第36話 担がれた青年
第36話。二つの声が、王都でせめぎ合います。造る英雄と、立たせる言葉と。
そんな中、傀儡の青年ユリウスが、助けを求めて訪ねてきます。
ヴェルナーとの思想の戦いが宣言された、その日から。王都では奇妙な二つの声が、せめぎ合いはじめた。
ひとつは、宰相ヴェルナーの造る声。広場という広場で、傀儡の英雄ユリウスが讃えられる。楽団が鳴り、花が撒かれ、詩人がその武勇をうたう。新たな英雄がこの国を導く、と。
もうひとつは、アレンとエレノアの、地を這う声。派手さは何もない。ただ二人は、路地から路地へ歩いて回り、名もなき者たちにしゃがみこんで語りかけた。あなたにも立てる、と。
光の量では勝負にならなかった。ヴェルナーの絢爛たる祭りに対して、こちらは囁きのような、地道な対話だけ。
だが、その囁きは少しずつ、確かに根を張りはじめていた。派手な祭りは一日で消える熱だ。だが心に落ちた小さな種は、消えない。自分にもできるかもしれない――そのたったひとつの思いは、誰にも取り上げることができない。ヴェルナーの絵筆でも消せない。それだけが、アレンの頼みの綱だった。
「聞いたか。白金の英雄様も、もとはこの路地の孤児だったって」
「じゃあ、うちの子も。頑張れば」
「英雄様にすがるんじゃなくて、自分でなんとかしろって、ことか」
「……そんなこと、考えたこともなかったな」
路地の隅で、人々がぽつり、ぽつりと語りはじめる。井戸端で、酒場の片隅で、その言葉は口から口へと、静かに伝わっていった。上から与えられる光を拝むだけだった民が、初めて自分の足元を見はじめる。誰かに与えられるのを待つのではなく、自分の手で何かを掴めるのではないか、と。小さな、けれど確かな変化だった。
だが、ヴェルナーも黙ってはいなかった。
二人が語りかけた路地には、翌日、必ず王家の炊き出しが来た。温かいスープと白いパン。そして、ユリウスの名を讃える触れ。
「英雄ユリウス様の慈悲である。ありがたく頂戴せよ。この恵みを、忘れるでないぞ」
役人の声が、路地に響き渡る。パンの湯気と、ユリウスの名。その二つが、いつも抱き合わせで差し出された。
飢えた民は、そのパンに群がった。当然だった。理想より、目の前の一切れのパンだ。ヴェルナーの言葉は、悔しいほど正しかった。理想では腹は膨れない。空きっ腹に思想は届かない。
「……まったく、いやらしいやり方だ」
アレンは唇を噛んだ。こちらが自分で立てと説けば、ヴェルナーはすがればパンをやると差し出す。飢えた民に、どちらが響くか。答えは残酷なほど明白だった。思想は腹を満たさない。この一点で、アレンは劣勢に立たされていた。
「……悔しいですが、あの手は効きます」
エレノアも暗い顔だった。
「飢えている人に明日の希望を説いても、今日のパンには勝てません。ヴェルナーは、それを知り尽くしています」
「なら、こっちもパンを配るか」
「それでは同じです。すがらせる側に回るだけ。……私たちがパンを配れば、民は今度は私たちにすがる。堂々巡りです」
アレンは天井を仰いだ。正しさだけでは勝てない。かといって相手の土俵に乗れば負ける。出口の見えない迷路だった。剣で斬れる敵なら、どれほど楽だったか。振り下ろせば終わる、そういう戦いなら、何度でもくぐり抜けてきた。だがこの戦いには斬るべき首がない。あるのは飢えと、すがりたいという人の弱さだけ。手応えのない相手ほど、恐ろしいものはなかった。
そんな、ある日の夜。
屋敷をこっそりと訪ねてきた者がいた。頭巾を目深にかぶった、若い男。その頭巾を脱いだ顔を見て、アレンは思わず身構えた。
ユリウスだった。傀儡の英雄。ヴェルナーの新しい筆先。その本人が、供も連れず、たった一人、青ざめた顔で二人の前に立っていた。罠か。一瞬そう疑った。だが、震えるその肩は、芝居には見えなかった。
