第20話 天秤の祭壇
第20話。大祭。止めれば、繋がれた病人が死ぬ。止めなければ、名もなき者が枯れる。
どちらを選んでも、誰かが死ぬ。天秤の祭壇です。
大聖堂前の広場は、人で埋め尽くされていた。
病を得た者、老いた者、傷ついた者、そしてその家族。数千の民が肩を寄せ合い、癒やしを求めて祈りを捧げている。壇上には青く輝く月雫を高く掲げた聖女クラリスが立っていた。その姿はまさしく地上へ降りた女神そのものだった。誰の目にもそう映るよう、指の先まで計算し尽くされた立ち姿だ。
「さあ、嘆きの子らよ。わたくしのもとへ。あなたがたの苦しみを、光へと変えましょう」
蜜のような声が広場じゅうに染み渡っていく。すすり泣きと感謝の祈りが、さざ波のように人々のあいだへ広がった。
クラリスが月雫をかざす。青い光が波となって、広場のすみずみまで満ちていった。
あちこちで歓声があがる。歩けなかった者が立ち上がり、血を吐いていた者の顔に赤みがもどっていく。一度に数百人が癒やされていく、壮麗な奇跡の洪水だった。
だが、アレンには見えていた。そのまばゆい光の裏で、広場の隅にひとかたまりに集められたみすぼらしい身なりの者たちが、ひそかに崩れ落ちていくのを。
施しを求めてやってきた、最も貧しい者たち。彼らは気づかぬうちに糧にされていた。奇跡の燃料に。
誰ひとり、彼らを見てはいなかった。壇上のまばゆい奇跡に目を奪われて。救われる者の歓喜が大きいほど、隅で崩れる者の声なき悲鳴は、きれいに掻き消されていく。
――これが、この国の縮図だ。
アレンは奥歯を噛んだ。光ばかりをあがめる国。その光の足元にどれだけの影が踏みつけられているか、誰も見ようとしない。まばゆいものだけが正しく、その裏で消えていく者はいなかったことにされる。ボルドもクラリスも、そんな構図の上に咲いたあだ花にすぎなかった。
救われた男が涙を流して聖女を拝んでいる。そのすぐ後ろで、痩せた老人が音もなく倒れていく。同じ広場のなかで、光と影がこれほど残酷に隣り合っているというのに、誰ひとりその境目を見ようとしない。それが、いちばん、こたえた。
「派手にやってるな」
人いきれと香の煙の向こうから、その声ははっきりと壇上へ届いた。
アレンが人垣を割って進み出る。エレノアがその隣に並んだ。
クラリスの慈愛の笑みがわずかに揺れた。だが、すぐに余裕を取りもどす。
「あら。お尋ね者と、その庇護者。……こんな衆人環視の場に、よく顔を出せたこと」
「その奇跡を止めてもらう。おまえは救ってるんじゃない。奪って移し替えてるだけだ。そこの、隅で倒れてる連中からな」
ざわ、と民がどよめいた。何を言っているのか、という顔。聖女を侮辱する不敬者への、怒りの目。
クラリスはそれを見て、ふ、と勝ち誇るように笑った。
「面白いことをおっしゃる。では、止めてごらんなさい。……ただし、よくお考えになってから」
彼女は月雫を高く掲げた。
「いま、この瞬間。この光で命を繋いでいる者が、何百人といるのですよ。心臓を、肺を、この光が動かしている。……もしあなたがこの奇跡を止めれば、その者たちは一斉に事切れる。あなたは数百の病人を殺す、殺人者になるのよ」
アレンの足が止まった。
――そうきたか。
クラリスは盾を作っていた。救った者たちを人質にして。奇跡を止めればその者たちが死ぬ。糧にされる者を救おうとすれば、癒やされた者が死ぬ。どちらを選んでも、必ず誰かが死ぬ。天秤のどちらの皿を切り落とすか、ただそれだけの選択だった。
「どうなさる? 正義の、勇者様」
クラリスの余裕は本物だった。この四年、彼女はこの構図で幾度も追及を退けてきたのだろう。救った者を人質に取ってしまえば、もう誰も手を出せない。慈善という名の、完璧な盾だった。
クラリスの声が嘲る。
