第38話 信仰の炉
第38話。ヴェルナーが、魔王の残滓に手を出します。恐怖で、民をまとめ直すために。
民の心が、潮のように自分から離れていく。ヴェルナーはそれを、四十年研ぎ澄ましてきた肌で、はっきりと感じ取っていた。
四十年をかけて築き上げた英雄信仰の絵図が、たった一人の青年の告白と、二人の勇者の言葉で、音を立てて崩れていく。壇上を仰ぐ数千の顔から、あの盲目的な熱がゆっくりと引いていくのが見えた。それでも、宮廷の闇を泳ぎ抜いてきたこの老宰相は、この期に及んでまだ諦めていなかった。
「……よろしい。ならば致し方ありませんな」
ヴェルナーは壇上で、静かに袖から黒い宝珠を取り出した。禍々しい紫の光を放つ石だ。
その一瞬、アレンの背すじを氷のような悪寒が走った。見覚えがある。忘れるものか。ギルバートが取りこもうとした、あの魔王の残滓。その砕けたかけらだった。
「まさか、おまえ……その石は……!」
「ギルバート殿下の儀式の、残り物ですよ。こんなこともあろうかと拾っておきました」
ヴェルナーは淡々と言った。
「殿下はこれに呑まれてしくじった。若さゆえ、力に酔ったのです。だが私は殿下ほど弱くはない。四十年、この国のあらゆる闇を飲み下してきた宰相です。この程度の闇なら、道具として御しきってみせる」
言うなり、ヴェルナーは魔王の残滓を握りしめた。石は待ちかねていたように脈打ち、飢えた根のように老人の腕へ食い込んでいく。
「宰相様……? 何を……」
傍らのユリウスが、青ざめた顔で後ずさる。四十年、この国を裏から支えてきた老練な政治家。いちばん理性的だったはずのその男が、よりにもよって魔王の力に手を出す。それは、彼の理性がついに追い詰められた証だった。
いや、とアレンは思い直す。これもまた理性なのかもしれない。民にはすがる対象が要るという、揺るがぬ結論。それを守り抜くためなら悪魔にでも身を売る。それがヴェルナーの、四十年の答えだった。目的のためなら己の肉すら惜しまぬその冷徹さこそ、この男を宰相たらしめてきたものだった。
紫の瘴気が老いた体を包みこむ。骨がみしみしと軋み、萎びた肉が不気味に盛り上がった。皺だらけだった手が、墨を流したように黒く変色していく。壇上の荘厳さは、一瞬で悪夢の景色に変わった。
「民がもう、英雄にすがらぬというなら」
ヴェルナーの声が二重に響いた。
「恐怖で従わせるまで。崇めるものが光でなくともいい。恐れるものさえあれば、民はまた一つにまとまる。この私という恐怖の下に」
アレンは歯を食いしばった。この男は、どこまでも本気だった。英雄信仰が崩れるなら、今度は恐怖信仰を造る。飴が効かぬなら鞭で、人をすがらせ続ける。そのためなら魔王の力すら、ためらいなく手段にする。四十年の歪んだ確信が、この老人を静かに化け物へと変えていく。悪意ではなく信念で――それがいっそう恐ろしかった。
「エレノア、ユリウスと民を頼む!」
アレンは震える青年をエレノアに預けた。エレノアはユリウスと逃げ惑う民を、聖光の傘で守りに回る。まず逃がす。巻き込ませない。二人の、いつもの役割分担だった。
アレンはたった一人、壇上の化け物へと向き直った。腹を括る。逃げ場のない広場で、守るべき民を背にして、退くという選択肢は端からなかった。
膨れ上がったヴェルナーの体が、瘴気の腕を振るった。広場の石畳が抉れ、砕けた破片が礫となって降りそそぐ。ギルバートのときと同じ、魔王の力。だがアレンは、もうそれを知っていた。
「同じ手は二度は食わん。魔王の力なら、四年前に本体を斬ってる」
金剛盾で瘴気の奔流を受け止め、疾風の小手で懐へ飛び込む。奪い返した五つの神域武装、そして収蔵した無数の名もなき力。そのすべてを束ねて。もう、四年前に腱を切られた男ではない。
