第26話 鎖のほどけた朝
第26話。妹ミラとの再会。レオンの、鎖のほどけた朝。
そして、戒厳令の鐘が、鳴り響きます。
崩れかけ、瓦礫を落とし続ける塔を、三人は術式の余熱に灼かれながら、命からがら脱け出した。
地上へ出ると、夜が明けかけていた。東の空がうっすらと白み、長い地下の一夜が、ようやく終わろうとしていた。
王宮の外れ、隠し通路の出口で待っていた者がいた。エレノアの手の者に守られた、小さな影だ。
「にい、さま……!」
鈴を転がすような細い声とともに、少女がもつれる足で駆け寄ってくる。折れそうに細い体、血の気の薄い痩せた頬。それでも兄を見つけたその目は、きらきらと輝いていた。レオンのたった一人の妹、ミラだった。
「ミラ……! 無事だったか。どこも痛くないか……!」
冷徹な天才がその場に膝をつき、妹をきつく抱きしめる。そこにはもう合理も計算もなく、ただ兄が、妹の無事に震えていた。
「よかった……本当に、よかった……」
その光景を、アレンとエレノアは少し離れて見ていた。エレノアがそっとアレンの袖を握る。何も言わなかった。言葉はいらなかった。
牢に近い塔の底に、どれほど囚われていたのだろう。細い手首には、拘束の痕が薄く残っていた。それでも兄と再会したいま、少女の顔には安堵の色が戻りつつあった。
やがてミラは兄の腕のなかから、そっとアレンたちを見た。そして、たどたどしく頭を下げる。
「にいさまを、たすけてくださって……ありがとう、ございます」
その素直な声に、アレンは少し面食らった。礼を言われることに慣れていない彼は、ぶっきらぼうに目を逸らす。
「……礼なら、あんたの兄貴に言ってやれ。悪になりきれなかったのは、あんたを守りたかったからだ」
ミラがこくりとうなずくと、その頬に朝日が差した。このたった一人の少女のために、天才は鎖を選んだのだ。その重さを思うと、助けてよかったと、アレンは素直に思えた。
「……アレン」
やがてレオンが立ち上がり、こちらを向いた。
「ひとつ、詫びと報告がある。禁呪兵器の暴走を押さえこむとき、おまえは俺の魔導書を複合励起で酷使した。あの反動で、魔導書の核は砕けた。もう、あの兵器を再現できる者はいない。……だが」
レオンは自分の手を見おろした。
「同時に、俺の魔導の才も、あの一件で焼き切れた。もう簡単な火すら灯せん。……ただの、頭の回る凡人だ」
アレンは息をのんだ。
「すまん。おまえの力まで」
「詫びるな。むしろ、清々している」
レオンは首を振った。その顔には、長年憑いていた何かが落ちたような、奇妙な静けさがあった。
「むしろ礼を言いたいくらいだ。天才であり続けることに、俺は疲れていた。合理ですべてを量り続ける生き方に、な。……力を失って、初めて肩の荷が下りた気がする。これからは、ただの兄としてミラと慎ましく生きる。それでいい。それが、いい」
合理の化身だった男の最後の選択は、合理ではなかった。だが、いちばん人間らしい選択だった。
「妙なものだな」
レオンが乾いた笑いをこぼした。
「才を失って、初めて俺は自由になった。あの塔で、俺は王家に飼い殺しにされていた。だが、それ以前に、俺は自分の才能そのものに飼い殺しにされていたんだ。合理の奴隷として、な。ボルドが虚名に、クラリスが信仰に囚われたように――俺は、俺の頭脳に囚われていた」
その言葉は、この物語がずっと描いてきたものの核心を突いていた。人を縛るのは他人だけではない。手にした力そのものが、いつかその人を縛る鎖になるのだ。
「行き先は、あてがあるのか」
「南の辺境に、ミラの療養にいい土地があるそうだ。エレノア殿が、ひそかに手配してくださっていた。……お尋ね者の身で、他人の逃げ道まで用意するとは。おまえたちは、つくづく変わっている」
レオンはエレノアに深く頭を下げ、それからアレンに向き直った。
