第49話 絶望の終わり
第49話。数百年の災厄が、諦めない意志の光に、還っていきます。
二人で振り下ろした光の刃が、数百年脈打ってきた絶望の核を、深々と貫いた、その瞬間。
魔王が悲鳴をあげた。
これまでの、大地を揺るがす咆哮とはまったく違った。それは恐怖と、そしてなぜか安堵の混じったような奇妙な声だった。
束ねられた無数の意志の光が、核の内側からあふれ、魔王の全身を満たしていく。山のようだった黒い巨躯が、内側からじわじわと白く光りはじめた。
いくら斬っても湧いてきた、あの分体とは違う。今度は湧いてこない。絶望そのものが光に書き換えられていくのだから。初代の遺した、その理のとおりに。魔王は生まれて初めて、本当の意味で削られ、そして満たされていった。
絶望が、諦めない意志に上書きされていく。数百年うずくまってきた者たちの澱が、いま顔を上げた者たちの光に塗り替えられていく。
消えゆく魔王の無数の眼が、刃を突き立てたアレンとエレノアをじっと見た。
その無数の眼に宿っていたのは、もう、あれほどの憎しみでも破壊の衝動でもなかった。ただ、底の見えない、深い、深い悲しみ。長く苦しみ続けた者の、疲れきったまなざしだった。
そうか。おまえたちは、最後まで。諦めなかったのか。この絶望の前で、なお。
声なき声が、聞こえた気がした。
我は、この国の幾百年の諦めが生んだもの。すがるしかなかった、弱き者たちの流した涙の澱だ。ずっと待っていた。誰かが諦めない光を、この国じゅうから集めてくれる日を。うずくまるのを、やめてくれる日を。我を終わらせてくれる、その日を。
その言葉に、アレンは胸を突かれた。魔王とは、倒すべき外の敵ではなかった。この国の民の心の、いちばん暗い部分が凝ったもの。だからこそ剣では滅ぼせなかったのだ。斬れば斬るほど、絶望はまた湧いた。当たり前だった。それは人の心そのものだったのだから。
魔王すら、囚われていた。ボルドが虚名に、クラリスが痛みに、ヴェルナーが恐怖に囚われていたように。魔王は絶望そのものに生まれ、絶望を食らい、絶望であり続けるほかなかった。その、数百年の長い長い苦しみから。この災厄もまた、いま、ようやく解放されようとしていた。囚われた者が最後にようやく、その檻から出ていくように。
白い光が、優しく魔王の巨躯を包みこんでいく。
黒い澱は次々と白い光の粒に変わり、音もなく宙へ昇っていく。その光景は、まるで、長く地にうずくまっていた無数の者たちが、ようやく顔を上げ、一つずつ立ち上がっていくかのようだった。諦めから解き放たれて。
数百年、この国を脅かしてきた災厄が。憎むべき闇が。いま、悲しく、そしてどこか救われたように消えていく。
最後に、魔王のいちばん大きな金色の眼が、かすかに細められた。長い、長い苦しみから、ようやく解き放たれた者のように。数百年、絶望であり続けるほかなかった者が、生まれて初めて絶望でなくなる。それは確かに、笑ったように見えた。
ありがとう。……終わらせてくれて。後の世の勇者よ。
その最後の声を残して、数百年の災厄は完全に白い光に還り、消えた。跡形もなく。
北の空を数百年、重く覆っていた紫の瘴気が、嘘のように晴れていく。ちぎれ、薄れ、青へと変わっていく。
その光を、後方で仲間たちが見上げていた。
レオンが地に尻をついたまま、天を仰いでいた。計算では決してたどり着けなかった結末を、まぶしそうに。クラリスは両手で口を覆い、声もなく涙をこぼしていた。選ばれなかった者たちの力が、世界を救う。その光景が、彼女の長年の理屈を根こそぎ洗い流していく。ユリウスは剣を杖にしてへたりこみ、それでも笑っていた。志願した民たちが、傷だらけの体を抱き合って勝ち鬨をあげる。
誰も、アレンとエレノアを拝みはしなかった。ただ、こぶしを突き上げ、自分たちが勝ったのだと天へ叫んでいた。それが、何よりの答えだった。
