第46話 遠き声よ届け
第46話。月雫のリンクを通じて、アレンの声が、この国じゅうの民に届きます。
「力を貸してくれ。すがるんじゃない、立つ意志を」。
迫る絶望の津波を、エレノアがありったけの聖光で受け止めた。
だが、みるみる押しきられていく。当代最強の英雄の光をもってしても、彼女たった一人の力では、あの絶望の奔流を支えきるには限界があった。腕が震える。歯を食いしばる。それでも、彼女は一歩も退かなかった。
「アレン様、いまです……! 私がこれを支えられるうちに……! 早く……!」
アレンはうなずいた。そして、目を閉じた。奪還した深淵の月雫、その魔力リンクの力を、極限まで押し広げていく。
この場の数十人の意志だけでは、まるで足りない。ならば、遠い王都の、地方の街々の、この国じゅうの名もなき民の意志と繋ぐしかない。幾日も離れた距離を越えて、そんなことができるのか。届くのか。分からない。前例など、どこにもない。だが、やるしかなかった。信じるしかなかった。この数か月、蒔いてきた種の力を。
アレンの意識が、月雫の魔力リンクを通じて、糸のように南へ、南へと、途方もなく伸びていく。凍てつく北の荒野を越え、雪を戴いた山脈を越え、幾筋もの川を越えて、はるかな故郷の空へ。指先から命が削れていくような感覚だった。それでも、アレンは糸を手繰るのをやめなかった。
「……聞こえるか。誰でもいい。俺のこの声が。頼む、届いてくれ」
そのころ、遠く離れた王都では。
北の空のただならぬ異変を、民が不安げに見上げていた。地平の彼方で紫の光が脈打ち、足元の大地が遠く鳴動する。何か途方もなく恐ろしいことが北で起きている。それはもう、誰の目にも明らかだった。子を抱く母は震え、老人は天に祈った。
以前の民なら、ただうずくまり、英雄を待つだけだっただろう。誰かがなんとかしてくれるのを、口を開けて待つだけの。
しかし、いまは違った。
あの収穫祭で救われた子の幼なじみたちが。踊り子の仲間たちが。ユリウスの告白を聞いた者たちが。パンを分け合った隣人たちが。空を見上げ、こぶしを握っていた。
「勇者様が、たったふたりで、北で戦ってる」
「あたしたちに、できることは」
「立つことだ。……あの人が発つ前に言ってたろう。すがるな、逃げるにしても自分の足で逃げろって。俺たちが諦めないことが、あの人の力になるんだ」
誰も笑わなかった。数か月前なら絵空事と鼻で笑ったかもしれないその言葉を、いまは皆が本気で噛みしめていた。うつむいて生きるより、顔を上げて転ぶほうがいい。そう思えるようになったのは、いつからだったろう。ユリウスの告白をこの目で見た。エレノアの真実をこの耳で聞いた。もう、ただ待つだけの民ではなかった。
そのとき、空を見上げる民の胸の奥に、かすかな声が届いた。
聞こえるか。俺の声が。
アレンの声だった。月雫のリンクを通じて、この国じゅうの諦めない意志を探し、呼びかける声。
「……勇者様の、声だ」
誰かがつぶやいた。最初は気のせいかと思った。だが隣の者も、その隣の者も、はっと空を見上げていた。皆に聞こえている。頭の中に。いや、胸のいちばん奥に、じかに響いてくる。それは崇めよという命令ではなかった。すがれという誘いでもない。ただ、力を貸してくれという、対等な頼みだった。
力を貸してくれ。頼む。すがるんじゃない。崇めなくていい。ただ、おまえたちの立つという意志を。諦めない、その心を。少しでいい。俺に預けてくれ。
崇めよでも、恐れよでもない。ただ力を貸してくれという、その頼み。生まれて初めて向けられた対等な呼びかけに、民が応えた。
「……立つ! 俺は逃げない! 勇者様に、力を貸すんだ!」
一人の若者がこぶしを天へ突き上げ、空へ叫んだ。すると、その胸から淡い光の粒が生まれ、すうっと北へ飛んでいった。
