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泥の勇者と白金の英雄 ~偽りの栄光を剥ぎ取る収集奇譚~  作者: 源三郎


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第18話 独りの街

 第18話。独り、スラムの安宿で。アレンは、失って初めて、隣にいた者の大きさを知ります。

 スラムの安宿。窓の外を、冷たい雨が叩いていた。


 軋む寝台に横たわり、アレンは天井の染みを見ていた。屋敷を出て、二日。あのやわらかい寝台も、温かい食事も、甲斐甲斐しい世話も、ここにはない。


 昔はこれが当たり前だった。泥をすすり、独りで傷を舐める。そういう暮らしに慣れていたはずだった。


 なのに、夜中にふと目が覚めると、隣の椅子に白金の髪の女がいないことにうろたえる。悪い夢を見ても、額に冷たい布を当ててくれる手が、ない。呼べば必ず返ってきた、あの柔らかい声も、ない。ただ、雨音と、自分の寝返りの軋みだけが、部屋に満ちていた。


 たった二日で、これか。アレンは自嘲した。あの重すぎる溺愛を持て余していたはずが、失ってみて初めて、それがどれほど自分を支えていたかを知る。溺れるほどの想いを、ただ重いとしか思えなかった自分の鈍さが、いまさらのように悔やまれた。


 あいつは俺のために、人を殺した。その罪は消えない。だが、と天井を見つめながら思う。俺はどうだ。俺だってこの手で、幾人も斬ってきた。魔王も、盗賊も、モルガンも。正義の名の下に。あいつと俺と、どこが違う。あいつは愛のために手を汚し、俺は復讐のために手を汚す。目くそが鼻くそを笑っているだけかもしれない。


 俺は、あいつを責める資格があるのか。答えはまだ出ない。だがひとつだけ、はっきりしていることがあった。あの女がそばにいないと、こんなにも夜が長い。突き放したのは自分なのに、いなくなって初めて、その温もりの輪郭がくっきりと浮かびあがるのだから、勝手なものだった。


 だが、感傷に浸ってはいられなかった。明日は大祭だ。クラリスが一年でいちばん多くの民を癒やす日。ということは、一年でいちばん多くの名もなき者が、その陰で枯らされる日でもある。


 止める。エレノアと何があろうと、それだけは変わらない。枯らされる者を、これ以上増やさせない。アレンは独りで動き出した。


 大聖堂の地下。使われていない古い納骨堂。そこに月雫の秘密が隠されている――聞き込みで掴んだ最後の糸を、たぐって。


 納骨堂は、冷たく湿っていた。石の棺がずらりと並んでいる。だが、その多くには名がなかった。ただ、番号だけが刻まれている。


 アレンは一つの棺の蓋を、そっとずらした。中にあったのは、若い娘のしなびた亡骸だった。あの病棟で見た下働きの娘と同じ。生気を根こそぎ吸われた者の、成れの果て。


 棺はいくつもあった。数十、いや、百を超える。みな名もなき者。孤児。身寄りのない病人。行き倒れ。誰も探しに来ない者たちだった。


 アレンは番号だけの棺に、指を這わせた。おまえたちの名は、もう誰も知らない。だが、生きていた。腹を空かせて。誰かに抱きしめられたくて。そういうあたりまえの願いを抱えて。いつもの弔いの言葉すら、追いつかなかった。数が多すぎた。ひとつひとつを悼むには、この暗がりはあまりに深い。


 それが、聖女の奇跡を支える燃料だった。


「……ひどいな」


 アレンの声が、暗がりに落ちた。怒りよりも深い虚しさが、腹の底に広がる。この者たちには名もない。だが、確かに生きていた。それを聖女は天秤の軽いほうへ乗せ、静かに燃やした。数百の、誰にも顧みられない命を糧にして。名を刻む価値もないと、そう断じられた者たちだった。


