第44話 崩れゆく封印
第44話。荒れ果てた北の地。崩れゆく封印と、無数の分体。そして、朽ちた鎧の中に――。
王都から幾日も馬を走らせ、たどり着いた北の地は、見渡すかぎり荒れ果てていた。
草木は一本残らず枯れ、大地は干からびてひび割れ、空は昼だというのに紫の瘴気にどんよりと覆われている。頬を刺す風は、季節を忘れたように冷たく、湿った土の腐臭を運んできた。鳥の声も虫の音もない。生き物の気配は、この土地から絶えて久しかった。ただ遠い地平線に、封印のものと思しき天を衝く巨大な光の柱が、消えかけの蝋燭のように頼りなく明滅していた。
その柱が弱々しく揺れるたび、周囲の瘴気がぶわりと濃くなる。封印がいままさに力を失いかけている、動かぬ証だった。
「……これが噂の、封印の綻びか」
アレンは瘴気に目を細めた。喉の奥がひりつくような、饐えた空気だった。
光の柱の根本には瘴気の亀裂が走り、そこから黒い澱のようなものが次々と湧き出していた。魔王の分体だ。四年前にアレンが倒したものと同じ姿。だがその数は、桁違いに多かった。
「――来るぞ。構えろ!」
アレンの声とともに、無数の分体が一行に襲いかかった。
人の形をした黒い澱、うつろな目、恨みと絶望の塊。それが津波のように押し寄せてくる。その顔のひとつひとつに、アレンは見覚えがあるような錯覚を覚えた。すがるものを失った者、諦めた者、世界に見捨てられたとうずくまった者。どれも、この四年の旅のどこかで見た顔に似ていた。あの門前で子を亡くした母親も、こうして諦めていれば、いつかこの澱の一部になっていたのかもしれない。魔王とは、この国が長い歳月をかけて生み出してきた、無数の絶望の成れの果てなのだ。そう思うと、斬るたびに胸が軋んだ。
アレンは金剛盾を掲げ、疾風の小手で駆け抜けた。断罪の神剣で薙ぎ払う。斬る。だが斬っても斬っても、黒い澱はまた湧いてくる。まるで水を剣で断とうとするように、いくら払っても手応えが残らない。絶望から際限なく生まれる魔王の眷属を、力で斬るだけでは永遠に切りがなかった。力では滅びない――初代の遺した言葉の本当の意味を、アレンはいま、身をもって思い知った。
「エレノア、民を守れ!」
「はい!」
エレノアの聖光が、志願した民の一団を包む。だが瘴気はその光を容赦なく削っていく。長くは保たない。
レオンが乏しくなった魔導を絞り出して足止めの罠を仕掛け、クラリスが傷ついた者を後方で癒やす。かつて傀儡だった青年ユリウスも、腰を抜かしそうになりながら、それでも剣を握って前に立った。もう逃げないと決めた青年の、震える、けれど確かな覚悟の剣だった。
「アレン様、きりがありません……! このままでは……!」
エレノアの声は悲鳴に近かった。分体の数は減らない。むしろ増えていく。封印の綻びが広がるほど、魔王の目覚めが近づくほどに。
アレンは歯を食いしばった。力で斬るのは無駄だ。それは分かっている。だが、あの封印の柱までたどり着かなければ話にならない。まずは道をこじ開けるしかない。
アレンは五つの神域武装を束ねた。全武装共鳴。奪い返した力のすべてを、ただ一点に。指先から背筋まで、束ねた力が焼けるように駆けめぐる。
束ねられた五色の光の奔流が、分体の群れを真正面から薙ぎ払った。黒い澱がまとめて吹き飛び、一瞬、道が開ける。封印の柱へと続く、細い一本の道が。だがすぐにまた瘴気が埋めようと蠢きはじめた。
「行くぞ。止まるな! 柱まで一気に突っ切る!」
一行は開けた道を駆けた。
左右からなお途切れなく分体が迫る。エレノアが光の壁で防ぎ、ユリウスが歯を食いしばって剣を振るう。志願した民たちも鍬や棒きれを手に、必死に分体を押し返した。誰も逃げ出さなかった。誰かに守られるのを待たなかった。自分の足で地を踏みしめ、前へ前へと進んでいく。
