第51話 旅の空
魔王を倒したその先へ。二人の新しい旅が始まります。西の果てで待っていたのは、笑わない、灰色の人々でした。
王都を出て、幾日が過ぎただろう。二人の旅は、拍子抜けするほど穏やかだった。
街道を歩き、野で火を焚き、星の下で眠る。急ぐ理由も、行く先を決める必要もない。ただ足の向くまま、西へ西へと歩いた。
途中の村で、アレンはあいかわらず名もなき武具を拾った。壊れた鎌。錆びた鉈。使い手を亡くした農具や猟具。誰も見向きもしない鉄くずに触れ、その来歴を汲み、弔い、そうして己の内へと束ねていく。
「相変わらずですね。もう、戦う相手もいないのに」
エレノアが笑った。
「癖だ」
拾った鎌を光へ変えながら、アレンは短く答えた。
「それに、誰かが覚えていないと、こいつらは二度死ぬ。一度は体が。もう一度は、忘れられて。……せめて俺が覚えておく。それだけの話だ」
その不器用な優しさこそが、かつてごみだめの隅で名もなく朽ちかけた自分を拾い上げてくれたのだと、エレノアは改めて思う。胸の奥が、じんと温かくなった。
風は柔らかく、麦の穂が金色に波打っていた。魔物の咆哮も、追手の足音も、もうどこにもない。ただ二人分の足音と、たまに交わす言葉だけが、街道に落ちていく。
道中、二人は少しずつ、これからのことを話した。どこか小さな村に腰を落ち着けるのもいい。畑を耕して、誰も二人を勇者だ英雄だと知らない土地で暮らすのだ。いつか、家族を持つのも悪くない。そんなささやかな夢を、旅の空の下で数えあった。
「変な感じです」
道端の花を摘みながら、エレノアがつぶやいた。
「ずっと、あなたを探して生きてきました。見つけたら、次はあなたのために戦ってきた。……なのにいまは、こんなにのんびり歩いている。手持ち無沙汰なくらい」
「悪いか」
「まさか」
摘んだ花をアレンの胸に挿して、彼女は笑う。
「夢みたいなんです。ただあなたの隣を歩くだけの、こんな日が来るなんて。……罰が当たりそう」
アレンはぶっきらぼうに鼻を鳴らした。だが、その口元はほどけている。このなんでもない道中こそ、四年、いや十数年、二人がたどり着きたかった場所だった。
だが、西へ進むにつれて、景色が少しずつ変わっていった。
すれ違う人々の顔から、表情が消えていくのだ。
はじめは気のせいかと思った。違った。村を越え、町を越えるごとに、人々は笑わなくなり、無駄口を叩かなくなり、ただうつむいて、決められた道を黙々と歩くようになる。子どもさえ、はしゃがない。感情という感情を、どこか国境の向こうへ置き忘れてきたようだった。
市場では値切りの声ひとつ上がらず、井戸端に立ち話の輪もない。すれ違う者は皆、判で押したように同じ歩幅で、同じ方向へ流れていく。誰かとぶつかっても、詫びも舌打ちもない。ただ黙って、また歩きだす。
その無音の街並みは、魔物に襲われた廃墟よりも、よほど不気味だった。人が大勢いるのに、誰ひとり生きていないように見える。
「……変ですね。みんな生きているのに、生きている気配がしない」
エレノアの声も硬かった。
やがて二人は、大きな川に行き当たった。
その対岸に、灰色の壁がそびえていた。地平線の端から端まで、途切れることなく続いている。石でも木でもない。定規で引いたような、継ぎ目のない、冷たい鉄の壁。人の温もりをいっさい寄せつけない、無機質な代物だった。
あまりに均質なその姿に、アレンはぞっとした。自然にはありえない真っ直ぐさ。人の手が、不揃いというものを徹底して許さなかった証だ。
壁の手前には、粗末な天幕の群れがあった。難民たちだ。みな痩せて疲れきっている。それでもその顔には、飢えの苦しみとは別の、安堵と怯えの入り混じった奇妙な色が浮かんでいた。