 棺のひとつに、古い日記のようなものが供えられていた。アレンはそれを手に取った。クラリス自身の、若き日の手記だった。


 ――孤児院で育った。飢えて、死にかけた。誰も助けてくれなかった。神も、英雄も。ただ一人、生き延びるために、私は賢くなった。


 ――救われる者と、救われぬ者。その差は価値だ。世に必要とされる者は生き残る。されない者は消える。それが、この世の理。私は、その理を司ることにした。


 ――多くを救うためには、少しの犠牲がいる。私が犠牲にするのは、どうせ誰にも顧みられぬ者たち。それの、何が悪い。


 文字は、頁を追うごとに乱れ、荒れていく。理屈で武装した言葉の底に、幼い子どもの、凍えた泣き声が透けて見えるようだった。


 アレンは手記を閉じた。クラリスもまた、この歪んだ国の犠牲者だった。救われなかった痛みが、あの女を「救う者を選ぶ神」に変えた。単なる悪ではない。だからこそ、始末が悪い。


 手記の最後の頁に、震える字でこう書かれていた。


 ――もし、あの日、たった一人でも、私を、価値のない私を、それでも救ってくれる者がいたなら。私は、こんな神にはならずに済んだのだろうか。


 アレンはその一行を、しばらく見つめた。この女が欲しかったのは、たぶん奇跡ではない。無条件に自分を拾い上げてくれる、誰かの手だった。ボルドが虚名を欲したように、クラリスは選ばれることに渇いていた。皮肉なものだ。エレノアが俺にしてくれたことと、それはそっくりだった。


 そのとき、背後で複数の足音がした。


「そこまでだ、侵入者」


 振り返ると、大聖堂の武装した衛士たち。その先頭に、見覚えのある黒仮面の男。ギルバートの手の者だった。


「王太子殿下より、達しがある。……この納骨堂に無断で立ち入った不敬者は、その場で斬り捨てよ、とな」


 黒仮面が、くつくつと笑う。


「それにしても、間の抜けた話だ。あの英雄様はどうした? いつも影のように寄り添っていただろうに。……ああ、なるほど。仲違いか。聖女様の置き土産が、よく効いたと見える」


 アレンは舌打ちした。嵌められた。クラリスはわざと、この糸を掴ませたのだ。証拠のある納骨堂へ誘い込み、不法侵入の咎で始末する。あるいは生け捕りにして、大祭の見世物にする。


 衛士たちが、じり、と間合いを詰める。十人、いや、もっと。狭い納骨堂で、退路はない。いつもなら、ここで白金の光が割って入る。下がりなさい、のあの一声が。だが今日はいない。俺が、遠ざけた。


 アレンは右腕に力を込めた。収蔵武具の膂力が応える。金剛盾を呼び出す。独りでも、やるしかない。


 金剛盾を構え、最初の一撃を受ける。跳ね返す。衛士が二人、吹き飛んだ。だが、狭い納骨堂では盾の反射も思うようには回せない。石の柱が邪魔をする。棺を踏み荒らすわけにもいかなかった。ここで暴れれば、名もなき者たちの眠りまで汚してしまう。


 そのわずかなためらい。その隙に、槍の穂先がアレンの肩を貫いた。


「ぐ……っ」


 鮮血が飛ぶ。片膝をつく。収蔵武具の力で痛みをねじ伏せる。だが、数が多い。回復も、支援もない。じり、じりと体力が削られていく。


「……上等だ。まとめて相手をしてやる」


 強がりを口にする。だが、その声にいつもの余裕はなかった。安全網を失った戦いが、これほど心細いものだとは。斬られても、後ろで受け止めてくれる者がいる。ただそれだけのことが、どれほど自分を強くしていたか。


 薄れかける意識の隅で思う。エレノア。おまえがいれば。今すぐ光の障壁で、この槍衾を薙ぎ払ってくれたのに。……俺は、その手を自分から振り払ったのだ。


 もうろうとする視界。迫る無数の刃。ここまでか――そう思いかけた、その刹那。納骨堂の奥の暗がりで、何かが白く光った気がした。


 独りの街で、泥の勇者は初めて、隣にいた者の大きさを、思い知っていた。

 ありがとうございます。

 納骨堂に並ぶ、名もなき棺。聖女の奇跡を支えた、数百の命。そしてクラリスの手記が語る、選ばれなかった少女の、悲しい始まり。誰も、ただの悪人ではありません。

 安全網のない戦いは、心細い。アレンは自分から振り払った手の、温もりを思います。……その暗がりに、白い光が。次回、駆けつけるのは。

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泥にまみれた元勇者アレンと 白金の英雄エレノアの旅の物語です
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