第39話 四十年の闇
第39話。ヴェルナーとの、決着。四十年の闇と向き合います。
瘴気の化け物と化したヴェルナー。その闇は確かに、魔王と融合したギルバートに勝るとも劣らぬ濃さだった。
だが、アレンとエレノアの連携は、それを上回った。
アレンが五つの神域武装を束ねて瘴気を削り、エレノアの聖光がその隙を埋め、二人の力を繋ぐ。攻めと守り。奪ったものと、与えられたもの。言葉を交わすまでもない。どちらが前に出て、どちらが退がるか、視線ひとつで決まる。何度も死線を越えてきた二人の呼吸が、化け物をじりじりと追い詰めていく。
そして、忘れてはならない。二人はもう、二人だけではなかった。逃げたはずの民の一部が、広場の端で足を止めていたのだ。真実を語った青年ユリウスも、瓦礫の陰から拳を握って見守っている。恐怖に背を向けず、踏みとどまる者が、少しずつ現れはじめていた。ヴェルナーの恐怖信仰が、早くも綻びはじめた証だった。
「なぜだ……なぜ、たかが二人ごときに、この私が……!」
ヴェルナーの爛れた声が軋む。
「私はこの国を四十年、陰から支えてきた……! 私がいなければ、この国はとうに崩れ、また血の海に沈んでいた……! なのに、なぜ私が、悪者にされねばならぬ……!」
「支えてた、だと」
アレンの声に、初めて怒りに似たものが滲んだ。
アレンは押し寄せる瘴気を金剛盾で斬り払いながら言い返した。この期に及んで、まだ自分を正義だと信じている。その揺るがなさが、いっそ哀れだった。
「おまえがやってたのは、支えるんじゃない。腐らないよう、防腐剤を打ち続けてただけだ。見た目は保つ。だが中身は死んでいく。ボルドも、クラリスも、ギルバートも。おまえの防腐剤に漬けられて、人間じゃなくなっていった」
「黙れ……! では、どうしろと言うのだ! 民は弱い! 愚かで、移ろいやすい! 導く者がなければ、羊のように迷い、狼に食われるだけだ……!」
「迷えばいい」
アレンは即答した。
ヴェルナーの瘴気の動きが、ぴたりと止まった。予想もしなかった答えだったのだろう。四十年、迷わせないことを正義としてきた男には。
「迷って、間違って、それでも自分で選ぶ。転んで、立ち上がる。それが生きるってことだ。おまえは民から、その迷う権利まで取り上げた。迷わなくていいように先回りして、上等な光を与え続けた。それは優しさじゃない。飼い慣らしだ。支配だ」
そのひと言に、ヴェルナーの瘴気が大きく揺らいだ。まるで四十年、鎧のようにまとってきたものに、ひびが入ったように。攻撃の勢いが、目に見えて鈍った。
四十年、彼を突き動かしてきた、たったひとつの信念。民は弱い、導かねば――その信念のいちばん柔らかい急所を、アレンは突いたのだ。
導くことと、支配すること。守ることと、縛ること。その境目を、この男は四十年のあいだに、いつしか見失っていた。良かれと信じたまま。
「……私は」
化け物の奥で、老いた声が震えた。
「私はただ、この国を守りたかっただけなのだ……戦乱の世を知っている。私はあの世に生まれた。英雄なき国がどれほど脆く崩れ、民がどれほど血を流すかを、この目で見た! 私はあの地獄を、二度と見たくなかった……! だから、光を。すがるための、光を……!」
化け物の巨体が震えていた。怒りではなく、恐怖に。四十年前の、遠い戦火の記憶に。その声には初めて、悪ではない、切実な痛みがあった。
ヴェルナーもまた、囚われた者だった。若き日に見た戦乱の地獄。その恐怖に四十年、囚われ続けた。だからどんな手を使ってでも安定にしがみついた。偽りの英雄を、造り続けてでも。
「……あんたの恐れは、分かった」
アレンの声が、わずかに和らいだ。剣を握ったまま、それでもその目から、憎しみだけは消えていた。
