第35話 名もなきものの証明
第35話。ヴェルナーは、エレノアの出自を暴くと脅します。
だがアレンは、笑って「好きにしろ」と返す。恥じない者から、過去は奪えません。
エレノアの過去を聞いた翌日、宰相ヴェルナーから二度目の使いが来た。
招きに応じて王宮へ向かうと、老宰相は相変わらずの穏やかな笑みで、二人を迎えた。だがその日の言葉には、前回よりもはっきりと刃が含まれていた。焦りの裏返しだったのかもしれない。
「勇者殿。そろそろ、ご返事をいただけますかな。……玉座に就いていただけるのか、否か」
「断ると言ったら、どうする」
「それは困りますな。ひどく」
ヴェルナーは茶をすすった。
「その場合、私はあなたの隣の英雄エレノア殿について、ある真実を民に公表せねばならなくなる。白金の英雄が、実は名もなきスラムの孤児であったと。私が拾い、仕立て上げた、造りものであったと」
脅しだった。エレノアの出自を暴く。民の崇める清らかな英雄が、ごみだめ育ちの作りものだったと知れれば、その権威は地に堕ちる。エレノアは象徴としての価値を失う。
昨日までのエレノアなら、この脅しに青ざめたに違いない。いちばん隠したかった過去。恥じ、恐れ、蓋をしてきた始まり。それを人質に取られて。だが昨日の夜、彼女はその過去をアレンにすべて打ち明けた。そしてアレンは、それを受け止めた。だからもう、この脅しは二人には効かない。
アレンは、ふっと笑った。挑発を受けるどころか、面白がるように。
「好きにしろ」
ヴェルナーの笑みが、初めて止まった。
「……なんと、申されました」
「公表しろ。全部だ。エレノアがスラムの孤児だったこと。病で捨てられて、死にかけたこと。……それをおまえが暴くというなら、俺はむしろ感謝する」
アレンは身を乗り出した。
「なぜなら、それはこの国でいちばん力のある証明になるからだ。名もなきスラムの孤児が、誰にも選ばれなかった子どもが、自分の力で当代最強の英雄になった。それを聞いたスラムの子どもたちは、どう思う」
ヴェルナーの目が細くなった。
「自分にもできるかもしれない。そう思うだろうな。英雄は選ばれた者だけがなるもんじゃない。血筋でも、王家の紋章でもない。ただの名もない誰かが立ち上がれば、なれるんだと。おまえの造ってきた、選ばれた英雄の物語を。エレノアの真実は、根っこからひっくり返す」
ヴェルナーの茶碗が、卓の上でかたりと鳴った。動揺を隠しきれていない。四十年、誰もこの老宰相に、こんな切り返しをしてこなかったのだろう。脅しはたいてい効いてきたのだ。相手の隠したい過去を握れば。だがアレンとエレノアは、その過去を恥じていなかった。恥じない者から過去を奪うことは、できない。
ヴェルナーはしばらく沈黙した。この老宰相の四十年の商売は、英雄は特別な者だけがなるという幻想の上に成り立っていた。民が自分には無理だと諦めるからこそ、上から英雄を与えてやる彼の商売が成り立つ。だが、もし民が自分も立てると気づいてしまったら。すがるのをやめてしまったら。ヴェルナーの造る英雄は、誰にも必要とされなくなる。
それはこの老宰相にとって、四十年築き上げてきたものが根こそぎ崩れることを意味した。彼の存在意義そのものが消える。だからこそヴェルナーは、決して民に自分で立てとは言わせない。すがらせ続ける。それが彼の生きる術だった。
「……あなたは」
ヴェルナーの声が低くなった。仮面の下の素の顔が、初めて覗いた気がした。
「英雄信仰そのものを、壊す気か。この国の力の根幹を。……それがどれほど無謀なことか、分かっているのか。民はそう簡単には変わらん。すがることに慣れきっている」
「ああ。無謀でも、やる」
アレンは迷わずうなずいた。