鍬を振るう老人の背も、棒きれを握る少女の手も、震えていた。それでも誰ひとり、その場から退こうとはしなかった。その諦めない一団の光景を前に、分体たちはいやがるように身をよじり、道をあけた。絶望から生まれた者たちは、諦めない意志の光を正面から浴びると、力を削がれてたじろぐ。ほんのわずかな意志の光でも、確かに効くのだ。初代の遺した言葉は、正しかった。
ならば、これが何千、何万と束ねられたなら。魔王本体すら滅ぼせるはずだ。アレンの胸に、確信が芽生えた。
「見ろ、エレノア。あれを」
アレンは道を駆けながら、叫ぶように言った。
「あいつら、民が諦めないと、はっきり弱くなる。……間違ってなかった。この数か月、俺たちがやってきたことは、何ひとつ間違っちゃいなかったんだ」
エレノアがうなずく。汗と煤に汚れたその顔に、確かな希望が宿った。この戦いには意味がある。二人は、そう信じて前を向いた。
幾度も死線を越えて、やがて一行は、ついに封印の柱の根本にたどり着いた。
そこには巨大な祭壇があった。数百年前、初代勇者が魔王を封じた、まさにその場所。祭壇の中心には、朽ちかけた一体の鎧が静かに安置されていた。
「……あれは」
クラリスが息をのむ。
その古びた鎧は、空っぽではなかった。中には乾ききってミイラ化した人の骸が、静かに収まっていた。初代勇者。伝説の英雄。その彼が天寿を全うするでもなく、この極寒の地の底で、封印とともに朽ち果てていたのだ。数百年もの長きにわたり、たった一人きりで、あの巨大な魔王を押さえつけながら。
封印の本当の正体が、そこにあった。初代勇者は、自らの命と魂そのものを核にして、魔王を封じていた。生きたままこの地に己を埋め、そのたった一人の魂だけでは足りぬ分を、国じゅうの信仰の魔力で支えてきたのだ。気の遠くなるような、孤独な務め。誰にも知られず、讃えられもせず、ただ暗い地の底で世界を背負い続けた、その途方もない歳月を思い、アレンは言葉を失った。
だが、その信仰が細った。ヴェルナーが死に、偽りの英雄が次々と崩れ、民がすがるのをやめはじめた、あの日から。支えを失った初代の魂もまた、いま限界を迎えつつあった。
「……俺たちが封印を緩めた。だが、それは間違いじゃなかった」
アレンはつぶやいた。
「この人を数百年、こんな場所に縛りつけてたのが、あの信仰だ。……俺たちは、この人を解放しに来た。そして魔王を、今度こそ終わらせに来た。初代の代わりに」
アレンは、その朽ちた鎧の前に膝をついた。冷たい石床の感触が、膝を通してじわりと伝わってくる。
「……あんた、一人で。数百年も。ずっとこの国を守ってたのか」
返事はない。だが鎧の奥から、かすかに意志のようなものが脈打つのを感じた。まだ消えていない。数百年、たった一人で後の世の誰かを待ち続けた、勇者の執念が。
「……もう、いい。あんたの番は終わりだ。あとは俺たちがやる。一人じゃない。今度は、大勢で。……あんたが集めきれなかった意志を、俺が束ねる」
朽ちた鎧が、応えるようにほのかに光った気がした。数百年越しの、勇者から勇者へのたすきが、いま静かに渡されていく。
偽りを剥ぎ取る旅は、ついにすべての始まりの場所へ、数百年前の勇者が遺した最後の戦場へと、たどり着いた。その次の瞬間、封印の柱が大きく軋みをあげた。崩壊の、始まりだった。
最後までありがとうございます。
斬っても湧く分体に、力では勝てない。だが、民が諦めないと、分体は弱くなる。初代の言葉は正しかった。祭壇の朽ちた鎧は、初代勇者その人。数百年、たった一人で、自らを核に、魔王を封じ続けていた。数百年越しの、勇者から勇者へのたすき。次回、封印が崩れ、本体が目覚めます。