「これで終わりだ、ヴェルナー」
瘴気の腕を幾度も斬り払う。だが斬っても斬っても、闇は再生した。断ち切った端からどす黒い煙が渦を巻き、また同じ腕を編み上げていく。魔王の力は無尽蔵に湧いてくる。ヴェルナーの確信が、闇を絶えず供給し続けているのだ。倒しきれない。まるでこの国の病そのものと殴り合っているようだった。汗が顎を伝い、腕の芯が痺れはじめても、アレンは足を止めなかった。
だが化け物は嗤った。
「終わり? いいえ。私を倒しても、何も終わりませんぞ、勇者殿」
瘴気の奥で、ヴェルナーの爛れた目が光る。
「私がいなくなっても、民のすがりたいという心は残る。次の私がまた現れる。英雄を造る者も、恐怖を売る者も、人が弱いかぎり無限に湧いて出る。あなたはいったい、何と戦っているのか。分かっておられるのか」
その問いは、これまでアレンの胸に幾度も去来したものと同じだった。ボルドを倒しても、クラリスを暴いても、ギルバートを討っても、病の根は少しも断てなかった。倒すそばから次の偽物が生えてくる。無限のモグラ叩き。
その言葉が、振り上げた剣を一瞬だけ鈍らせた。そうだ。ヴェルナーを倒しても、この国の病そのものは消えない。すがりたいという人の心がある限り、第二の、第三のヴェルナーがまた生まれる。剣で斬れる相手を斬っても、根は断てない。
だが。
「……そんなことは、とっくに分かってる」
アレンはそれでも、剣を強く握り直した。
「おまえを倒しても病は残る。すぐには変わらん。だが今日ここで、おまえの造った嘘が民の前で崩れた。それを民は見た。ひとつの種が蒔かれたんだ。すぐには芽吹かなくても、いつか」
剣を握る手に、あらためて力がこもった。彼は瘴気の化け物を、まっすぐ見据えた。
「おまえみたいなやつを必要としない民が育つ。俺はその最初の一歩を蒔きに来た。何十年かかってもな。俺が生きてるうちに間に合わなくてもいい。種さえ蒔ければ」
その言葉に、瘴気の化け物が一瞬たじろいだ。見返りのない、そんな気の長い戦いを、ヴェルナーには理解できなかった。四十年、目先の安定だけを追ってきた男には。
剣で斬れないものと戦いながら、それでも剣で斬れるものは斬る。目の前の恐怖の化け物を、まず止める。その一歩ずつしか道はない。
そのとき、離れた場所から澄んだ声が飛んだ。
「アレン様、一人にはしません!」
ユリウスと民を安全な場所へ逃がしきったエレノアが、白金の光をまとって駆けもどってくる。
「二人でなら、断てない糸になれる。あの日と同じです」
その声が、鈍りかけたアレンの剣に、もう一度熱を通した。そうだ。この闇が確信から湧くなら、こちらは二人の絆から力を汲む。片方が守り、片方が斬る。より合わせた糸は、一本ずつでは断たれても、二本では簡単には切れない。
化け物と化したヴェルナーが咆哮をあげた。広場の民が悲鳴とともに逃げ惑う。だが逃げ惑いながらも、彼らの目は壇上に釘づけだった。
恐怖に従うのか。それとも――その分かれ道に、いま数千の民が立たされていた。ヴェルナーが恐怖でまとめ直そうとする、その民が、アレンの言葉に蒔かれた種を抱えたまま、どちらを選ぶのか。
信仰の炉と化した男。四十年の闇をまとった、この国の病の化身。それとの決着が、いま始まろうとしていた。偽りを剥ぎ取る旅の思想戦は、ついに剣を交える局面へと、雪崩れこむ。
ありがとうございます。
「あなたは何と戦っているのか」。ヴェルナーの問いは鋭い。倒しても、すがりたい心が残るかぎり、次が湧く。それでもアレンは、種を蒔きに来たと言い切ります。何十年かかっても。斬れないものと戦いながら、斬れるものは斬る。次回、決着です。