「英雄がいなきゃ立てない国なんて、脆いだけだ。一人倒れれば、崩れる。……現に、この国はそうなりかけてる。俺が目指すのは、英雄がいなくても、民一人ひとりが自分の足で立てる国だ。時間はかかる。何年、何十年かかっても。だが、それが本物だ。おまえの造る偽物の光より、ずっと」
エレノアが、アレンの隣で静かに微笑んでいた。自分のいちばん隠したかった過去。それをアレンは、恥じるどころか、いちばん強い武器に変えてくれた。ごみだめの孤児だった過去を、希望の証明に。
「私の出自を、使ってください」
エレノアははっきりと言った。
「私はもう、恥じません。名もなき孤児が英雄になった。それが誰かの希望になるなら、喜んでこの過去をさらします。……あなたがそう言ってくれたから。恥じるなと。誇りに思うと。そう言ってくれたから」
ヴェルナーは二人をじっと見ていた。その顔に初めて、余裕ではない別の色がよぎった。脅しは通じなかった。人質に取ったはずの過去を、二人は恥じるどころか、笑って差し出してみせた。宮廷の理屈が、まるで通じない相手だった。
「……ふ。面白い。四十年で、初めて言われる言葉ばかりだ」
ヴェルナーがぽつりとつぶやいた。
「四十年、この宮廷でいろいろな英雄を見てきたが、あなたのような者は初めてだ。……いいでしょう。ならば、これは思想の戦いですな。私の造る、すがるための英雄と。あなたの言う、すがらぬための証明と。どちらがこの国の、民の心を掴むか」
王宮を出た二人は、その足でスラムへ向かった。
かつてエレノアが捨てられた、あの路地。いまも名もなき子どもたちが、飢えてうずくまっている。エレノアはその一人ひとりにしゃがみこんで、語りかけた。
「私はね。昔、あなたと同じだったの。この路地で、病で死にかけていた。名前もなかった。……でも、いまは白金の英雄と呼ばれている」
子どもたちが目を丸くする。まさか、あの白金の英雄様が、自分たちと同じこの路地の出だなんて、と。泥にまみれた小さな手が、おそるおそる、エレノアの白い手袋に触れた。汚れることを恐れず、彼女はその手を、そっと握り返した。
「特別な血筋なんて、なかった。魔法の才も、最初はなかった。ただ、生き延びて、諦めなかった。それだけ。……だから、あなたにもできる。あなたの命は、あなたが思うより、ずっと価値があるの」
それはかつて、少年のアレンが彼女にかけた言葉と、同じだった。もらった温もりを、今度は彼女が、次の名もなき子へ手渡していく。ひとつの優しさが、十数年をかけて、こうしてめぐっていく。
アレンはその光景を、少し離れて見ていた。
――これだ。ヴェルナーの造る英雄に対抗する道は。上から光を与えるんじゃない。一人ひとりに、おまえは立てる、と伝えていく。地道で、途方もなく遠い。だが、これしかない。
剣ではなく、思想で。偽りを剥ぎ取る旅は、いちばん大きく、いちばん根の深い戦いへと踏み出そうとしていた。この国の、人の心のあり方そのものを賭けた戦いへ。
王宮を出る際、アレンは廊下の壁に掛かった、古い地図に目を止めた。
王国の西の果てに、手のひらほどの白い空白があった。地名も、山も、川も、ない。それなのに、まわりの道だけが、まるでその場所を避けるように、不自然に歪んでいた。
「地図が、作りかけのままに見える」
「そこだけ、名前がないのですね」
エレノアの声に、アレンはなぜか胸の奥が冷えるのを感じた。ただの古い地図だ。そう思って、二人はその場を後にした。
ありがとうございます。
名もなき孤児が、最強の英雄になった。それは「選ばれた者だけが英雄になる」という嘘を、根っこから覆す証明です。二人の答えが、見えてきました。英雄がいなくても、民が自分の足で立つ国。
スラムの子らに語りかける場面が、この回の芯です。もらった優しさを、次の名もなき子へ。次回、思想の戦いが始まります。