壁のこちら側には、まだ人がいる。恐怖も、疲れも、我が子を思う愛も。ちゃんと、人の顔があった。
「あんたら、見ない顔だ。旅の者か」
天幕の一人が、二人の身なりを見て掠れた声をかけてきた。よそ者を警戒する目だ。だがその奥に、かすかにすがるような色もあった。
「悪いことは言わん。あの壁の向こうへは、行くな。グラン帝国は、人の国じゃない。灰色の地獄だ」
「グラン帝国、か」
その名を噛みしめるように、アレンは口にした。
「聞いたことはある。旅の噂で。英雄も王もいない。誰もが完全に平等に、番号で管理される鉄の国。だから争いも飢えも格差もない。この大陸で唯一の、理想の国だと」
故郷とは正反対だった。あちらは光る英雄にすがる国。こちらは、英雄という光そのものを認めない国だ。
「理想?」
難民の男が、乾いた声で笑った。
「そうさ。争いも飢えもない。行き倒れも盗みもない。……そのかわり、笑いも涙も歌もない。あの国じゃあ、少しでも突出した者は消される。頭のいい者も、力の強い者も、感情を表に出す者もだ。恋も夢も身勝手だと禁じられてる。みんな生まれたときから番号で呼ばれて、名前すらない。……俺たちはそこから逃げてきた。番号じゃなく、人間でいたくてな」
周りの難民たちが、うつむいてうなずく。飢えてでもこちら側で、人間として死にたい。そういう顔だった。
男は震える手で、我が子を抱きしめた。
「だが逃げても、行き場はない。故郷は帝国に飲まれた。ここでこうして、朽ちるのを待つだけだ」
男の腕の中で、赤子がぐずって声をあげた。母親らしき女が、慌ててその口を手でふさぐ。ここではもう、泣くことさえ、身についた恐れになっているらしい。だが、それでも赤子は泣き、母は我が子を抱きしめた。壁の向こうでは許されない、その当たり前の営みが、この天幕の下にはまだ残っていた。
アレンは、灰色の壁を見上げた。
英雄信仰の国は、光にすがりすぎて腐った。この国は逆だ。突出した個を、英雄を恐れるあまり、人から感情も名も奪い、灰色の歯車に変えている。
同じ病の、裏と表だった。すがりすぎて腐る国と、恐れて殺しすぎて凍る国。どちらも人に、人でいることをやめさせる。片方は考えることを、もう片方は感じることを。行き着く先は、同じ灰色だ。
放っておけばいい。もう自分たちは旅人だ。この国のしがらみはない。素通りして、次の土地へ行けばいい。
頭ではそう思う。だが、我が子を抱く男の手の震えが、目に焼きついて離れなかった。人間でいたい。ただそれだけを願って逃げてきた者たちの、震えが。
「……エレノア」
「はい」
「厄介ごとの匂いがする」
アレンは苦笑した。せっかくの穏やかな旅だ。素通りするべきだと、頭では分かっている。
「やめておいたほうが、いいですか」
問うエレノアの声は、もう答えを知っている口ぶりだった。
「無理だな、俺には」
もう一度、灰色の壁を見上げる。
「切り捨てられた側の痛みを、知ってる。番号にされて、感情まで奪われた連中を、見なかったことにはできん。……悪いな。畑を耕すのは、もう少し先になりそうだ」
「いいえ」
エレノアが、その腕にそっと手を添えた。
「そういうあなたが、私は好きなんです。どこまでも、お供します」
旅の空の下、二人の前に、新しい闇が灰色にそびえていた。前の国とは正反対の、けれど根は同じ闇。人から名を、感情を奪う、鉄の国が。
第二部の幕開けです。前の国が「英雄にすがりすぎて腐った国」なら、今度はその真逆。英雄を恐れるあまり、心そのものを捨ててしまった国を描きます。同じ痛みから、まるで逆の道へ進んだ国。アレンたちが何と戦うのか、ゆっくり見せていきます。




