に塗りつぶし、均していく。そしてそれを平和と呼び、理想と誇る。
突出こそが英雄を生み、英雄がいつか国を傾ける。だからその芽を、生まれた瞬間に摘む。恐ろしいほど筋の通った掟だった。だからこそ、たちが悪い。
「アレン様。あまり目立っては」
エレノアが囁く。だが、遅かった。
旅人にしては鋭すぎる、二人の身のこなし。灰色の制服の一人がふと振り返り、じっとこちらを見ていた。突出は罪。この都でいちばん目立ってはいけない二人が、よりにもよって、いちばん目立つ力を隠し持っている。
アレンは目を伏せ、気配を殺した。だが、いちど向けられた視線は、すぐには逸れなかった。
これまで数えきれぬ敵と対してきた。剣を抜く敵、呪いを放つ敵、偽りの栄光に酔った英雄たち。どれも顔のある敵だった。憎むことも、哀れむこともできた。
この国の敵には、顔がない。役人も、統制隊も、道ゆく人々も、みな自分の意思で灰色になったわけではない。生まれたときからそうしつけられ、そう削られ、それを平和だと信じこまされて生きている。斬るべき悪人がいない。それでいて、まぎれもなく人が殺されていた。心を、殺されていた。
力で殴り倒せる敵なら、まだいい。だがここでは、灰色の空気そのものが敵だった。じわじわと人から人らしさを削り取っていく、静かな敵。
だが、とアレンは思う。あの若い男は、笑った。禁じられ、削られ、番号にされてなお、心のどこかで笑いがこみ上げた。ならば、この灰色の底にも、まだ火は残っている。消されまいと、息をひそめている火が。
番号の都で、泥の勇者と白金の英雄の、新しい戦いが始まろうとしていた。剣では断てない。人から名と心を奪う、鉄の仕組みを相手に。
剣で斬れる敵のほうが、まだ楽なんです。この国の敵は、灰色の空気そのもの。じわじわと人から人らしさを削っていく、静かな敵を、どう描くか。書いていていちばん怖かった回でした。