「……もし、いつか。おまえがギルバートと決着をつけるとき。この焼け残った頭でよければ、知恵くらいは貸す。呼んでくれ。四年前の詫びの、続きだ」
「ああ。覚えておく」
差し出された手を、アレンはためらわず握り返した。四年前、この男の裏切りが、すべての始まりだった。その手を、いまこうして握れる日が来るとは、あのころの自分には想像もできなかった。裏切りと和解の、四年越しの握手だった。
ミラの手を引き、レオンは朝焼けの道を去っていく。鎖のほどけた背中だった。もう、誰にも飼い殺しにはされない。
その背を見送って、アレンは静かに息を吐いた。
「……三人、片づいた。ボルド、クラリス、レオン。奪われた武装も四つ、戻ってきた」
「残るは、ひとつ」
エレノアの声が引き締まる。
「【断罪の神剣】。持ち主は――王太子ギルバート、その人です」
偽物の英雄たちは、みなそれぞれの結末を迎えた。誰も、ただの悪ではなかった。歪んだ国が生んだ、歪みの産物たち。その大本にいるのが、ギルバートだった。
「ギルバートも、そうなのでしょうか」
エレノアがぽつりと言った。
「あの人も何かに囚われて、ああなったのでしょうか。それとも、あの人だけは本物の……」
「さあな」
アレンは、遠い王宮の尖塔を見た。
「だが、たとえあいつにどんな事情があろうと、俺の脚を奪い、仲間を裏切らせ、この国を光と影に引き裂いた張本人だ。そこだけは揺るがん。……四年前のけじめは、あいつとつける」
だが、その名を口にしたまさにそのとき、王都の方角から、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。
早鐘。緊急を告げる、不吉な連打。朝焼けの街を、その音がざわざわと揺らしていく。
「……戒厳令の鐘です。この音は、間違いありません」
エレノアの顔が青ざめた。
「ギルバートが、王都に戒厳令を敷いたのです。追い詰められて、なりふり構わず、力で街を抑えこむ気でしょう。お尋ね者の私たちを炙り出すために。市門は封鎖され、逆らう者はその場で捕らえられます」
遠くの大通りで、悲鳴と怒号があがった。武装した兵が、逃げ惑う民を追い立てている。パンを買いに出ただけの女が突き飛ばされ、泣き叫ぶ子どもが母から引き離されていく。石畳を蹴る軍靴の音が、朝の街に不吉に反響していた。ついさっきまで穏やかだった通りが、みるみる恐怖に塗り替えられていく。
守られるべき民が、王の兵に追われている。英雄信仰で成り立つ国の、その信仰が、恐怖にすり替わった瞬間だった。
朝焼けの空の下、王都の尖塔に、次々と王家の黒い旗が掲げられていく。追い詰められた偽りの王太子が、ついにその本性を――民を守るためではなく、己の座を守るために力を振るう、暴君の顔をむき出しにしたのだ。
アレンは、去っていくレオンとミラの小さくなった背を、もう一度見た。あの二人だけでも逃がせてよかった。そう思える自分に、少し驚く。四年前、人間不信の塊だった自分なら、他人の兄妹の無事に、こんなふうには思えなかっただろう。
隣に立つ白金の英雄のおかげだ。この女が、凍った心を一日ずつ溶かしてくれたから。
「行くぞ、エレノア。民が追われてる。……見過ごせない」
「はい。もう、隠れる必要もありません。堂々と参りましょう。二人で」
偽りを剥ぎ取る旅は、いよいよ王都全体を巻きこむ、最後の戦いへと突入しようとしていた。
ありがとうございます。
「才を失って、初めて、自由になった」。人を縛るのは、他人だけではない。手にした力そのものが、鎖になる。この物語の、ひとつの芯を、レオンに託しました。
四人目も片づき、残る武装はひとつ。だが、追い詰められたギルバートは、力で民を抑えつける暴君に。次回、光の向きが、変わりはじめます。




