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泥の勇者と白金の英雄 ~偽りの栄光を剥ぎ取る収集奇譚~  作者: 源三郎


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第43話 北へ発つ前に

 第43話。「英雄にすがるな」。アレンは民に、そう告げます。守るのではなく、立たせるために。

 北へ発つ。それはもう、決まっていた。逃げられない戦いだった。


 だが、その前にどうしてもやるべきことがあった。民の意志を束ねること。すがる心ではなく、自分の足で立つ心――魔王を滅ぼす、その光を、この国に灯すこと。


 時間はない。封印は日ごとに崩れかけている。じっくり育てている暇はなかった。ならば、この数か月で蒔いた種にいっきに火を点けるしかない。賭けだった。だが、やるしかなかった。


 アレンは評議会の名で、王都じゅうに、そして地方の街々にも触れを出した。北にかつてない災いが迫っていること。それは、たとえどんな英雄一人でも退けられないこと。民一人ひとりの諦めない意志だけが、それを退ける力になること。正直に、包み隠さず。恐怖で煽るのではなく、事実だけを。


「英雄にすがるな」


 広場で、アレンは集まった民にそう告げた。


「俺は、おまえたちを守る、都合のいい英雄にはならない。かわりに、おまえたちに頼む。……逃げるな、とは言わない。怖ければ逃げろ。だが、逃げるにしても、自分の足で逃げろ。誰かがなんとかしてくれると、天を仰いで待つな。おまえの命は、おまえのものだ。おまえが守れ。誰かに明け渡すな。……その一人ひとりの覚悟だけが、この国を本当に救う」


 それは、崇拝を求める言葉の真逆だった。すがらせるのではなく、突き放し、立たせようとする言葉。


 最初、民は戸惑い、ざわめいた。英雄が守ってくれないと言う。すがるな、と言う。そんな頼りない話があるか、と。ある者は失望した顔で。ある者は怒った顔で。長年、上からの光に慣れた民には、それはただ、突き放されたようにしか聞こえなかった。


 だが、そこで声をあげた者がいた。


「――俺は、逃げないぞ!」


 あの収穫祭で地竜から救われた男の子だった。あれから少し背が伸びている。


「にいちゃんが教えてくれたんだ! 逃げなかったやつが本物だって! だから、俺は逃げない! 自分の足で立つ! 母ちゃんも、街も、俺が守るんだ!」


 子どもの甲高い声が、静まりかえった広場によく響いた。大人たちが、はっとその子を見た。子どもですら、逃げないと言っている。その事実が、うつむいていた大人たちの胸を静かに刺した。


 続いて、下町の踊り子が――かつてクラリスにすがりきっていた、あの女が進み出た。


「あたしも、もう、誰かにすがるのはやめる。あんたに言われて気づいたのさ。あたしの足は、聖女様が治したんじゃない。あたしが諦めなかったから、治ったんだ。……今度は、自分の足で立ってみせる」


 ユリウスが。ボルドの旧同僚たちが。パンを盗んで殴られた、あの少年とその母が。名もなき民たちが。一人、また一人と顔を上げていく。


 それは伝染していく勇気だった。誰か一人が立てば、隣の者も立つ。すがることに慣れきっていた民の心に、初めて「自分で」という火が点った。数か月前なら考えられなかった光景。ヴェルナーがいちばん恐れていた光景だった。


 もちろん、全員ではない。なおうずくまる者も、逃げ出す者もいる。だが、それでもいい。強いるものではない。一人でも多く、自分の足で立つ者が増えれば、それだけ魔王を滅ぼす光は強くなる。


 その次々と顔を上げていく光景を、アレンは胸を熱くして見ていた。剣を交えて勝ち取ったどんな勝利より、この光景のほうがずっと胸を打った。長い戦いで、初めて、勝てるかもしれないと思えた瞬間だった。魔王を滅ぼす光の、いちばん最初の火種が、たしかにここで灯った。