数百年ぶりに、この北の地に、澄んだ青空が戻った。枯れていた大地のひび割れから、小さな緑の芽が顔を出す。どこからか、鳥の鳴く声が聞こえた。この地に久しくなかった音。風に、土と若草の匂いが混じる。絶えていた生命の気配が、一つずつ、この荒野に帰ってくる。
絶望は、終わった。数百年、この国を根っこで蝕んでいた、いちばん深い闇は、もうどこにもない。空は、こんなにも青かったのだ。誰もその青さを、長いあいだ忘れていた。
そして、祭壇の朽ちた鎧が、淡く光った。
初代勇者の魂。数百年、たった一人でこの極寒の地の底に魔王を押さえ続けた、その途方もない意志。それがいま、ついに長い長い役目を終えて、縛めから解かれ、光となって天へ昇っていく。
よくぞ、成し遂げた。
初代の声が、聞こえた気がした。数百年ぶんの孤独から解き放たれた、穏やかな声。
我には、できなかった。あの時代の民の意志を集めきれず、この身を核にして封じるしかなかった。数百年、待つしかなかった。だがお前は、名もなき者たちを切り捨てず、一人ひとりを弔い、拾い、束ねた。その地道な生き方が。だから成せたのだ。……この国を、頼む。もう、封印も、偽りの英雄信仰もいらぬ国を。民が、自分の足で立つ国を。
朽ちた鎧が砂のように崩れ、光の粒となって消えていく。数百年、この地に囚われ続けた伝説の勇者が、ようやく安らぎへと旅立っていった。
アレンは、天へ昇るその光を見送りながら、深く頭を垂れた。
「……もう、ゆっくり休んでくれ。数百年、ご苦労だった。あんたの分まで、この国は俺たちが守る。……いや。俺たちが、じゃない。民、一人ひとりが、な。英雄なんかに頼らずに」
すべてが終わったあと、長い戦いのそのあと、北の地に静寂が戻った。澄んだ青空の下、アレンとエレノアは傷だらけの体で、その場にへたりこんだ。
もう、指一本動かす力も残っていなかった。全身傷だらけで、血も流しすぎた。だが、二人とも確かに息をしていた。生きていた。あの前夜に交わした約束を、ちゃんと守れたのだ。
二人のあいだに、しばらく言葉はなかった。ただ、遠くで芽吹きはじめた大地の匂いと、戻ってきた鳥の声だけが、静かに二人を包んでいた。
「……終わったのですね。本当に。何もかも」
「ああ。今度こそ、本当にな。……もう、奪い返すものも、剥ぎ取る偽りも、封じる闇も、何も残っちゃいない」
アレンは、久しぶりの青い空を見上げた。数百年、この国を縛ってきた偽りの英雄も。それを造り続けた男も。すべての闇を封じてきた魔王も。数百年、孤独に耐えた初代勇者も。何もかもが、それぞれの終わりを迎えた。長い、長い物語の幕が降りたのだ。
残ったのは、誰かの光にすがるのではなく、自分の足で立つと決めた、名もなき者たちの国だった。まだ危なっかしくて、頼りない。だが確かに、誰にも引かれず自分たちで歩きはじめた国だった。
エレノアが、そっとアレンの肩に頭を預けた。彼女もまた、名もなき者の一人として、この光の芯になった。ごみだめの少女が、世界を救う光のいちばん真ん中にいた。
その左手の銀の環が、数百年ぶりの澄んだ青空の光を受けて、やわらかく輝いている。もう離さないと誓った、あの環が。
遠く、南の空の下でも、意志の光を放った民たちが、北の瘴気が晴れたのを見てどよめいたに違いない。自分たちのその諦めない心が、確かにあの災厄を討ったのだと。誰かにすがるのではなく、自分たちの力で。それは、この国の民が生まれて初めて、己の手で掴みとった勝利の味だった。
偽りを剥ぎ取る旅は、ついに、そのいちばん奥の闇まで剥ぎ取って、終わりを迎えた。あとに残ったのは、まっさらな青い空と、芽吹きはじめた大地と。そして、隣にいてくれる、たった一人だった。それだけで、もう、十分だった。
ありがとうございます。
魔王もまた、囚われた者でした。この国の諦めが生んだ、澱の塊。だからこそ、剣では滅ぼせなかった。最後に「ありがとう、終わらせてくれて」と消えていく。数百年、孤独に耐えた初代の魂も、ようやく安らぎへ。紫の空が晴れ、青が戻る。二人は、生きて、約束を守りました。次回、最終話。




