第31話 空いた玉座
第31話。ここから、新章「玉座と信仰の章」です。
偽りの王太子を倒したあとに残ったのは、空位の玉座と、大きな穴でした。剣では斬れない、いちばん答えの見えない戦いが始まります。
偽りの王太子が倒れて、七日。その報せは、瞬く間に王都の隅々まで駆けめぐった。
王都は勝利に沸いた。だが、その熱狂の裏で、この国は静かに宙吊りになっていた。
王は老い、病の床にある。跡継ぎの王太子ギルバートは、魔王の力に呑まれて消えた。ほかに、王位を継ぐ正統な血筋はない。玉座はぽっかりと空いた。誰も座っていない。
力の空白は、いつだって新しい争いを呼びこむ。
貴族たちは、次の王座を狙って、水面下で動きはじめた。かつてギルバートに尻尾を振っていた者ほど、いまは素知らぬ顔で、次の主を探している。
辺境では、早くも小競り合いが始まっていた。領主同士がこの機に乗じて、隣の土地を奪おうと兵を動かす。都では、パンの値がまた跳ね上がった。王家が、機能を止めたからだ。
偽りの王を倒した。だが、倒したあとに残ったのは、光ではなく、大きな穴だった。誰かが埋めなければ、その穴に国が飲みこまれる。長年、英雄という一本の柱に寄りかかってきた国は、その柱を失った途端、自分の足で立つ術を忘れていた。
そして、民の声は、ひとつの名に集まりつつあった。
「アレン様を、王に」
その声は、日ごとに大きくなった。地竜を討ち、聖女の裏を暴き、暴君を倒した男。奪われた栄光を取り返した、本物の勇者。民にとって、これほど玉座にふさわしい者はいなかった。
屋敷の門前には、また人が集まっていた。だが今度は、癒やしを求めてではない。
「どうか、王に! あなた様こそ、この国を救う英雄だ!」
「あなた様の御代なら、きっと暮らしも良くなる!」
「英雄王、万歳!」
その熱に、アレンはぞっとした。ほんの数か月前、この同じ声が、ボルドを、クラリスを讃えていた。崇める対象が変わっただけ。声の熱は、まったく同じだった。人々は英雄を求めているのではない。ただ、自分の代わりに背負ってくれる誰かを、探しているだけなのだ。
アレンは窓の内からそれを見おろし、深く息を吐いた。
「……また、これか。懲りない連中だ」
「気が、進みませんか」
エレノアが隣に立った。
「当たり前だ」
アレンは即答した。
「英雄を玉座に担ぎ上げる。それ自体が、この国の病だ。ボルドも、クラリスも、ギルバートも。みんな、その病から生まれた。俺が王になれば、それは病を治すどころか、いちばん重い患者になるってことだ」
彼は、拳を握った。
「俺が欲しかったのは、玉座じゃない。奪われたものを取り返すこと。それはもう済んだ。……なのに今度は、いらないものを押しつけられそうになってる」
エレノアは、その横顔をじっと見ていた。
「でも、断れば」
「ああ。分かってる」
アレンは、苦い顔でうなずいた。
「断れば、この空いた玉座を、また誰かが狙う。腐った貴族か。第二のギルバートか。……俺が拒めば、この国はもっと悪い方向へ転がるかもしれん。それも、分かってる」
崇拝を拒む。その正しさが、また別の危うさを招く。剥ぎ取ったあとの、まっさらな国をどうするのか。剣では斬れない問いが、二人の前に横たわっていた。
「……なあ、エレノア。おまえは、どう思う」
珍しく、アレンは意見を求めた。
「私は」
エレノアは、少し考えてから言った。
「あなたが王になるのは、反対です。あなたを玉座に縛りつけたくない。……でも、この国を見捨てるのも、あなたの性分ではないでしょう」
「よく分かってるな」
「四年、見てきましたから」
彼女は微笑み、それから真剣な顔に戻った。
「王にならずとも、国を正しい形へ導く道は、あるかもしれません。……英雄がいなくても回る国。民が誰かにすがらずとも、自分の足で立てる国。あなたが目指すのは、たぶん、そちらでしょう」