「あたしも!」「私も、立つ!」「俺もだ!」「じいちゃんの分も、立つ!」
声が火のように連鎖していく。王都の広場で、市場で、路地裏で。一人、また一人、また十人と、民が顔を上げ、こぶしを握り、空へ叫ぶ。立つ、と。諦めない、と。あの人に力を、と。
そのたびに、無数の小さな光の粒が、その胸から生まれ、北の空へと吸い寄せられていく。まるで地上から天へと、逆さまに降りそそぐ流星群のように。かつて英雄の像の前でうなだれていた者たちが、いまは天を仰ぎ、自らの意志を放っている。息を呑むほど美しい光景だった。
誰かに命じられたのではない。恐怖に駆られたのでもない。一人ひとりが自分の意思で放った光。それは、英雄信仰のすがる光とはまるで違う、澄んだ輝きをしていた。
王都だけではなかった。港町でも、山間の村でも、触れを聞いた民が次々と空を見上げ、意志を放つ。国境の小さな集落まで。この国じゅうの名もなき者たちの諦めない心が。数百年、うずくまってきた者たちの、初めて顔を上げる決意が。一斉に北を目指して駆けていく。ひとつの巨大な光の川となって。
届いた。
北の地。極寒の風のなか、倒れそうな体を踏ん張るアレンの、その全身に、南から無数の温かな光が流れこんできた。エレノアの聖光が、その橋渡しをしていた。
その光は、驚くほど温かかった。ひとつひとつは頼りないほど小さな、けれど確かな意志。あの子どもの、腰の曲がった老人の、踊り子の、パン屋の、鍛冶屋の。名もなき無数の民の、立つという、震えるような、けれど本物の決意。それが幾千、幾万と集まってくる。
それが月雫のリンクを通じ、アレンの万象武具庫へと注がれる。これまで収蔵してきた名もなき武具の無数の遺志と、数百年守り続けた初代勇者の意志と、この北の地で立ち上がった仲間たちの覚悟と。すべてが渾然とひとつに束ねられていく。過去と現在の、生者と死者の、名もなき者たちの意志の、大合流だった。
アレンの体からあふれ出す膨大な光が、北の紫の空を貫いて、天を衝いた。魔王の絶望とは真逆の、諦めない者たちの光の柱だった。
「……集まった。集まってくれた。この国じゅうの諦めない意志が。こんなにも」
アレンは目を開けた。その全身が、七色の、いや、数えきれない色の光に包まれている。名もなき者たちの意志の総和。それはもはや、一人の英雄の力ではなかった。
「エレノア。……ここからは、二人で束ねる。この、預かったみんなの想いを。一滴もこぼさず」
「はい。私のこの命も。あの日、ごみだめであなたが救ってくれた、この命も。ぜんぶ束ねてください。あなたの力に」
エレノアの左手の銀の環が、聖光を受けて白く輝いた。二人の力が月雫を介して、完全にひとつに溶け合っていく。もう、どこまでが自分でどこからが相手か分からないほどに。
絶望の魔王に、諦めない無数の意志が、ついに対抗しうる光となって立ち上がった。うずくまることをやめた、名もなき者たちの光が。
思えば、これこそがアレンの四年の旅の答えだった。英雄一人にすがる国は脆い。だが、名もなき者一人ひとりが自分の足で立ち、その意志を束ねたなら。それはどんな英雄よりも、どんな災厄よりも強い。ヴェルナーが恐れたもの。初代が集めきれなかったもの。それがいま、アレンの手の中で、ひとつの巨大な光になっていた。
偽りを剥ぎ取る旅の最後の決戦。その逆転の狼煙が、いま、この国じゅうの名もなき者たちの声とともに、高々と上がった。
読んでくださってありがとうございます。
崇めよでも、恐れよでもない。対等な「力を貸してくれ」に、民が応える。逆さまの流星群のように、無数の光が北へ。これこそ、アレンの四年の旅の答えでした。名もなき者の意志の総和は、どんな英雄より強い。次回、その光の刃で、魔王へ。