「た、頼む……助けてくれ……! あんたたちしか、いないんだ……! もう、耐えられない……!」
ユリウスは、崩れるように膝をついた。
椅子に座らせ、温かい茶を出してやると、ユリウスは震える手でそれを受け取った。話を聞けば、ユリウスはただの貧しい家の三男坊だった。畑を耕す以外、何も知らずに育った青年だ。ある日突然ヴェルナーに見出され、英雄に仕立て上げられた。武勇伝も血筋も、全部作り話。本人は剣もまともに振れない。あの白馬の上での堂々とした姿は、幾晩もかけて叩き込まれた、借り物の芝居にすぎなかった。
「最初は、いい暮らしができると思った。……でも、違った。俺はただの飾りだ。ヴェルナー様の言うとおりに笑って、手を振るだけの人形だ。民は俺を崇める。でもそれは俺じゃない。ヴェルナー様が造った偽物を崇めてるんだ……!」
ユリウスの目から、涙がこぼれた。
「怖いんだ。いつかばれる。俺が偽物だって。そうしたら俺は……ボルド様やクラリス様みたいに、みんなの前で引きずり降ろされる……! 俺はそんな器じゃないのに……! 夜も眠れない。飯も喉を通らない。この鎧が重くて、重くてたまらないんだ……!」
アレンは、膝をついて泣くその姿に、これまで倒してきた偽物たちの面影を見た。ボルドも、クラリスも、ギルバートも。最初から悪人だったわけじゃない。ヴェルナーに造られ、偽りの光をまとわされ、そしてその光に溺れ、あるいは押し潰された。ユリウスはいま、その入り口に立っている。まだ、溺れる前の。
「……おまえは、存外賢いな」
アレンは静かに言った。
「溺れる前に逃げてきた。ボルドやクラリスは、それができなかった。おまえは、まだ間に合う」
「で、でも、俺は。逃げたら、ヴェルナー様に殺される……」
「守ってやる」
アレンは迷わず言った。ユリウスが、はっと顔を上げる。
「そのかわり、おまえにはやってもらいたいことがある。命がけの大仕事だ。……おまえの口から、真実を話すんだ。民の前で。自分は造られた偽物の英雄だと。ヴェルナーが、長年、英雄を造ってきたのだと」
ユリウスの顔がこわばった。それはあまりに恐ろしい提案だった。だがそれこそが、ヴェルナーの思想戦を内側から崩す、最大の一手だった。造られた英雄自身が、民の前で、自分は偽物だと告白する。それ以上に英雄信仰の嘘を雄弁に暴くものは、ない。ヴェルナーがどれだけ絢爛な絵を描こうと、その絵の中の英雄自身が、これは嘘だと叫べば、すべては崩れる。
「考える、時間をくれ……」
ユリウスは、うわ言のようにつぶやいた。
「俺なんかに……できるだろうか。みんなの前で、自分は偽物だと言うなんて」
「怖いのは当然だ」
アレンは、その肩に手を置いた。
「だが、覚えておけ。おまえがそれを言えたら、おまえは造られた偽物じゃなくなる。自分の意思で真実を選んだ、一人の人間になる。……それは、ヴェルナーの絵の中の英雄より、よっぽど本物だ」
ユリウスは、涙に濡れた顔を上げた。その目に、恐怖と、けれどかすかな光が宿る。生まれて初めて、誰かにおまえ自身になれと言われた者の目だった。借り物の鎧の重さに潰されかけていた青年が、初めて、自分の背中で何かを背負おうとしていた。
傀儡の青年の震える決断に、この国の光のあり方がかかっていた。偽りを剥ぎ取る旅は、思わぬ内側からの協力者を得ようとしていた。ヴェルナーが自ら造った駒が、いまその造り手に牙をむこうとしている。皮肉な綻びだった。
ありがとうございます。
「理想では、腹は膨れない」。ヴェルナーのパン配りに、思想は、なかなか勝てません。だが、ヴェルナーが造った駒・ユリウス自身が、造り手に牙をむこうとする。皮肉な綻びです。次回、偽りの英雄が、自ら嘘を暴きます。




