第34話 白金の始まり
第34話。白金の英雄エレノアの、いちばん古い記憶。
名もなきスラムの孤児だった彼女を、救った、たった一人の少年の話です。
暖炉の火が、静かに爆ぜた。
エレノアは膝の上で両手を握り合わせ、ぽつり、ぽつりと語りはじめた。当代最強と謳われた英雄の、いちばん古い記憶を。
「私が生まれたのは、王都のいちばん暗い場所でした。スラムの、そのまた奥。名前も、親の顔も覚えていません。物心ついたときには、もう一人で残飯をあさっていました」
アレンは口を挟まなかった。ただ耳を傾けていた。
「六つか七つの頃、街に悪い病が流行りました。私もかかりました。高い熱で動けなくなって。役に立たない子どもや病人は、まっさきに見捨てられます。私は路地の、ごみだめの隅に捨てられました。誰も水一杯くれなかった」
彼女の声は淡々としていた。だからこそ、その情景のむごさが際立った。
「死ぬのだと思いました。それもしかたない、と。私みたいな名もない子が一人消えたところで、世界は何も困らない。そう思っていました」
アレンの胸が疼いた。その光景を、彼は知っている。四年前、腱を切られ、泥に沈んだあの日々。誰にも顧みられず、指一本動かせぬまま、自分という存在がゆっくり消えていく感覚。エレノアはそれを、まだほんの子どもの頃に味わっていたのだ。しかも、たった一人で。
「そんなとき」
エレノアの声が、わずかに揺れた。
「一人の少年が、通りかかったのです」
彼女の瞳が遠い日を見つめる。慈しむように、焦がれるように。
「まだ十かそこらの、少年でした。旅の、駆け出しの冒険者だったのでしょう。ぼろぼろの外套を着ていました。……その子がごみだめの隅の私に気づいて、しゃがみこんで、こう言ったのです」
「『こんなところで寝てたら、風邪ひくぞ』」
エレノアは、その台詞を宝物のように口にした。
「あんまり当たり前のことを言うから。私、笑っちゃったんです。死にかけてるのに。……その子は自分の外套を私にかけてくれました。それから、なけなしの干し肉と水袋を置いて。熱でうなされる私の頭を、ぽん、と叩いて言いました」
彼女の目から、涙が一粒こぼれた。
「『大丈夫だ。おまえはまだ死なない。……おまえの命は、おまえが思ってるより、ずっと価値があるんだからな』」
その言葉が。名もなく、捨てられ、価値がないと思い込んでいた少女に。生まれて初めて、価値があると言ってくれた、そのたった一言が。
「私の、世界を変えました」
アレンは息をのんだ。どこかで聞いた話のようで、だが思い出せない。十かそこらの、駆け出しの頃。ぼろ外套を着て、あちこちを旅していた。名もない誰かに外套をかけてやったことなど――あったかもしれない。あまりに当たり前すぎて、覚えていないだけで。
「その少年の、名は」
「その子は名乗りませんでした。私が名を聞く前に、じゃあな、と行ってしまった。……たぶん、その子にとっては、道端の石をよけた程度の、なんでもないことだったのでしょう」
エレノアは微笑んだ。泣きながら。
「でも、私にとっては、それがすべてでした。あの外套の温もりが。あの一言が。私を生かした。……私は決めたのです。生き延びて、強くなって、いつかあの子を探し出す。そして返すのだと。もらったあの温もりを、何倍にもして」
暖炉の火が、二人の影を揺らす。
「そこから先は、無我夢中でした」
エレノアは続けた。
「病を生き延びて、強くなるために剣を握りました。女の細腕で、殴られ、蹴られ、それでも食らいついて。……ある日、私の聖光の才に目をつけた人がいました。宰相ヴェルナー。あの人は私を拾い上げ、磨き上げ、白金の英雄エレノアという物語を与えました」
アレンの眉が寄る。あの英雄を造る男が、ここでも糸を引いていた。
