第3話 三日の支度
第3話です。いよいよ、最初の反撃に向けた支度が始まります。
闇のせり市まで、あと三日。二人の距離が、少しずつ近づいていく、その手前の時間を書きました。
安全な朝ほど、アレンにはこわいものはなかった。いつこれを取り上げられるのかと、つい身構えてしまう。
朝の光で、目が覚めた。
やわらかい寝台、清潔な布のにおい。四年ぶりの、まともな眠りだった。悪い夢は一度も来なかった。
視線を横へ向けて、アレンは動きを止めた。
寝台のわきの椅子で、エレノアが眠っている。膝を抱え、こちらへ体を傾けたまま。夜どおし、そばにいたのだ。約束を、律儀に守って。
白金の髪が、朝日に透けている。無防備な寝顔は、大聖堂の窓絵の英雄ではなく、ただの一人の娘に見えた。
起こさないよう、アレンは毛布を彼女の肩へ引きあげた。指先が少しこわばる。こういうことのやり方を、もう忘れかけていた。
「……ん。おはよう、ございます」
エレノアが目を開けた。彼を見るなり、寝ぼけていた顔がぱっとほころぶ。
「朝、いちばんにあなたの顔が見られる。……なんて贅沢な朝でしょう」
「大げさだ」
そっけなく返しながら、アレンは顔をそむけた。耳のあたりがじんと熱い。
支度に使える日は、三日しかなかった。
朝食のあと、エレノアは一枚の招待状を卓に置いた。黒い封蝋に、蛇の紋章。
「貴族街の地下で開かれる、闇のせり市です。表向きは古美術の競売。実際は、奪われた武具や後ろ暗い品が売り買いされる場所」
「そこに、疾風の小手が出る」
「はい。モルガン侯爵が手放すそうです。血の匂いのする品は、長く持てば持つほど持ち主の運を吸いますから。……あの豚はそれを知らずに、ただ金に換えるつもりでしょう」
アレンは招待状を手に取った。指先で、蛇の紋章をなぞる。
「危ない橋だな。素性がばれれば」
「その場で始末されます。あの地下では、王家の目も光っています。王太子ギルバートの手の者が、まぎれているかもしれません」
エレノアの声が、わずかに硬くなった。彼を危険にさらすことを、本気で恐れている顔だった。
「それでも、行きます。あなたの脚を奪ったものを、これ以上あの豚に握らせておけない」
「潜りこむ手は」
「二人で、田舎の新興貴族の夫婦を装います。私の顔は、少し隠します。……いやですか」
「夫婦、のところがか」
「あら」
エレノアが、いたずらっぽく目を細めた。
「では、恋人でも。どちらでも、うれしいです」
アレンは黙って招待状を置いた。この女の言葉はいつもためらいがなさすぎて、受け止め方が分からない。
昼すぎ、二人は街へ出た。
エレノアは飾り気のない外套に髪を隠している。それでも、にじみ出る気品までは消せない。すれ違う者が、思わず振り返るほどだった。
目当ては下町の武具屋、というより、がらくた屋だ。折れた剣、欠けた槍、錆びた盾。誰も見向きもしない鉄くずが、山と積まれている。
店主の老人が、胡散くさそうに二人を見た。
「そんなくず鉄、買ってどうする。かまどの薪にもならんぞ」
「全部だ。値をつけろ」
アレンは山のなかから、折れた短剣を一本、抜き取った。刃こぼれした、名もない兵士の得物。
――視界に、文字が浮かぶ。
――――【概念強奪 開始】――――
【名称】欠けた投げ短剣、ほか三十七点
【来歴】名もなき兵士たちの、名もなき最期。誰にも看取られず。
【状態】まとめて概念を掌握。実体は錆へ還元。
【収蔵効果】総収蔵数、四十点を突破。筋力・敏捷、小幅上昇。
――――――――――――――――
積まれた鉄くずが、次々と光になり、アレンの掌へ吸いこまれていく。一本、また一本。塵のような力でも、集めれば山になる。
体の芯が、じわりと熱を帯びた。奪われる前の感覚が、少しずつもどってくる。
アレンは、光になる直前の一本をしばらく見つめた。柄に、小さな刻印がある。誰かの名の頭文字。もう思い出す者もいない、兵士の証だ。
「……悪いな。おまえの名は、俺が覚えておく」
その刃を収めた瞬間、頭の奥に、見知らぬ記憶がひとすじ流れこんだ。故郷を守ろうとして果てた若い兵士の、最後の景色。母の顔。届かなかった帰郷。
これが、この力のもう一つの顔だった。奪った武具の来歴と、持ち主の無念が、そのままアレンの中へ流れ込む。強い武具ほど、記憶は重い。忘れることを、許されない。
だからこそ、と思う。彼らの意志を、無下にはできない。その願いに背いて振るえば、力は濁り、いつか己を蝕む。奪うとは、背負うことだ。
アレンは、まぶたを伏せた。捨てられ、忘れられた鉄。それを拾い、意志ごと継いで、力に変える。それが、自分にできる、せめてもの弔いだった。
ふと、いつもの疑問が胸をよぎる。
