第45話 目覚める災厄
第45話。封印が砕け、魔王の本体が、目覚めます。存在するだけで、心を折る絶望。
ついに、そのときが来た。天を衝いていた封印の柱が、根本から砕け散った。
数百年ものあいだ封印を支え続けてきた、初代勇者の魂が、ついに限界を迎えたのだ。信仰という燃料を断たれ、燃え尽きるようにして、その力が尽き果てた。
光の柱が音もなく崩れ落ち、祭壇の大きく開いた亀裂から、途方もない質量の闇が、間欠泉のように噴き出した。
それは丘か山かというほど大きかった。無数の絶望がより合わさり、凝り固まった、黒い巨躯。ぬめる肌には、爛れたいくつもの金色の眼。開いた顎からは、地を揺るがす咆哮があふれ出す。世界の終わりの絵図をそのまま切り取ったような、光景だった。
魔王。四年前の分体ではない、その本体。数百年、この地の底に封じられてきた、災厄の真の姿だ。
四年前にアレンが倒した分体など、比べものにならない。存在するだけで大気が軋み、生き物の希望を根こそぎ吸い取っていく。近くにいるだけで膝が笑い、心が折れそうになる。
「これが……本物の、魔王……」
エレノアの声がひび割れた。当代最強の英雄と謳われた彼女すら、その存在のあまりの大きさに、聖光を練る手をこわばらせた。四年前にアレンが倒したものは、この巨大な災厄の爪の先ほどの、ほんの一片の分体にすぎなかったのだ。
初代勇者がなぜ滅ぼしきれず、自らを犠牲にしてまで封じるしかなかったのか。その姿を一目見れば、否応なく分かった。これは、力でどうこうできる相手ではない。剣で斬ろうと、炎で焼こうと、この巨躯を成す絶望そのものが尽きぬかぎり、災厄は何度でも蘇る。数百年前の勇者は、それを誰よりも深く思い知っていたのだろう。
その圧倒的な絶望の波動を前に、ついてきた民たちが、次々と膝からへたりこんでいく。抗う力が、体から抜けおちていくように。立っていることさえ、もう重かった。それでも歯を食いしばる者もいたが、その顔からも、みるみる血の気が引いていく。
あれほど勇敢に分体と戦った者たちが、本物の魔王の放つ絶望にあてられて、心を折られかける。無理だ。勝てるわけがない。もう逃げよう。せっかく芽生えた、自分の足で立つという意志が、魔王の絶望を前に、みるみる萎れていく。
まずい。これは、まずい。アレンは瞬時に悟った。魔王は絶望を食う。人が諦めれば諦めるほど、強く、大きくなる。この圧倒的な存在感そのものが、対峙する者の意志をへし折り、そのまま己の糧に変えてしまう。最強の武器なのだ。戦う前から、心を殺しにくる。
このままではまずい。束ねるべき肝心の民の意志が、魔王の絶望を前に、ひとつ残らず萎れて消えてしまう。それこそが、魔王の思う壺だった。
「――折れるな! みんな!」
アレンは腹の底から、ありったけの声で叫んだ。
「顔を上げろ! うつむくな! 諦めた瞬間に、あいつは強くなる! 絶望が、あいつの餌だ! それが狙いなんだ! ……怖くていい。膝が笑っていい。涙が出てもいい。だが、逃げるな! 立て! 誰かじゃない、おまえの足で立て! それが、あいつにいちばん効く!」
その腹の底からの声が、絶望に呑まれかけた心を、正面から叩いた。
へたりこんでいたあの男の子が、歯を食いしばり、ふらつきながら立ち上がった。逃げないって決めたんだ、と震える声で。踊り子が続く。あたしの足は、あたしのものだ。ユリウスが剣を杖にして身を起こす。もう、偽物じゃない。一人、また一人と、名もなき者たちが立ち上がっていく。
魔王の、心を折る絶望に真っ向から抗って。おぼつかない足で、涙を拭いもせず、それでも一人残らず立った。誰かに命じられたからではない。誰かに守ってもらうためでもない。ただ、自分の意志で立つと決めた者たちの背中だった。その姿は、どんな英雄の像よりも尊い。
