第41話 封印の楔
第41話。初代勇者の手記が、この国の、いちばん深い秘密を明かします。
英雄信仰は――魔王を封じる、楔だった。
北の空の、あの紫の脈動は、日を追うごとに強く、速くなっていった。もはや気のせいでは済まされない。何かが、確実に近づいている。
放ってはおけなかった。エレノアと交わした約束も、二人で描いた穏やかな暮らしも、この不吉な光の前では、ひとまず脇へ置くしかなかった。新しい暮らしを始める前に、アレンは評議会の面々と手分けして、あの異変の正体を調べはじめた。レオンの頭脳、クラリスの伝手、目覚めた役人たちの記録。総がかりで挑んだ。
だが、幾日調べても、脈動の源はようとして知れなかった。ただ北の空だけが、夜ごとに深く息づいていく。焦りだけが募っていった。
手がかりは、意外なところから出た。クラリスだった。大聖堂を退いた彼女は、償いのため、名もなき死者の記録とともに、埃をかぶった古い聖典の書庫を、一冊ずつ整理していた。誰にも命じられたわけではない。ただ、自分が信じてきたものの正体を、この目で確かめずにはいられなかったのだ。そのいちばん奥に、鎖で封じられた一冊が隠されていた。
「アレン様。これを……これを、見てください」
クラリスが震える手で差し出したのは、埃をかぶり、鎖と封蝋で幾重にも閉じられた、一冊だった。数百年前の、初代勇者その人の手記。誰の目にも触れぬよう、大聖堂のいちばん奥に、幾重もの鎖で戒めて隠されていたもの。これほど厳重に封じられているという事実そのものが、中身の重さを物語っていた。
レオンが、その色褪せた古文字を一行ずつ読み解いていく。合理の天才の、いつもは鉄面皮の顔が、ページをめくるごとに、みるみる青ざめていった。指先がわずかに強張るのを、アレンは見逃さなかった。
「……まずいな、これは。とんでもないものを、掘り当てた」
常に冷静なレオンが、こんな声を出すのを、アレンは初めて聞いた。
「……全員、聞いてくれ」
レオンが手記を卓に置き、一同を見渡した。合理の男の声が、珍しく緊張でこわばっている。
「四年前、アレンが倒した魔王。あれは魔王の本体ではなかった。地上に漏れ出た、分体にすぎない。本体は数百年前、初代勇者たちによって、北の地の底に封印された。だが、あまりに強大で、完全には殺しきれなかった。それで初代たちは、封印を保つために、ある大掛かりな仕組みを造ったんだ」
レオンの声は乾いていた。感情を切り離し、事実だけを告げる、いつもの口ぶり。だが、その内容はあまりに重かった。部屋の空気が、じわりと冷えていく。
レオンは、手記の一節を指した。
「魔王の封印を保つには、膨大な魔力がいる。一人の英雄では、到底足りない。そこで彼らは、国じゅうの民の信仰を集める仕組みを造った。それが――英雄信仰だ」
一同が、いっせいに息をのんだ。
「民が英雄を崇める。その信仰の力が魔力となって、北の封印へ注がれる。つまり英雄信仰は、ただの統治の道具じゃなかった。魔王を封じ続けるための、楔だったんだ」
言葉の意味が、じわじわと部屋に染みわたっていく。誰かが息を呑む音だけが、やけに大きく聞こえた。
この国の力の源が英雄信仰である――その理由が、いま明らかになった。民の崇敬が、そのまま魔力に変わる。その魔力で、王家は権勢を保ってきた。だがその本当の使い道は、北の地の底で眠る災厄を、押さえつけることだった。
「歴代の王家は」
レオンが続けた。
「この秘密を、宰相家に代々引き継がせてきた。だから彼らは、何がなんでも英雄信仰を絶やさなかった。偽物でもいい。とにかく民に崇めさせ続ける。信仰の火を、絶やさぬために。ヴェルナーのあの執念の正体は、これだ」
アレンの背が、氷を当てられたように凍りついた。
英雄信仰が。あの忌々しい病そのものが。魔王の封印――。
ヴェルナーの言葉が、よみがえる。「英雄なき国が、どれほど脆く崩れるか」。あの男の四十年の恐れ。それはただの戦乱の記憶ではなかったのかもしれない。宰相家に代々、伝わっていたのだ。この封印の秘密が。だからこそ、あの執念は、狂気にまで研ぎ澄まされていた。
「じゃあ、なんだ。……俺は」
アレンの声が掠れた。血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
「俺は偽物の英雄を倒して、英雄信仰を壊そうとして……その、魔王を封じてた楔を、自分の手で抜いてた、ってことか」
重い沈黙が、部屋を満たした。誰も、次の言葉を継げなかった。役人たちは俯き、商人は青ざめ、街の顔役は拳を握りしめたまま動かない。勝利の余韻に浸っていた数日が、遠い昔のことのようだった。
窓の外で、北の空がまた脈打った。その紫の明滅が、いまはまるで、二人の勝利をあざ笑う心臓の鼓動のように見えた。