この力を、いつ、誰から授かったのか。アレンは思い出せなかった。栄光を奪われ、名を忘れられ、泥の底に沈んだ、あの絶望のさなかで。気づけば、掌に宿っていた。いちばん深く忘れられた者にだけ、そこへ差しだされたかのように。
奪われた者が、奪い返すための力。……いや、ちがう。返すための力だ。誰かが何もかもを奪い、忘れさせていく。その、ちょうど裏返しのように、この力は働いた。世界のどこかにいる巨大な奪う者へ、たった一人で抗おうとするかのように。
考えても、答えは出ない。アレンはその問いを、いつものように呑みこんだ。
「すごい……」
エレノアが、頬を上気させて見つめている。
「あなたは、捨てられたものにもう一度、命を吹きこむのですね。……まるで、あなた自身みたい」
その一言が、思いのほか胸に刺さった。アレンは短く息を吐いて、鉄くずの山に背を向けた。
「感傷はいい。数がすべてだ。せり市までに、できるだけ集める」
だが、口元がわずかに緩んでいたことに、彼自身は気づいていなかった。エレノアだけがそれを見て、微笑んだ。
その帰り道だった。
人混みのなかで、鋭い視線を感じた。外套の男が二人、こちらをうかがっている。堅気の目ではない。
エレノアが、さりげなくアレンの前へ出た。声はあくまで穏やかに。だが、外套の下から、聖光の魔力が細く漏れる。
「見世物では、ありませんよ。……去りなさい。次はない」
男たちはたじろいで、路地へ消えた。エレノアはふり返り、なんでもないように笑う。
「せり市の下見でしょう。買い手の品定めは、もう始まっています」
アレンは、彼女の背を見た。自分をかばうように立った、その背中を。守られることに、まだ慣れない。だが、いやではなかった。
夜。屋敷の広間で、二人は最後の予行をした。
エレノアが、貴族の作法をアレンに教える。歩き方、椀の持ち方、女の手の取り方。腱の切れた右手では、うまくいかないところもある。
その手を、エレノアが下から支えた。
「こうです。私が、ずっと支えますから。……せり市でも、その先でも」
やがて余興のように、彼女が舞踏の型を教えはじめた。片手を取り、腰に手を添え、歩調を合わせていく。
顔が近い。白金の髪から、花のような香りがした。アレンの鼓動が、思わず速くなる。
「……近いな」
「はい。近くにいたいので」
曇りのない瞳に、また言葉を失う。燭台の火が、二人の影を壁に長く落とした。
アレンは、支えられた手を握り返した。ほんの少しだけ。
握り返しながら、心の隅ではまだ声がしていた。信じるな、と。四年前も、こうして手を取り合った仲間に背を刺された。差し出される手のぬくもりほど、恐ろしいものはない。
その迷いを、エレノアは見抜いたらしい。舞う足を止め、彼の目をのぞきこんだ。
「怖いのですね。また、裏切られるのが」
図星をつかれ、アレンは黙った。
「いいのです。無理に信じなくて。……私が、何度でも証明します。裏切らないと。あなたが疑うのをやめるまで、ずっと」
その声に、責める色はひとつもなかった。ただ、静かな覚悟だけがあった。
アレンは、ふっと肩の力を抜いた。この女は急がない。急がず、ただ、そばにいようとする。その不器用な優しさが、凍った心にじわりと沁みた。
「三日後。奪い返すぞ。まずは、一つ」
「はい。あなたの脚を奪ったものを、あなたの手に」
エレノアは、彼の手を両手で包み、額を近づけた。祈るように。
「必ず、取り返しましょう。そして、いつか、その脚でまた駆けられる日を……私に、見せてください」
窓の外、王都の夜が更けていく。
その支度の最後に。エレノアは声をひそめて、一つだけ忠告した。
「潜りこむ先は、〈蛇の地下〉。モルガン侯爵が盗品の武具を裏で競りにかける、闇の市です。……あそこは、金と欲で蛇が巣を張る場所。一度目をつけられれば、生きて出るのは難しい」
「承知の上だ」
「いいえ。まだ、承知していただいていません」
エレノアの瞳が、めずらしく揺れた。
「わたしがいちばん恐れているのは、蛇ではありません。……あそこには、あなたをあの日、泥へ突き落とした誰かも出入りしているかもしれない。もし顔を合わせてしまったら。あなたが、我を忘れないか。……それが、こわいのです」
アレンは、答えなかった。
答えられなかったのだ。切られた右手の指が、その名を思い出すように、ずきりと疼いた。
三日後、闇の市へ潜る。奪われた脚を、取り返すために。だがその闇の底で待っているのが、宝だけとは限らなかった。
読んでくださって、ありがとうございます。
がらくたの山から、名もない兵士の剣を拾う場面が、この話の芯です。捨てられたものを力に変えるアレンの生き方は、そのまま、彼自身の物語でもあります。
エレノアの「怖いのですね、また裏切られるのが」という一言。急がず、ただそばにいようとする彼女の想いを、大事に書きました。次回、いよいよ地下のせり市へ潜入します。