 種は蒔かれていた。この数か月、地道に蒔いてきた種が。ユリウスの告白。エレノアの真実。切り捨てなかった、無数の対話。それが、いま、いっせいに芽吹こうとしている。


「……たいしたものだ」


 アレンは、思わずつぶやいた。


「英雄がいなくても、こいつらはちゃんと立てる。……いや、もとから立てたんだ。ただ、立っていいと、おまえの命には価値があると、これまで誰も言ってやらなかっただけで。ヴェルナーが、それを言わせなかっただけで」


 エレノアが、その隣で微笑んだ。


「あなたが言ったのです。かつて、ごみだめの隅の私に言ってくれたように。『おまえの命は、おまえが思うより、ずっと価値がある』と。あの、たった一言が私を救ったように。それを、この国じゅうに広げた。……それだけのことなのです」


 十数年前、たった一人の少女を救った言葉が、いま国じゅうの名もなき者たちを立ち上がらせようとしていた。ひとつの優しさは、めぐりめぐってこんなにも大きくなる。


 北へ発つ、前の夜。


 二人は屋敷の窓辺で、また並んで月を見ていた。この見慣れた景色を二人で眺められるのも、しばらくは――あるいは、これが最後かもしれなかった。だが、そんな気弱は口には出さなかった。


「……なあ、エレノア」


 アレンは口を開いた。


「もし、これが終わったら。魔王を滅ぼして、二人とも無事に生きて帰れたら。……その、なんだ。旅に出よう。二人で。誰も俺たちを、英雄だ勇者だと呼ばない、遠くへ。まだ見ぬ、世界中の名もなき武具を拾い集めながら。のんびりと、な」


 エレノアの目が、うるんだ。それは、彼女がずっと夢見た光景だった。崇められる英雄としてではなく、ただアレンの隣にいる、一人の女として。


「……はい。絶対に、生きて帰りましょう。二人で。何があっても。そして、その旅に出ましょう。約束、です」


 アレンは懐から小さなものを取り出した。北へ発つ前に、ひそかに用意していたもの。名もなき職人が打った、飾り気のない、銀の環だった。


「……こんなときに渡すものじゃ、ないかもしれん。だが、後回しにして渡せなくなるのは、もっと御免だ」


 エレノアの左手に、それをはめる。細い薬指に環はぴたりと収まった。彼女は、言葉を失った。かつて、ごみだめの隅で外套をかけてもらった、あの手に。いま、生涯を共にする、約束の環が。銀の環は月明かりを受けて、ささやかに、けれど確かに光った。環の内側に飾りはなかった。打ち手の指のあとだけが淡く残る安物の銀だった。それでもこの夜のどんな宝石より重く見えた。


「……大事にします。この命より、大事に」


「命のほうを大事にしろ。そんな環より、ずっとな」


 二人は、指をそっと絡めた。もう離さない、という約束のしるしのように。窓の外では、北の空が相変わらず脈打っている。だが、この夜だけは、その光も遠かった。


 明日、北へ発つ。数百年、この国を脅かしてきた本当の闇へ。だが二人の背には、いま、束ねられはじめた無数の意志があった。


 翌朝。アレンとエレノアは、レオン、クラリス、ユリウス、そして志願した民の一団とともに、北へ向かって発った。


 見送る者たちは、もう二人を拝みはしなかった。かわりに、こぶしを突き上げ、声をあげた。「行ってこい」「留守は任せろ」「俺たちの街は、俺たちで守る」と。すがる声ではなく、送り出す、対等な声で。


 その声を背に受けて、アレンは思う。これでいい。これが、俺の目指した国だ。拝まれる背中ではなく、送り出される背中。たとえ俺が帰れなくても、この声が残るなら、それで十分だ。左手に環をはめたエレノアが、隣で、まっすぐ前を見ていた。


 偽りを剥ぎ取る旅は、その最後の決戦へと。すがる心ではなく、自分の足で立つ、無数の意志を束ねて。北の、地の底へと、向かおうとしていた。

 ありがとうございます。

 突き放す言葉に、最初、民は戸惑う。だが、あの子が、踊り子が、一人また一人と、顔を上げていく。伝染していく勇気。ヴェルナーがいちばん恐れた光景です。そして、決戦前夜の、銀の環。「二人で、生きて帰ろう」。次回、いよいよ北の地へ。

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泥にまみれた元勇者アレンと 白金の英雄エレノアの旅の物語です
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