第40話 芽吹きと兆し
第40話。ヴェルナーが倒れ、国は合議制の芽を育てはじめます。
そして――アレンが、エレノアに、これからの話をします。
ヴェルナーが倒れて、数日。王都は嵐のあとのような、奇妙な静けさに包まれていた。
英雄がいなくなった。傀儡だったユリウスも、玉座を退いた。玉座は空いたまま。それでも、以前のようなパニックは起きなかった。
あの大聖堂前の広場での一部始終を、数千の民が目撃していたからだ。造られた英雄が自ら嘘を暴いたこと。宰相が恐怖の化け物に変わったこと。そして、お尋ね者と呼ばれた二人が、身を挺して民を守ったこと。民はもう、上から与えられる光を鵜呑みにしないことを、少しずつ学びはじめていた。
もちろん、一夜ですべてが変わったわけではない。いまだ次の英雄を待ち望む声もあれば、誰かに決めてほしいと願う者も多かった。長年の癖は、そう簡単には抜けない。
だが、確かに変わりはじめていた。市場では人々が、王家の触れを鵜呑みにせず、あれは本当かと囁き合う。若い者たちは、ユリウスの告白を語り草にした。偽物だと認めたあの青年こそ、いちばん勇気があったのだと。小さな、しかし後戻りしない変化だった。
「さて。これから、どうするんだ、この国は。王もいない、英雄も置かないとなれば」
空位となった王宮の片隅の一室で、アレンは集まった者たちの顔ぶれを、ぐるりと見渡した。
ユリウス。目を覚ました下級の役人たち。商人。職人。街の顔役。そしてレオンまでもが、妹ミラを伴い、辺境から駆けつけていた。凡人の頭でよければ貸す、と言って。大聖堂を退いたクラリスも、名もなき者たちの記録係を買って出た。
かつて敵だった者。名もなき者。倒し、あるいは切り捨てなかった者たちが、いま同じ卓を囲んでいる。それ自体が、これまでのこの国にはなかった光景だった。身分の壁も、勝者と敗者の線引きも、この一室にはなかった。アレンが四年かけて拾い集めてきたものが、そのままこの卓に、座っていた。
王は置かない。英雄も立てない。かわりに、貴族も平民も、いろいろな立場の者が集まって話し合い、国のことを決める。合議の評議会。誰か一人の光に頼らない仕組み。アレンが提案した、この国では前代未聞の、新しい仕組みだった。
「面倒だぞ。時間もかかる。意見は割れる。喧嘩も絶えないだろう」
アレンは、包み隠さず正直に言った。
「一人の英雄がぱっと決めるほうが、よっぽど早い。だが、それはまたヴェルナーの繰り返しだ。一人に委ねれば、その一人が腐ったとき、国ごと傾く。面倒でも、みんなで迷いながら決めていくしかない。ヴェルナーは、それを民にさせたくなかった。迷わせるのが、怖かったんだ。だが、迷う自由のない国なんて、ただの大きな檻だ」
集まった者たちが、深くうなずいた。誰も、すぐにうまくいくとは思っていない。それでも、その面倒を引き受ける覚悟が、それぞれの顔にあった。誰かに丸投げする時代は、もう終わったのだ。
卓の向かいでは、クラリスがユリウスに帳面の付け方を教え、そのやり取りを、ミラが物珍しそうにのぞきこんでいる。かつて互いの喉に刃を向けあった者たちが、いまは同じ卓で、ひとつの帳面を挟んで頭を寄せている。誰も、その奇妙さを口にしなかった。口にするまでもなく、それが当たり前になりつつあった。
レオンが、めずらしく笑った。
「非効率、極まりないな。合理主義者としては頭が痛い。だが一点、認めよう。一人に頼る仕組みより、いちばん壊れにくい。冗長性こそ堅牢さだ」
その夜。喧騒を離れ、屋敷の窓辺で、アレンとエレノアは肩を並べ、月を見ていた。
「……これで、ひと区切り、ですね」
エレノアが言った。
「奪われた武装は、五つとも取り返した。偽りの英雄も、それを造った男も倒した。あなたの四年越しの旅は、終わりました」
「ああ。……終わった」
アレンはうなずいた。窓の外に、静かな夜の王都が広がっている。取り戻すべきものは、もう何も残っていなかった。それから少し迷って、意を決したように口を開いた。