アレンは目を見開いた。この女はいつも、俺のうまく言葉にできない想いを、先に掬い上げる。
「……ああ。そうだ。それだ。英雄がいらない国。それを作れれば、俺が王になんかならなくても済む」
だが、それは口で言うほど、簡単なことではなかった。人は、すがるものを欲しがる。その心そのものを変えねばならない。剣で敵を斬るのとは、わけが違う。相手は、この国じゅうの人々の、根深い習いなのだ。気の遠くなるような話だった。
その夜、屋敷に一人の客が訪ねてきた。
初老の男だった。痩せた長身に白髪をきちんと撫でつけ、物腰は水のように柔らかい。王宮の宰相――ヴェルナー。ギルバートの下で、長く国政を担ってきた男。だが、その目には、宮廷人特有の濁りがなかった。
「勇者アレン殿。……単刀直入に申し上げる」
ヴェルナーは、深く頭を下げた。
「どうか、玉座に就いていただきたい。いや、これは私の私欲ではない。国が割れかけている。あなたが立たねば、内乱は避けられません。すでに複数の貴族が、私兵を集めはじめている」
「俺は、王の器じゃない」
「器などとは、後からついてくるもの。……民がこれほど、一人の人間を信じたことが、かつてありましたか。ボルドやクラリスへの盲目の信仰とは違う。民は、自分の目であなたを選んだのです」
「……買いかぶりだ」
「いいえ。私は四十年、この宮廷で、数えきれぬ英雄が生まれては消えるのを見てきました。そのうえで申し上げている。あなたは、違う」
ヴェルナーの言葉には、妙な説得力があった。だからこそ、アレンは警戒した。心地よい言葉ほど、疑ってかかる。四年間、泥の底で身についた習い性だった。
その言葉は、アレンの胸を突いた。崇拝ではなく、信頼で選ばれた。それは確かに、これまでとは違う。だが。
「……少し、時間をくれ。こういうことは、勢いで決めるもんじゃない」
アレンは即答を避けた。心のどこかで、警鐘が鳴っていた。うまい話には、裏がある。四年前、それで一度、死にかけた。
ヴェルナーは、それ以上は食い下がらなかった。無理強いをしない、その引き際の潔さすら、どこか計算されたもののように見えた。静かにうなずき、宰相は去っていった。
扉が閉じ、宰相の足音が遠ざかる。その背を見送って、エレノアがぽつりと言った。
「……あの宰相、どこかでお会いした気が」
彼女の顔が、わずかに曇っていた。眉のあいだに、細いしわが刻まれている。何か引っかかるものが、あるらしい。
「知り合いか」
「いえ。ただ……ギルバートのいちばん近くにいた男が、なぜ殿下が倒れた途端、こんなにもあっさりと、あなたに頭を下げるのか。宮廷を四十年生き抜いた古狸です。……忠義で動く人では、ありません」
アレンも、同じことを感じていた。ヴェルナーの言葉は正しかった。正しすぎた。まるでアレンが断れないように、練り上げられていた。
「泳がせてみるか。あの宰相が、何を企んでるのか。……乗るふりをして、腹の底を探る」
「危険です。でも……それがいちばん、早いかもしれません」
二人はうなずき合った。剣ではなく、腹の探り合い。慣れない戦場だが、退くわけにはいかなかった。
空いた玉座をめぐる、新しい戦い。それは剣ではなく、人の心と思惑がうずまく、これまでとはまるで違う戦場だった。剥ぎ取ったあとに、何を据えるのか。壊すより、築くほうがずっと難しい。偽りを剥ぎ取る旅は、いちばん答えの見えない局面へと、入りこんでいく。
読んでくださってありがとうございます。
民は、アレンを新たな英雄王にと望みます。数か月前、ボルドを讃えたのと同じ口で。崇める対象が変わっただけ。アレンが崇拝を拒む理由が、ここにあります。
そこへ現れた宰相ヴェルナー。うますぎる話には、裏がある。次回、この国の病の、本当の正体が見えてきます。