これまでアレンは信じてきた。偽りの英雄を倒すことは正しいと。民を目覚めさせることは善だと。その確信こそが、四年の旅を支えた背骨だった。その背骨が、いま音を立てて折れた。
彼が正しさだと信じてやってきたことのすべてが、この国を守ってきた最後の砦を、自らの手で切り崩す行為だったとしたら。ボルドを暴いたのも。クラリスを止めたのも。ギルバートを討ったのも。ヴェルナーを倒したのも。民にすがるなと説いたのも。その一つひとつが、魔王の封印を薄く、薄くしていた。
――俺は、この国を救っていたのか。それとも、滅ぼしていたのか。
その問いは、これまでのどんな敵の刃より深く、アレンを抉った。手のなかの剣が、急にひどく重たく感じられた。四年間、正しさだけを頼りに歩いてきた。その正しさが、根こそぎ裏返る。立っている地面ごと、ひっくり返されたようだった。
偽りを剥ぎ取る。その正しいと信じた行いが、皮肉にも、数百年この国を守ってきた封印を、少しずつ緩めていた。北の脈動が強くなったのは、そのせいだ。ボルドが、クラリスが、ギルバートが倒れ、そしてヴェルナーが死に、英雄信仰が決定的に揺らいだあの日から。信仰の火が細るたびに、封印は痩せていったのだ。
「……なんて、皮肉な話でしょう」
エレノアが、青い顔で静かに言った。
「偽りの英雄を憎んで、壊してきた。でも、その偽りこそが、この国をいちばん根っこで守っていた。ヴェルナーはそれを知っていて、だからあんなに必死に……」
「ああ。……そういうことだ」
アレンは両手で頭を抱えた。
英雄信仰は病だ。民をすがらせ、思考を止めさせる。だがその病こそが、魔王というもっと大きな災厄を、数百年封じてきた。病を治せば、封印が解ける。魔王がよみがえる。国が滅ぶ。治療そのものが、致死の毒になる。そんな病が、あるだろうか。
病を残せば、民はいつまでも縛られたまま、偽りの英雄にすがり続ける。だが魔王は封じられる。国は続く。
どちらを選んでも、破滅か、隷属か。これまでのどんなジレンマより、はるかに大きく、逃げ場のない二択だった。クラリスのあの天秤が、今度は国じゅうの規模で突きつけられていた。
「……いや」
だが、アレンは頭を上げた。その目に、諦めはなかった。
「二択じゃない。第三の道を探す。いつもそうしてきた。疾風の小手のときも、月雫のときも。救う者も、枯らす者も、両方掬い上げてきた。誰も切り捨てなかった。今度も同じだ」
破滅か、隷属か。その二つに一つを突きつけられて、なお、この男は三つめの道を探そうとする。それがアレンの生き方だった。かつて英雄一行から腱を切られ、路傍のごみのように打ち捨てられた男。切り捨てられた側の痛みを知る男だからこそ、何ひとつ切り捨てない。国も、民も、そして未来も。
「でも、アレン様。相手はあの魔王です。しかも、分体ではなく本体。封印を保つには、民の信仰の力が、どうしても」
「信仰以外の力で封印を保つか。あるいは、封じるんじゃなく、今度こそ完全に滅ぼす道を探す。数百年前の初代にできなかったことを、やる。方法はまだ、何ひとつ分からん。無謀だ。自分でも、正気とは思えん。だが、諦めた瞬間に負けだ。それだけは確かだろう」
レオンが、ふ、と笑った。「無謀か。そういう不合理を覆すのが、どうやらおまえの得意技らしいな。付き合おう」。クラリスも、無言でうなずいた。彼女の目には、償いを果たそうとする者の、静かな決意があった。
仲間たちの言葉が、折れた背骨のかわりに、支えを差し入れてくれる。一人で背負うものではない。そう思えたとき、アレンは椅子を蹴って立ち上がった。窓の外、北の空の不吉な脈動を、まっすぐ見据えて。
エレノアが、その隣に並んだ。
「一人ではありません。今度も。レオンの頭も、クラリスの知識もあります。目を覚ました民も。それに」
彼女はそっと、アレンの手を握った。細い、けれど温かい手だった。
「私が、います。あの日、ごみだめであなたに救われた命が。今度は、あなたとこの国を救うために」
その手の温もりが、逃げ場のない二択の前で凍りかけたアレンの心に、もう一度火を灯した。握り返した手のなかに、たしかな脈が通っている。それだけで、崩れかけた足場が、また踏みしめられる気がした。
偽りを剥ぎ取る旅の、そのいちばん奥に、数百年隠されてきたこの国の本当の秘密が姿を現した。英雄という偽りの光は、魔王という本物の闇を封じる、楔だった。旅は、思いもよらぬ最後の真実へと、たどり着こうとしていた。剥ぎ取った、その先に待っていたのは――この国の存亡そのものだった。
ありがとうございます。物語の、大きな仕掛けです。
アレンが憎んで壊してきた英雄信仰こそが、数百年、魔王を封じてきた。壊せば魔王が甦り、残せば民は縛られたまま。破滅か、隷属か。逃げ場のない二択。だが、アレンは第三の道を探します。いつものように、誰も切り捨てずに。