「なあ、エレノア。前に言ったろう。この戦いが終わったら、続きの話をしようって」
エレノアの肩が、びくりと跳ねた。
「俺は王にはならない。英雄にもならない。ただのアレンとして生きる。奪われたものを取り返す旅は終わった。これからは、おまえと二人の旅だ。その隣に、おまえがいてくれるか」
言い終えて、アレンは柄にもなく緊張しながら、答えを待った。不器用な、けれど飾らない言葉だった。
エレノアの目に、みるみる涙が盛り上がる。十数年、たった一つの温もりを頼りに生きてきた女。その願いが、いま、いちばん望んだ形で叶おうとしていた。
「……はい。喜んで。どこまでも、あなたの隣に。もう、探さなくてもいいのですね。ずっと探していた人が隣にいて、その人が、隣にいてくれと言ってくれる。こんな幸せ、罰が当たりそうです」
涙でくしゃくしゃになりながら、エレノアは笑った。その笑顔を、アレンは黙って見つめていた。
二人は、身を寄せ合った。月明かりの下で。エレノアの肩が、かすかに震えているのが伝わってきた。もう崇拝でも、恩でも、義務でもなかった。ただ二人の人間が選び合った、それだけの、対等な温もり。十数年前、ごみだめの隅で交わした、たった一度の縁が、こうしてまっすぐな二人の未来へ繋がった。長い、長い旅の果てに、ようやくたどり着いた、穏やかな時間だった。
だが、その穏やかさを破るものがあった。
北の空が、脈打つように紫に光ったのだ。それも一度ではない。呼吸するように、規則正しく。ヴェルナーが砕いたはずの魔王の残滓。その余韻のような禍々しい気配が、遠く北の地平線の彼方で、確かにうごめいている。何かが目を覚ましかけているように。
窓の外の闇の奥で、その紫は、絶え、また灯り、絶え、また灯る。まるで巨大な何かが、遠くで息をしているようだった。明滅の間隔は夜ごとに狭まり、脈の一つひとつが北の闇を押し広げていくようだった。
「……アレン様。あれは、いったい」
エレノアの顔がこわばった。彼女の聖光の才が、あの気配に本能的に怯えているようだった。
アレンも肌で感じていた。魔王を四年前に、確かに倒した。この手で心臓を貫いた。残滓も、ギルバートから、ヴェルナーから、二度砕いた。なのに、なぜ、まだあの気配が消えないのか。
いや。むしろ――ヴェルナーの死を境に、あの北の気配は強くなっている気さえする。この国から、何か大事な押さえが外れでもしたように。その嫌な符合の意味を、アレンはまだ掴みかねていた。
「……ひどく嫌な予感がする。四年前、魔王を斬ったときと、同じ匂いだ」
アレンは抱き寄せたエレノアの肩を、そっと守るように、北の空を睨んだ。
偽りは剥ぎ取った。英雄信仰の病にも、風穴を開けた。長い旅は、終わったはずだった。二人の新しい暮らしが、始まるはずだった。
なのに、あの北の紫は、ヴェルナーが息絶えた夜を境に、かえって強くなっている。まるで、この国から何か大きな押さえが、ひとつ外れでもしたように。四年前に心臓を貫いたはずの魔王。そして、この国が数百年も抱えてきた、英雄信仰という仕組み。その二つが、あの北の闇の底で、一本の糸で繋がっている。理屈ではない。ただ、そういう予感だけが、はっきりと背骨を這った。
なぜこの国は、英雄という光をこうまで欲しがるのか。ヴェルナーは、何をあれほど恐れていたのか。その答えの底に眠るものを、二人はまだ知らない。
穏やかな芽吹きの陰で、いちばん深い闇が、北の空で静かに脈を打ちはじめていた。
ありがとうございます。
「その隣に、おまえがいてくれるか」。ようやく、穏やかな時間が訪れました。もう崇拝でも恩でもない、対等な二人。……だが、北の空が、脈打っています。ヴェルナーの死を境に、強くなる、魔王の気配。旅は、いちばん根の深い真実へ向かいます。次回、封印の秘密が明かされます。