「あんたが見た地獄は、本物だったんだろう。だからあんたは必死だった。それは認める。だが、あんたのやり方は間違ってた。恐怖に縛られたまま、他人まで縛った」
アレンは束ねた武装の力を、一点に収束させた。
「終わりにしよう、ヴェルナー。あんたの四十年の恐れも、もう下ろしていい。この国はあんたが思うより、ずっと強い。迷いながらでも、転びながらでも、立てるさ。俺がそう育てる。何年、何十年かけてでもな」
その声には、勝ち誇る色はなかった。ただ、長く重いものを背負ってきた老人への、労わりのような響きがあった。倒すべき敵に、そんな声をかける自分が、アレンにも不思議だった。だが、この男の四十年を思えば、それ以外の言葉は出てこなかった。
エレノアが駆けもどり、白金の光をアレンへ注ぐ。二つの光が溶け合い、混じり合って、一本の光の柱となって収束していく。攻めと守りが、ここでひとつになった。
「――全武装共鳴」
全武装共鳴の光が、瘴気の化け物を真っ向から貫いた。恐怖から湧く闇と、二人の絆から生まれる光。相反する二つが正面からぶつかり、火花のように鬩ぎ合い、そして最後には、光が闇を呑み込んだ。
魔王の残滓が断ち切られ、光の粒となって砕け散る。膨れ上がっていた化け物の体が、みるみるしぼみ、元の痩せた老人へと戻っていった。
瘴気の消えた壇上に崩れ落ちたヴェルナーのそばに、アレンは静かに膝をついた。
老宰相の命は、もう尽きかけていた。器なき身に魔王の力を宿した代償だった。だがその顔は、長年の憑き物がすっかり落ちたように、不思議と穏やかだった。
「……妙な気分だ」
ヴェルナーが掠れた声で言った。
「四十年、肩に載せてきた重石が、今、下りた。あなたに下ろしてもらった。私はずっと、怖かったのだな。あの戦乱の地獄が。だから握りしめて、離せなかった」
「もう、いい。全部、下ろせ。あんた一人で抱えるには、四十年はあまりに長すぎた」
アレンは、その黒く変色したままの手を、そっと握った。敵の手を握るというのは、妙な心地だった。だが、そうせずにはいられなかった。
「……この国を頼む、勇者殿。いや、英雄にならぬあなたに頼むのが、皮肉なものだが、いちばん正しいのかもしれませんな。英雄を造り続けた私が、最期に、英雄にならぬ者に国を託すとは」
掠れた笑いがこぼれた。自嘲と、けれどどこか、安堵の混じった笑いだった。最期に老宰相は、四十年の宮廷暮らしでついぞ見せなかった、素の笑みを浮かべた。仮面のない、ひとりの老いた人間の顔で。そして静かに目を閉じ、二度と開くことはなかった。
四十年の闇が終わった。この国を裏から縛り続けてきた糸が、断たれた。偽りを剥ぎ取る旅の、いちばん大きな敵は倒れた。だがそれは終わりではなく、本当の始まりの、始まりだった。
アレンはしばらく、その亡骸を見おろしていた。憎むべき敵だった。すべての偽りの英雄を造った、諸悪の根。だがその最期に湧いたのは、憎しみではなかった。ただ、深く静かな憐れみだった。この男もまた、恐怖に囚われた一人の人間だった。誰もその重石を、下ろしてやらなかった。
「……安らかに。あんたの見た地獄は、俺が二度と来させない。英雄に頼らずとも、この国が立てるように。時間はかかるが、必ず」
糸の切れたこの国が、これから自分の足で立てるかどうか。それはこれからの、民にかかっていた。
最後までありがとうございます。
「迷えばいい」。迷い、間違い、それでも自分で選ぶ。それが生きること。ヴェルナーは、民から迷う権利まで奪っていた。だがこの男もまた、若き日に見た戦乱の地獄に、四十年、囚われていた。憎みきれない敵に、アレンは労わりの言葉を手向けます。次回、芽吹きの陰に、不吉な兆しが。