「あなたのその潔癖な正しさで、ここにいる救われた病人たちを皆殺しになさる? それとも見て見ぬふりをして、隅の者を見捨てる? ……ふふ。どちらを選んでも、あなたは誰かを殺すのよ。わたくしと、同じ」
民の視線がアレンに集まる。疑いと、怒りと、恐れのまなざしが。
「聖女様を殺す気か!」
「この、罰当たりが!」
「誰か、こいつをつまみ出せ!」
罵声が飛ぶ。石を投げる者さえいた。つい先ほど地竜から街を救った英雄を讃えたのと同じ口が、いまはアレンを悪鬼のように罵っている。
信仰とは、こういうものだ。都合よく崇める対象を乗り換える。昨日の英雄は、今日の異端。アレンが崇められることを嫌う理由が、いま目の前で証明されていた。
だが、アレンは動じなかった。罵声など四年、浴び続けてきた。泥をすすった日々に比べれば、石のひとつやふたつ、どうということもない。
それでもアレンは拳を握りしめた。クラリスの言うとおりだった。単純に暴いて止めれば、それは数百の殺人になる。ボルドのときのような痛快な断罪は、ここにはなかった。
あの下町の踊り子の顔がよぎった。あの方を悪く言わないで、とすがった娘。門前で子を亡くした、あの母親。天秤の右と左で揺れる、無数の顔、顔、顔。
どちらも切り捨てない。二日前、そう誓った。ならば第三の道を通すしかない。たとえそれが、どれほど無謀であっても。
「――止めるだけなら、な」
アレンは静かに言った。
「おまえの言うとおり、ただ光をぶった切れば、繋がれてる連中は死ぬ。だが、俺たちはそうはしない」
アレンはエレノアと目を交わした。彼女が小さくうなずく。
「エレノア」
「はい」
エレノアが両手を掲げた。白金の光があふれ出す。彼女自身の命を削る、聖なる光が。
「月雫が命を移し替える、その流れに、私の光を逆から注ぎこみます。……奪う流れを断ち切らずに、私の命で肩代わりする。そうすれば誰も死なせずに、奇跡だけを止められます」
クラリスの顔色が変わった。
「馬鹿な……そんなことをすれば、あなたが枯れる……!」
初めて聖女の声がうわずった。人質を取ったはずが、その盾ごと相手が命を投げ出してくる。まるで計算になかった一手に、クラリスは明らかに動揺していた。
「かまいません」
エレノアは微笑んだ。壇上のクラリスを、まっすぐに見つめて。
「私はこの命を惜しむ気はありません。名もなき者を燃やして成り立つ奇跡なら――その燃料に、英雄である私がなりましょう。数百の命の、肩代わりに」
アレンはエレノアの前に金剛盾を構えて立った。
「おまえは光に集中しろ。邪魔は俺が全部防ぐ」
「はい。……背中、お任せします」
クラリスが歯を食いしばり、月雫の光を強める。二つの奇跡が拮抗し、広場の空気がびりびりと震えた。
白金の光が、青い月雫の光へ真っ向からぶつかっていく。
救う者も、枯らされる者も、その両方を掬い上げようという無茶な第三の道。それをエレノアは、自らの命を賭け金にして切り開こうとしていた。
だが、その代償はあまりに重い。数百人ぶんの肩代わりを、たった一人で背負うのだ。うまくいく保証などどこにもない。失敗すればエレノアが枯れ、なお病人たちも死ぬ。二兎を追う、命を賭けた博打だった。
束ねた拳に、じわりと汗がにじむ。うまくいけと祈るほかに、できることはなかった。それでも、とアレンは思う。切り捨てない道を探すと決めた。ならば退けない。ここで引けば、二日前に交わした誓いも、泥の底で拾い上げたものも、すべて嘘になる。
偽りの祭壇の上で、二つの光が激しくせめぎ合いはじめた。数千の民が固唾を呑んで見守るなか、奇跡とその正体を賭けた静かな戦争が、いま始まった。
ありがとうございます。
クラリスは、救った者を人質に取ります。慈善という名の、完璧な盾。ボルドの空疎な虚名とは、まるで違う。石を投げる民の前で、アレンは、第三の道を選びます。エレノアの命を、賭け金にして。
次回、クラリス編の決着。二つの光が、選ばれなかった者のために、ぶつかります。




