第50話 泥と白金の、その先へ
第50話。第一部・完。魔王が消えて半年。国は、英雄のいらない国へ。
そして、泥の勇者と白金の英雄は、二人の旅へ発ちます。
魔王が光となって消えて、半年ほどが過ぎた。
王都は少しずつ、けれど確かに変わっていた。
空位の玉座は、そのまま空けておかれた。誰もそこに座らせなかった。かわりに評議会が国を動かしている。貴族も、平民も、商人も、職人も、目を覚ました役人も。いろいろな立場の者が同じ卓を囲み、額を突き合わせ、喧嘩をし、迷いながら、一つずつ決めていく。面倒で、遅い。ときに間違える。だが、もう誰か一人の光に丸ごと委ねる国ではなくなった。それが、いちばんの変化だった。
英雄を大々的に讃える、あの絢爛な祭りは消えた。ヴェルナーの絵筆も、もうない。かわりに市場には、これまでにない活気があふれていた。民はもう、空から降ってくる都合のいい光を口を開けて待たない。自分の手でパンを焼き、店を開き、隣人と助け合い、明日を少しずつ自分たちで作っている。地味だが、確かな営みだった。
北の災厄の話は、やがて伝説になった。だが、その伝説は、これまでのどんな英雄譚とも違っていた。
たった一人の選ばれた英雄が魔王を倒した――そういう都合のいい物語ではない。国じゅうの名もなき者たちが、一人残らず顔を上げ、諦めずに力を束ねて、魔王を退けた。そういう物語として語り継がれていく。子どもたちはその話を聞いて、こう思うだろう。ならば、自分にもできるかもしれない、と。
仲間たちは、それぞれの道を歩んでいた。
レオンは、体の弱い妹ミラと、南の辺境でひっそりと暮らしている。療養にいい土地だという。ときどき評議会に知恵を貸しに来た。あくまで凡人としての意見だが、と律儀に前置きしながら。魔導の才を失ったその顔は、あの塔の底で鎖に繋がれていた頃より、ずっと人間らしく穏やかだった。
クラリスは、あの地下の納骨堂に眠る名もなき者たちに、最後のたった一人まで、その名を刻み終えた。いまは身寄りのない子どもたちのための小さな家を開いている。かつてのように価値で救う者を選ぶのではなく、分け隔てなく、どの子にも、あの母のように優しい手を差し伸べて。かつて、自分がされたかった、そのやり方で。
ユリウスは、評議会の下働きからこつこつと始めた。偽物の英雄だったあの青年は、いまは誰かになりすますのをやめ、ただ一人のユリウスとして地道に働いている。その足取りは、あの白銀の鎧の重さに夜な夜なうなされていた頃より、はるかに軽やかだった。
だが、すべての者が立ち直れたわけではなかった。
ボルド。あの決戦の前夜、衛兵の巡回をひそかに書き送ってきた男。その一度の働きが、彼の精一杯の償いだった。だが、それきりだった。
風の噂で、アレンは知った。ボルドはあのあと、酒に溺れ、都の場末で野垂れ死んだ、と。誰にも看取られず。地竜の前で逃げ出した男を、民はついに赦さなかった。ボルド自身も、ラウルから奪った死を、見捨てた子を、その罪を、生きているかぎり忘れられなかった。一度の善意では贖いきれぬものが、確かにあった。
アレンはその報せに、しばらく黙りこんだ。昔のおまえは確かに勇敢だった。だが、俺にはおまえを救えなかった。
理解はできた。憎みもしなかった。だが、それと救えることは別だった。差し伸べた手を握れる者ばかりではない。理解しても、償おうとしても、もう取り返せないものが、この世には確かにある。ボルドが、それだった。クラリスに枯らされた、あの娘たちも。門前で死んだ、あの赤子も。もう、決して帰ってはこない。
その苦い事実を、アレンは忘れないと決めた。切り捨てなかった者たちの明るさに酔わないために。世界は、そんなに優しくはない。
それでも、救える者は救う。立てる者には、立ってもらう。ボルドを救えなかった悔いも抱えたまま、多くの者がそれぞれの場所で、自分の足で歩きはじめていた。かつてアレンを無造作に切り捨てた国とは、少しずつ違う国へと。
もちろん、理想郷ではなかった。とんでもない。
評議会は、毎日のように揉めた。つい先日も、飢えた辺境へ麦を回すか、都の商人を優先するかで、貴族と平民の代表が卓を叩いて怒鳴り合った。結論は出ず、三日の持ち越しになった。旧王家派の貴族の一部は、いまだに、平民ごときと同じ卓に着けるかと評議会をボイコットしている。地方では、勝手に税を上げる領主も出た。
先月、評議会が初めて独自に決めた治水の策は、見事に失敗した。予算を見誤り、堤は半分も築けず、雨季に村がひとつ水に浸かった。誰かに委ねていれば起きなかった失敗かもしれない。
だが、とアレンは思う。それでもいい。誰か一人の英雄に丸投げして、うまくいっているふりをするより。自分たちで揉めて、失敗して、頭を下げて、やり直す。そのほうが、ずっとまともだ。生きている国の姿だった。傷だらけで、不格好で、それでも転びながら前へ進もうとする、国の。
そして、アレンとエレノアは、約束どおり旅の支度をしていた。
春めいた王都の外れ。二人は小さな荷を背負って、並んで立っていた。もう、勇者のいかめしい礼装も、英雄の白銀の甲冑も着ていない。どこにでもいる、ただの旅人の質素な身なりで。それが、不思議といちばん二人らしかった。