「あの人にとって、私は都合のいい素材でした。孤児で、しがらみがなく、聖光の才があり、そして何より、強くなりたいという渇きがあった。ヴェルナーはその渇きを利用して、私を当代最強の看板に仕立てた」
「利用、されたのか」
「はい。でも、私も利用しました」
エレノアの目に、強い光が宿った。
「英雄になれば、誰よりも名が知れ渡れば、あの子を探しやすくなる。あの子がどこかで、私の名を聞くかもしれない。……だから私はヴェルナーの筋書きに乗りました。造られた英雄でけっこう。それがあの子にたどり着くための道なら。私が必死に強くなったのも、英雄になったのも、全部そのたったひとつの願いのためでした。あの子を探すため。あの子にもう一度、会うため。そのために私は、白金の英雄になったのです」
アレンは言葉を失っていた。この女の狂おしいほどの献身。重すぎる溺愛。そのいちばん奥の根っこ。それは、たった一度の、忘れられた優しさへの――四年どころか、十数年越しの返礼だったのだ。
「……で。その少年は、見つかったのか」
アレンが掠れた声で問う。
エレノアは涙に濡れた顔で、じっと彼を見た。その瞳に宿るのは、答えを知っている者の色だった。
「はい。……ずっとあとになって、気づきました。あの子が誰だったのか」
その先を、彼女はまだ言わなかった。だが、その潤んだ瞳が、まっすぐにアレンだけを見つめる、その視線が、答えのすべてを語っていた。
アレンの記憶の底で、何かが少しずつ形を結びはじめた。まだ勇者と呼ばれるずっと前。無名の駆け出しだった頃。王都のスラムを通り抜けたことがあった。ごみだめの隅で震えていた、小さな影。深く考えもせず、外套をかけてやった。そんな記憶の切れ端。当たり前すぎて、その日の夕飯よりあっさりと忘れていた、ひとかけら。
――まさか。
「エレノア。おまえ……あのときの」
「はい」
エレノアはこくりとうなずいた。もう涙を隠さなかった。
「あなたです、アレン様。あの日、ごみだめの私に外套をかけて、おまえの命は価値がある、と言ってくれた、あの少年は。……ずっと探していた、あなたです。四年前、あなたが勇者として王都に現れたとき、あのまなざしを見て、私は確信しました。ああ、この人だ、と」
アレンは、しばらく言葉が出なかった。自分にとっては覚えてすらいない、道端のささいな一幕。それが、この女の人生のすべてを方向づけていた。十数年、たった一つの温もりを頼りに、生き抜いてきた。強くなり、英雄になり、彼を探し続けた。
重すぎると、ずっと思ってきた。その溺愛の重さの正体が、いまようやく腑に落ちた。重いはずだ。それは、命を救われた者の、命がけの返礼だったのだから。
「……俺は」
アレンの声も掠れていた。
「俺は、そんな大した男じゃない。覚えてすらいなかった。……おまえが勝手に、俺を大きくしただけだ」
「それでいいのです」
エレノアは微笑んだ。
「あなたにとってなんでもないことが、誰かのすべてを救うことがある。……あなたはそういう人です。門前の母親を突き放したことを悔いていましたね。でもあなたは、覚えてもいないところで、確かに一人の命を救っていた。それが、あなたです」
白金の英雄の始まり。それは、泥にまみれた、たった一人の少年の名もなき優しさから始まっていた。偽りを剥ぎ取る旅の、いちばん深い場所で。二人の本当の始まりが、いま確かに繋がった。
読んでくださってありがとうございます。この物語の、核心のひとつです。
「おまえの命は、価値がある」。覚えてもいない、アレンのささいな一言が。一人の少女の人生を、まるごと方向づけていました。重すぎる溺愛の、本当の理由。それは、命を救われた者の、命がけの返礼でした。
次回、その過去を、アレンは、いちばん強い武器に変えます。