その、立ち上がる者たちの瞬間。祭壇の朽ちた鎧が――初代勇者の骸が、応えるように、最後の淡い光を放った。
その温かくも切ない光が、アレンの中へ、音もなく流れこんでくる。数百年、たった一人でこの極寒の底に魔王を押さえ続けた、初代勇者の意志。その、燃え尽きる寸前の最後のひとかけらが、後の者にたすきを渡すように。
よくぞ、ここまで来た。託したぞ。後の世の勇者よ。
声なき声が、確かに聞こえた気がした。数百年の孤独を抱えた、低い声が。
我には集めきれなかった。だがお前には、仲間がいる。諦めぬ者たちがいる。……名もなき意志を束ねよ。それが、あの災厄を滅する唯一の光だ。
初代の最後の光が、アレンの万象武具庫に溶けて収まっていく。奪い集めてきた無数の名もなき遺志の、いちばん奥に。数百年前の伝説の勇者の託す意志が、そこへ加わった。ずしりと重く、そして温かい、たすきだった。
「……ああ。分かってる、初代」
アレンは朽ちた鎧に、静かにうなずいた。
「あんたの分も、まとめて束ねる。あんたが数百年、たった一人で守ってきたものを。今度は、大勢で引き継ぐ。一人に背負わせは、しない。もう二度と」
アレンは五つの神域武装を展開した。そして収蔵した無数の名もなき力を、さらに、いま立ち上がった目の前の民たちの意志を、月雫の魔力リンクを通じて束ねはじめる。
目の前で立ち上がった、数十人の意志。それが光の糸となって、アレンに集う。魔王の絶望を、わずかに押し返す。
だが、それでも到底足りなかった。この場にいる数十人の意志だけでは、あの山のような魔王には、豆粒をぶつけるほどにも及ばない。
「足りん……まるで足りん……もっと、いる……この場だけじゃない。この国じゅうの、民の、諦めない意志が……!」
魔王が、耳をつんざく咆哮とともに、黒い津波を放った。
絶望そのものが形を成したような奔流。それが山を崩す勢いで、アレンたちを呑みこもうと迫る。エレノアの聖光の障壁が、みしみしと軋んだ。
絶体絶命。この場の意志だけでは勝てない。だが、この凍てついた北の地に、国じゅうの民はいない。彼らは遠く、幾日も離れた王都や街々にいる。どうやって、その離れた意志を束ねるというのか。届くはずがない。……普通なら。
目覚めた本物の災厄を前に、二人とわずかな仲間は、絶望の淵に立たされていた。だが、その淵にあってなお、アレンの目は少しも死んでいなかった。
道はある。必ずある。俺はきっと、この日のために万象武具庫という力を授かったんだ。名もなき者の意志を束ねるために。
「エレノア。……賭けが、ある」
アレンは、迫る絶望の津波を金剛盾で受け止めながら、叫んだ。
「月雫の魔力リンク。あれをうんと広げる。この国じゅうの、諦めない意志と繋ぐんだ。俺が蒔いた種が、もし少しでも芽吹いてるなら。……離れていても、届くはずだ」
「そんな、途方もないこと……! でも……」
エレノアは、迷いを振り切った。左手の銀の環を、握りしめて。
「やります。私の聖光が、その橋になる。……信じましょう。あなたがこの国じゅうに蒔いた、あの種を」
二人は目を見交わした。無謀な賭けだ。だが、これしかない。あの酒場で交わした約束も、この数か月の旅も、すべてはこの一瞬のためにあったのかもしれない。
偽りを剥ぎ取る旅の最後の決戦が、この国の命運を賭けて、いま始まろうとしていた。剣ではなく、束ねた無数の意志で。目覚めた災厄に挑む戦いが。
ありがとうございます。
魔王は絶望を食う。諦めれば諦めるほど、強くなる。だからアレンは叫びます。「立て、おまえの足で」。この場の意志だけでは、まるで足りない。ならば、遠い王都の、この国じゅうの意志と繋ぐ。無謀な賭け。次回、遠き声よ、届け。