「にいちゃん。……本当に、行っちゃうの?」
見送りに来た、あの地竜から救われた男の子が、すっかり背も伸びて、それでも寂しそうに袖を引いた。
「ああ」
アレンは、その頭をぽんと叩いた。かつて、ごみだめの幼いエレノアにそうしたように。このたった一つの仕草が、いつかこの子の支えになるかもしれない。そんなことを思いながら。
「この国はもう、俺たちがいなくても大丈夫だ。おまえたちがいる。評議会も、レオンも、クラリスも、ユリウスも。……何より、おまえみたいに、自分の足で立つと決めた奴が、大勢いる。英雄なんて、もういらないんだ。一人ひとりが、転んでもまた起き上がれるなら。それが、いちばん強い国だ」
子どもはぐすっと鼻をすすって、それから涙を腕でぐいと拭い、大きくうなずいた。
「うん。……俺、立つよ。自分の足で。にいちゃんがいなくても。……いってらっしゃい!」
「ああ。行ってくる。……達者でな」
もう、拝みはしなかった。ただ、まっすぐな笑顔で送り出す。それが、この国の新しい別れのかたちだった。
二人は、朝日の中をゆっくりと歩き出した。
行く先は、あえて決めていなかった。まだ見ぬ世界のどこか。名もなき武具が、名もなき人が、誰にも顧みられず、忘れられたまま眠っている、どこか。それを一つずつ拾い、弔い、束ねながら。急がず、二人で、のんびりと。それは旅というより、二人のこれからの暮らしそのものだった。
「なあ、エレノア」
歩きながら、アレンは言った。
「四年前……いや、もっとずっと前だ。あのスラムのごみだめで震えてた、名もない子どもに外套をかけたとき。俺はまさか、その相手と十数年も経って、こうして手を繋いで、二人で旅に出ることになるとはな。……人生ってのは、分からんもんだ」
「私はずっと」
エレノアが、はにかむように微笑んだ。左手の銀の環を、春の日にかざして。
「あのときからずっと、ずっと、この日を夢見ていました。あなたを見つけて、その隣を、誰に憚ることもなく、堂々と歩ける日を。……十数年、かかりましたけど。ようやく叶いました。夢が」
二人はどちらからともなく手を繋いだ。泥をくぐり抜けた元勇者の、傷だらけの手と。白金の英雄と呼ばれた女の手が。
もうそこには、崇める者と崇められる者の隔たりはなかった。救った者と救われた者の上下もなかった。ただ対等に隣り合った、二人の飾らない人間がいるだけだった。互いを選び合った二人が。
空はどこまでも高く、青かった。数百年、この国を覆い続けていた、あの影は、もうどこにもない。
この国の偽りを剥ぎ取る旅は、終わった。栄光も、名誉も、闇も、何もかも剥ぎ取った、その先に。残ったのは、飾りのない二人と、まっさらな明日だけ。
泥の勇者と、白金の英雄。二人の本当の物語は、ここから静かに始まる。誰にも看取られず、誰にも崇められず。それでも、確かな幸せの中で。
二人の背を、暖かな春の風が、そっと押した。まだ見ぬ世界のほうへ。
だが、その風の中に、エレノアは、ふと、遠い冷たいものを感じて、足を止めた。
西の、はるか彼方。誰かの誇りが、音もなく薄れていくような。名もなき者たちの成したことが、雪に埋もれるように消えてしまう――そんな、かすかな気配だった。人の栄光を啜り、名もなき者の成したことを忘れさせる、冷たい気配。
「……アレン様。どうか、しました?」
「いや」
彼女は微笑んで、首を振った。気のせいだと、自分に言い聞かせて。
この国を覆っていた影は晴れた。けれど、世界はこの国だけではない。偽りの栄光が、名もなき者を踏みにじる場所は、まだどこかにあるのだろう。その冷たい気配の根は、遠い西の荒野で、じっと二人を待っている。まだ、誰も知らぬまま。
エレノアは振り返らなかった。冷たい風の正体も、忘れられた西の地のことも、まだ知らないまま。
世界がお前を偽物と呼んでも、私が知っている――その傷のすべてが、本物だと。
かつて、白金の英雄が泥の底の男に捧げた、その言葉を胸に。二人は手を繋ぎ、あたらしい地平へと歩きだした。
――泥の勇者と白金の英雄の物語は、ここに、大きな、ひと区切り。だが、収集奇譚は、まだ、終わらない。
(第一部 完)
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。全50話、第一部の完結です。二人の旅は、第51話からの第二部へと続きます。
残ったのは、自分の足で立つと決めた、名もなき者たちの国でした。ただ、すべてが救われたわけでは、ありません。ボルドは、一度の償いのあとも立ち直れず、赦されぬまま、場末で果てました。クラリスに枯らされた娘たちも、門前で死んだ赤子も、もう帰らない。理解しても救えない、償っても取り返せないものが、確かにある――その苦さも、残しました。それでも、救える者は救い、立てる者は立つ。傷だらけの新しい国は、揉め、失敗しながら、それでも前へ進みはじめています。
崇める者と崇められる者ではなく、対等に隣り合った二人。飾りのない、本物の幸せを握りしめて。「その傷のすべてが、本物だ」――最初のキャッチコピーに、物語を還して、幕としました。
長いあいだ、二人の旅にお付き合いくださり、ありがとうございました。第二部でも、どうかよろしくお願いします。




